「重力01」作品合評会(4)
■可能涼介「不可触高原」
鎌田 僕は可能さんの作品を昔から読んでいますが、一番の弱点は、考えていないことですね。『反論の熱帯雨林』の「異音集」でも『はじまりのことば』でもそうですが、彼自身の想像力は極めて貧弱で、いつも他人の言葉や様々なエピソードを堆積させて物語にする。でも、どんな片言隻句や行動も様々な文脈で二重の意味があり、雑音や別のインプリケーションを避けられない。そういう現実に翻弄されたり、逆に覗き込もうとした形跡がない。だから、同じ言行録でも『論語』みたいにならない。今回の『不可触高原』でも、発明家と音楽家と小説家の三人が、身内同士飲み屋で馴れ合っている感じがします。これは、井土さんのシナリオとの決定的な差異ですね。
それから、彼があちこちで使っている「本当のもの以外を書いても全て消えてしまう紙」についてですが、こういう仕掛けをしつこく繰り返すべきではない。昔、『死霊』の第五章の「死者の電話箱」の挿話を読んで、確かに魅力的な装置だけど、ポーならこの程度の思いつきに何十年もかけない、とも思った。自分の仕掛けを大事にしたければ、それをも捨てて色んな装置をさらに発明し続けてほしい。正直、可能さんには本当の自信がないと思う。よろいを剥ぎ取ると、「『嫉妬』という物が世の中を動かしている」(214頁)、とか、誰かを誰かに紹介したら自分のことが無視されて復讐する、とかどんどん卑俗になってゆく。それだけですね。
井土 それは鎌田さんがさっきから言っている、素朴ということの真逆だよね。
鎌田 うん。自分の言葉がすごく薄い。でもそれは可能さん自身が嫉妬で動いているからなんだ。もちろんそこから出発してもいい。でも、書いていくうちにどんどん変化して文章は嫉妬に還元できない剰余を含むと思う。それを作品に感じなかった。世間を見限ることで、逆に世間から見限られた人の言葉だ、という気がします。
井土 シナリオと戯曲は似ているとずっと思っていたのですが、『不可触高原』を読んでずいぶんと違う感じがしました。シナリオよりも自由なんだなぁ、というか。まあ、これは可能さん独特の頭脳演劇、上演を前提としない戯曲だからかもしれない。僕の場合は映像化を前提として書いているから、他人のシナリオを読むときにも面白みを見出せるけど、可能さんの戯曲を読んで「こんな演劇を見たいたいなぁ」とは思わなかったですね(笑)。そこで自分との差を考えると、僕は言葉のレベルに留まっていないけど、可能さんは言葉のレベルに留まったところで勝負できる戯曲をやろうとしたのかもしれない。
沖 僕も同じようにシナリオと比べて読みましたが、皮肉だと思うのは、映画化を前提に書いた井土さんのシナリオの方が読み物として面白く、上演を前提にせず、言葉だけで勝負した可能さんの戯曲の方が面白く読めなかった。これはどういうことなのか。もちろん上演を前提にしない戯曲でも面白い作品は可能かもしれないので、それが必ずしも原因ではないのかもしれないけれど。
中島 上演を前提にしていないから、結局は人物が生きてこないのではないか。
井土 人物が生きてないというのは、本当にそう思う。さらに登場人物同士の関係もよく分からない。知識を投入した台詞だけが異様にある。でも、これはシナリオのレベルで切る問題でもないだろうし、何なんでしょうね。
大澤 上演には、色々な面倒くささがつきまといますよね。映画にしてもシナリオと実際の映像との絶対的な違いをはじめ、役者との付き合いなど色々なものが入ってくる。単にそういうものと触れたくなかったのかな。ところで可能さんって、普段もこういう地名や神にまつわる話をするんですか。その観点から読むとどうなのかなとちょっと思ったのですが。
大杉 本当に可能さんが日常的にしゃべっていた感じがそのまま出ていますよね。普段、よくこんな話をしているなぁ、とか思ってね(笑)。そうして読んでみると、その割には意外性がないでしょう。色々な知識をひけらかしているけど、結局はたいしたことを言っているわけではなくて、常識的なところで納まってしまう。
鎌田 まあ、第二部で登場人物がひけらかす饒舌は、一番肝心な事柄を回避するためだ、というのはわかる。「私は確かに、あのアメリカ人と寝たわ」(226頁)ですか。ただ、むしろそう読んで欲しがる作者の表情がすけてみえる。だからといって、地名の由来がどうこうというおたく的な話が筋と一切関係ないのかどうか。
