「重力01」作品合評会(2)
■井土紀州+吉岡文平「ブルーギル」
鎌田 僕がまず読者に言いたいのは、たとえば松本さんに比べて言及されることが少ないけど、とにかく『ブルーギル』を読んでくれ、ということですね。井土さんのシナリオは、シナリオだけど小説なんです。少なくとも、『ブルーギル』の簡素なそっけなさには、市川さんの『水道橋革命計画』や可能さんの『はじまりのことば』よりずっと「小説」を感じる。僕は漠然と、複数の登場人物の関係、関係の軋み合いが記述されていると同時に、それらの闘争全体をどうでもよくする別の光学がある――それが小説だと思っています。バスの中での出会いや喧嘩を描くと同時に、バス自体がひっくり返って全てを忘れる感覚かな。『ブルーギル』でも『百年の絶唱』でも、井土さんのシナリオにはつねにそういう感覚がありますね。
ただ、今回の作品に関しては、いくつか分からないことがありました。たとえば、コウがなぜ自殺するのかが分からない。そもそもそれは自殺なのか。バタやんやマルがそれを自殺だ、自分達の責任だ、と受け止めることで、読者も何となく納得する、少なくともそういう読者が出てくる感じがある。それはこのシナリオにとって強さなのか弱さなのか。
井土 結局、まだ作者の手つきが見えてしまっているということかな。
鎌田 2つの場合を考えたわけです。バタやんやマルは内面的だけど、コウにはそれを全く感じない。最初の逆転ホームランの時からそうですね。だとしたら、コウの死に対するバタやんとマルの罪悪感自体が、空虚で滑稽な自己解釈でしかないことを示すべきではないか。逆にコウが自殺するタイプの人間として描かれるのであれば、バタやんやマル、イサオとの関係だけではなく、サトミとの関係もコウの生に影響してくる。
井土 そもそも僕は、コウの死を自殺だとは思っていない。
鎌田 最初の解釈でいいんですね。
井土 いや、僕もはっきりとは決めきれていないんだ。自殺なのか、事故なのか。どうも、ドラマの遠景に追いやってしまっている気がするし、僕自身がコウという人間を掴みきれていないんでしょう。結局、まだコウが血の通ったキャラクターにはなっていなくて、作者の駒でしかないのかもしれない。僕は技術論しか言えないけれど、鎌田さんが言ったように、バタやんとマルの関係の悪化を加速させる事態として、コウの死を使ってしまっている。そこに僕と吉岡文平の作者としての手つきが、まだ残っているのだと思います。
鎌田 大雑把に言えば、バタやんとマルはナツコとの三角関係で喧嘩するわけだけど、コウについて言えば、イサオ(コウの兄)じゃなくて彼本人がブルーギルを肥料にし、実業家になってもよかったと思う。元々井土さんは、三重県全体を圧縮したような架空の都市を作っているんだから、コウがどんどん成り上がり、階級格差が生じてバタやんとマルを置いていく、という構成もあったかもしれませんね。
中島 鎌田さんの図式でいうと、コウは"関係"できない存在だと思う。徹底的に"関係"できない。マルとバタやんにはナツコをめぐって三角関係が生じる。しかし、コウはいわば「線路」の人だから、真理に向かって一直線に行ってしまうわけです。だから、コウの孤独性とか関わりのなさをもっと出すと、リアリティが出るのかもしれない。
井土 なるほど!確かに、コウには非-共同体的な人間、あらかじめ何かが失われているようなイメージが、書いている時にはあったんだよ。
鎌田 コウには関係の不在がある、という感じなんだね。
井土 鎌田さんはコウにこだわってるね(笑)。『ブルーギル』の登場人物の中で一番入れ込んでいるでしょう。
鎌田 うん(笑)。「カインの末裔」の仁右衛門かと思った。でも岸本と仲直りしていますね。本当は、傷害罪で刑務所に入れられてもいいし、その程度のことに何の痛痒も感じないはずの人間でしょう、何者も魂を動かすことができないような。でも、サトミとの関係も含めて、コウ自身の動揺が読みとれなくもない。そこに少し引っかかった。
それと、このシナリオでは父の世代がぱっとしない。和昭と岸本が、何をあいつは早まったんだ、と言っている所を読むと、老警官と和昭と岸本には同世代的な「連合」が確実に成立している。それが孫のレベルで、バタやんとマルとコウで反復されている感じがする。でも、仁史(バタやんの父)とか勝敏(マルの父)にはそもそも存在感がない。
中島 和昭はまさに"昭和"でしょう。それが岸本との世代性を規定している。
井土 アンチ・オイディプスではないけど、いわば父殺しが成立しないような世界に彼らはいる。実際に彼らの親父自体はほぼ父親らしい感じがしないし。ちなみに、岸本を殴って刑務所に入るのも、仲直りするのも、コウではなくてイサオです。鎌田さんの鋭い読みには本当に感服する反面、まったくの勘違いには唖然とするね。
大杉 老警官はどういう意図で登場させたんですか。別にいなくてもいいんじゃないかな。
中島 この世に平和ではなく剣をもたらしに来たイエスなのではないですか。拳銃を作品空間に置いていってしまうのだから。
井土 あ?、そこまで考えてなかった(笑)。僕が考えていたのは、ひとつの悪循環というか、重い運命を彼らにもたらす予言者──だからイエスではなくて、『マクベス』の魔女のような存在です。拳銃が結果的に彼らの運命を左右するのですが、その運命に彼らがどう抗うかが見たかったんだ。ただそこはうまくいってなくて、まだ運命に抗っている感じはしない。
大杉 ブルーギルは皇太子が最初に日本に放流したという話を、前に鎌田さんがしていたけど、そういう政治に直接つながるような挿話はここでは出てきませんよね。
井土 出すつもりはなかったです。
鎌田 そこが井土紀州のいい所でしょう。市川さんは小説で天皇を出していて、本人は天皇小説批判を目指したとしても、やはり流行に荷担しているように思います。井土さんの方がそれをずっと以前から考えていて、直接的には一切言及しない。構造自体が解答なんですね。
井土 もちろんブルーギルと天皇というモチーフがなければこの企画は思いつかなかったと思うけど、そのモチーフを表に出しても仕方ないという気はします。
大杉 それは「黙説法」といったものではないということですね。天皇の問題と老警官とは関係があるかもしれないけれど。
鎌田 ブルーギルはマクドナルドみたいなもんで、その異常な繁殖力に老警官は必死に抵抗する。でも、そもそもそれを肯定したのは天皇家であり、イサオみたいにそれを肥料にして成り上がる奴も出てくるから、老警官に取り憑かれたバタやんの戦線は、資本制+日本の共同体への拡大を迫られる。その一方で全てがどうでもいいコウがいる、と。図式的すぎるね。また唖然とした?(笑)
井土 でもシナリオレベルでできることと言えば、基本的には構造批評という図式的なことしかないわけですから。テクスト批評、画面批評的なものは映画になっていないと仕方がないし、僕は巷に溢れる映画の画面批評や音声批評には本当にうんざりしているから、むしろありがたいですよ。
大杉 『ブルーギル』は最初から最後まで回想シーンがなくて、時間が直線的ですよね。これは『百年の絶唱』の在り方とはだいぶ違う。例えば、18歳になってからの場面で始めて、後から子供時代の回想を入れるという方法もあるわけですが、そういう構成を取っていない。何か心境の変化などがあるんですか。
井土 それはもっと下世話な話で、むしろ情感の問題です。子どもの頃から一緒にいたバタやんとマルが、結果的にお互い色々な思いを持ち、それがちょっとしたことで決定的に訣別せざるを得なくなる。それを直線的な流れの中で経験することで、僕は泣きたかったんですよ。
大杉 故郷のことは傷つけたくないというか、河の流れのようにという感じですか(笑)。『百年の絶唱』はもっと暴力的な感じがしたんだけど。だけど、きっとこのシナリオも映画にしたら、どこかで泣くつもりが笑ってしまったというような脱臼的なずれが出てくるんだと思う。
鎌田 ちょっと話は飛ぶけど、ゴダール特集の対談で、井土さんはアリストテレス的演劇とブレヒト的演劇について話していましたね。ブレヒトの演劇の根本にあるのは、カタルシスをもたらさない中断で、ベンヤミンは明白にそれをヘルダーリンの中間休止と結び付けている。シナリオを書く時、そういう「中断」をいつも念頭に置いているんですか。「濱マイク」なんてそれでやるとまずいんじゃない(笑)。「ブルーギル」ではコウの死の唐突さがやはり「中断」ですか。
井土 中断と言えなくもないけど、コウの死はトータルの流れのなかで設計されているものだから、むしろアリストテレス的でしょう。それも上手くいっていないんだけど。僕がブレヒトから学んだことは1シーン毎の充実です。つまり、あるシーンは全体のなかの部分にすぎないけれど、その部分だけで一つの世界を構成できるものとして作っていく、ということです。映画にはモンタージュというものがあるので、それによってポンポンと組み合わせることで進めていくやり方があるわけですよ。1シーンを見ただけでは分からなくても、5シーンくらい続くことで何となく流れが読めるような作り方がある。鎌田さんが言うブレヒト的中断は、むしろ1つのシーンを構成する中で考えていたつもりです。ある状況に別の状況が介入してきて、シーン毎に事態が異化されるような形でね。