大澤 そこを知りたいですよね。僕は不可触高原は高天原だと思いました。『古事記』だと天照大神が支配する天上界ですね。八百万の神がいる。天上にいる神が大きな岩に降りてくるという話で、いちおうそれが天皇の祖先ということになっている。だから天皇の問題に引っかけつつも、それについては具体的には論じないし触れられないという意図があるのだと漠然と考えていました。これは第二部の触れられない関係と重なっているわけですね。そういう場所をわざわざ選んだのだと思っていたんです。岩倉とか磐船とかね。
井土 それはあるんじゃないかな。
沖 二幕がそういうものだとすると、それを間に挟む一幕と三幕はどういう意味を持った部分なのか。
鎌田 大雑把に言ってしまえば、第一部はSとヨーコが喧嘩するけれど結局は仲直りする、という筋ですね。若い時に書いたせいか、ここはまあ読める。だとしたら、なぜ第二部でTとヨーコがあちこち旅行する話になってしまうのか。
大澤 紙の秘密を発明家に探らせるために、Sが行ってこいと言った結果、そういうことになったのではないですか。
鎌田 でもTとヨーコはすでにつき合っている。バタやんとマルがナツコについてやるような下らない争いの後がいきなり第二部になっている。
中島 Sが紹介しているんですよ。紹介でつき合ってしまうんですね。
鎌田 説明が何もない。なくてもいいけど、第一部のパッションを否定する説得力が後には全然ない。
井土 さきほども言ったように、作者には嫉妬という感情があるのかもしれないけど、登場人物に感情がないんですよね。俺だったら感情と関係でぐいぐい押す方向を考えるけど。
大澤 そこはSがある程度踏まえているんでしょう。紙の秘密を探ってこいと言って二人を旅行にやるわけだから、葛藤もあるだろうけど、それよりはまあ……。
鎌田 Sがどういう意図でヨーコをTに渡したのかという話の結末は、「その黒髪の生産者、ブロイラーのニワトリとして、俺はお前を国に売り飛ばしたのだ」(232頁)という記述からわかることですよね。それとも途中であったのかな。
沖 いや、もうちょっと前にあったと思うんですけど。
大澤 「あの発明家の家にいたんですよ。あなたが頼んだそうじゃないですか。『白い紙』とは何かを探ってこいと」(229頁)という文章から、半ば共犯的にSがヨーコを発明家の家に行かせたために、結局ヨーコと発明家がくっついてしまったというのがわかりますね。
鎌田 謎解きはできている。でも、人間的に納得できない。
大杉 『はじまりのことば』はまだ良かったような気もしますけどね。
鎌田 でも、白い紙の話がまた出てくる。柄谷さんとキャッチボールをした話とか(笑)。
大杉 でもあれは柄谷さんだとは書いてないわけだから、素直に読んだ子どもには分からないわけだよね。
鎌田 だから僕は努めて好意的な書評を書いた。でも、彼はそれを批判だと思う位自分に甘かった。
大杉 少なくとも童話には、地名などの固有名を使った知識のひけらかしはありませんね。そこまでしたら童話ではなくなってしまう(笑)。
鎌田 作品内在的な分析に値するところがないんだよ。
大杉 でも、本当に触れることができないのかな。可能さんは部落の話が好きだけど、そういう、想像的な差別を現実的に言うような感じがある。
中島 確かに、細かい分析はいくらでもできると思うけれど、分析させる「何か」がない。タイトルからして、不可触だと言ってしまうわけです。本当は触れられるのに、あるいは触れたら色々な物事が出てくるかもしれないのに、はじめから不可触だということにした上で、物語を構成しているような気がする。というか、中上健次的に言えば「物語=法・制度」そのものが「不可触」なのであって、重要なのは、その「不可触性」を追認することではなく、それを侵犯することでしょう。
鎌田 だから最後に、作品とは無関係なことを言います。僕は、可能さんにがんばってほしい、とずっと思っていたけど、これ以上は一緒にやれない。怒ってはいない。ただ呆れていました。彼は自分から怒って『重力』を辞めたけど、少なくとも同程度に僕が彼を見限っていた、という現実も腹に入れてほしい。僕をねじ伏せる、唖然とさせるものを書いて欲しい。心からそれを願うだけです。その時はまともに論じるし、自分の見当違いを手をついて謝るけど、今のままではだめだ。一人で行動すべき時に身内でつるんで、一緒にやるべき時にそっぽを向く独善はうんざりです。
(つづく)