内容はいいとして、もう一つは大澤さんが言っている根本的な疑問ですね。シナリオと映画自体の差異という……。
大澤 ようするにシナリオ批評というのが成立するのかということなんです。
井土 僕にとって、言葉って、批評とかは別にしても、やっぱり自分のやっていることの一プロセスなんですね。それに、映画というものの作者を監督として語り得るのかという問題がある。「01」でも言いましたが、映画には単一の創作主体というのはないわけですよ。できた映画には複数性があるわけです。カメラマンがいたり、役者がいたり。だから、監督の名前で語られはするが、その人だけがそれを統御している世界ではないのだ、という、つねに複数性のなかで作られているから……映画の批評は難しいと言えば難しいんです。ジャンルの閉域を叫んでここに参加していても。できることはやっぱり、僕にとってはシナリオを載せることしかできなかったんだけど。
鎌田 映画も観たいけど、シナリオとして面白かった。戯曲や小説との違いも全く気にしませんでした。
沖 可能さんの戯曲の問題とも絡みますが、映画の場合、シナリオを映画になる前に発表するというのは、よくあることなんですか。
井土 昔はありましたね。最近では「月刊シナリオ」くらいしか、シナリオを掲載する活字媒体はないですけど。僕も同時代的には知らないのですが、「映画評論」のバックナンバーなんか見ると、映画にならなかったシナリオがよく載っていますよ。
沖 それはどういう意味があるんでしょうね。つまり作品としてのシナリオの意味ということですが。
井土 シナリオはシナリオで自足した世界があるわけです。この感覚を伝えるのは難しいのですが、僕は小説を読むよりシナリオを読む方が好きなんです。それは職業的なこともあるんだけど。まあ世間的に言うと、シナリオを読むことが好きな人間が少数ながら存在する、ということなのかな。
大澤 『百年の絶唱』のシナリオがパンフレットにありますよね。今回の『ブルーギル』と比べて思ったのが、『百年の絶唱』のシナリオにはほとんど会話がなくて、映像の断片を書いて、すぐ次のカットへ移るという形式を取っています。おそらく全体的な長さからみても、『ブルーギル』と比べると『百年の絶唱』の方が文章としては短い。鎌田さんはシナリオでも読めると言ったけど、それはあくまでもこの作品に限定した場合だと思うんです。例えば、『百年の絶唱』のシナリオをここで合評できるかというとかなり厳しいだろうし、絶対に映像を要求するシナリオだと思う。
井土 ただ、実は『百年の絶唱』にも全く別のシナリオがあるんです。そこからあの映画ができている。そして、できた映画からさらに採録したものをパンフレットに載せているんです。
大澤 そうだとしてもシナリオを論じることができるとは、僕は思わない。どうしても映画を前提に考えてしまう部分があるので、この作品に対しては論じられるかもしれませんが、原則は違います。僕は端的に言ってシナリオよりも音や映像について論じる経験をしたい。
井土 ただ、その場合、映像や音を誰に帰属させて批評するのか、という問題は残ると思いますよ。厳密に言えば、カメラマンや録音技師の作品として論じなければならないかもしれないし、俳優の作品として語らねばならないかもしれない。映画はすべて監督のものであるという評論には、僕はいつも違和感を覚えているから。ところで、感想で大澤さんは「可能性の保存」と言っているけれど、僕はそうは思わないんですよ。むしろ大澤さんの意見がこのシナリオを前進させ、最終的に映画の中に大澤さんの批評が生きていけばいい、と思っているんです。活字レベルはやっぱりプロセスにすぎない。
鎌田 要するに現実化しなければならない。可能性や幽霊だけを言っていたら、本当に幽霊になる(笑)。
大澤 だから僕は『ブルーギル』をどう実現できるかというレベルで、このシナリオを出したことは問われて行く、と感じています。
井土 それはそうです。ただ、実現するには「重力」の百倍くらいの予算が必要だから、もう少し時間はかかると思います。その時は、経済的自立なんて悠長なことは言ってられないと思うけど(笑)。
(つづく)