「重力01」作品合評会(6)


■西部忠 社会企業家オーウェン

 僕にとって西部さんの主張はいつも、スタンスの取り方が難しいところにあるんです。西部さんは社会主義計算論争の綿密な研究から出発したのですが、それはある意味でマルクス主義やマルクス経済学における――負の部分を含めた――遺産を確認する作業でもあったわけです。ですから、西部さんの主張に問題を感じたとしても、単純に反動的である、という身振りはできないということが一方である。しかしながら他方で、マルクスをこれまで自分なりに読んできた者として、西部さんが今とろうとしている方向に対する疑念もあります。
 ということで立場は微妙なのですが、多少暴力的に批評することにします。まず、二章に「性格形成原理による自由主義批判」がある一方で、五章で「社会企業家オーウェン」という、企業家──僕は資本家と言ってしまえばいいと思うんだけど──としてのオーウェンを称揚する部分がある。この二つの章の内容は理論的に融和できるものなのかが第一の疑問です。西部さんとしては際どいけれどできる、という確信があるのでしょうが、それを信用していいものなのか、明確に説明されていない以上、なんとも言えません。もし融和できないとすると、二章と五章とを単純に比較した場合、どうしても「社会企業家オーウェン」の方が印象が強くなってしまう。先ほどの話ではないですが、この方が『プロジェクトX』っぽく話にオチがついて面白いというわけです(笑)。もちろん無名性の問題は僕も重要であると思うのですが、それを『プロジェクトX』のようなかたちで安易に持ち上げることに対しては、注意したいと思うわけです。
 次に、個別的に検討します。まず性格形成原理に関してですが、これについて批判的に書いていない以上、西部さんもこの原理を支持していると思います。オーウェンはこの原理を自分の工場や共同村の成員に対して適用したわけですが――自分自身を含めて――資本家はその対象から除外している。オーウェン自身がそうだったというのは仕方ないとしても、少なくともオーウェンについて書く西部さんは彼にも性格形成原理を適用すべきだと思うんです。その上で考えてみると、優勝劣敗の市場で勝ち残ってきたことが――「やけど」の問題を別にすると――オーウェンの性格を形成した、という話になりますよね。しかし、そうだとすると資本家と労働者の区別をはじめから前提にした上で性格形成原理を二分法的に使い分けることにならないでしょうか。オーウェンのような資本家は優秀なのだから市場で活躍すればいいけれど、その能力のない労働者は共同村に囲まれて生きればよい、と。その上、労働者の性格はオーウェンが一方的に考えた原理によって形成されるという話になってしまう。僕はそれは問題ではないかと思う。これが性格形成原理についての疑問です。
 二つ目は、ニュー・ラナークとニュー・ハーモニーでの実験についてです。これについては大澤さんも感想で言っていましたが、やはり成功よりも失敗を重視すべきではないか。ニュー・ラナークの成功というのは、資本家としてうまくやったという話なんですよ。これに対しニュー・ハーモニーの実験では資本家よりも社会運動家としての側面が出てきて失敗する。それは単に共同村の内部がうまく運営できたかどうかということではなく、資本主義とうまくやっていけた実験とやっていけなかった実験という話です。ニュー・ラナークの成功にも拘わらず、最終的にオーウェンは資本主義と共存しえないニュー・ハーモニーの実験を意図的に選ぶのですが、おそらく西部さんのなかではこの実験はネガティヴに評価されている。もちろん失敗したという意味ではネガティヴだろうけど、オーウェンを捉える場合に、どちらを評価していくかは大きな分かれ目になるのではないか。

鎌田 西部さんの前提はこうでしょう。確かに性格形成原理があり、その水準においては、人間の行動は環境や慣習に拘束されている。ただそれは、事実としてそうだ、というだけですね。シュティルナーが言うように、人間には自由はない。「自由」も結局はある文法内部での空想上の勝利でしかない。でも、そのことが闘争全てを無意味にするわけではなくて、逆にそれが真の闘争の出発点なんですね。
 だから、シュティルナーとマルクスのずれがさっき話題になったけど、シュティルナー自身に本当はずれがある。それは、彼が「自由」に「自己所有」を対置する時だと思う。西部さんの論文でそれに当たるのが、資本主義的市場に対置される「市場」ではないか。資本主義的市場に内在する限りは蓄積などによる拘束があるけれど、だからといってコミュニタリアニズムのように徳や善を内在化した共同性に復帰することはできない。それらは拘束のヴァリエーションでしかない。資本主義的市場/共同体の両方の拘束を覆すものが「市場」だと思う。それはいわば、無数のシュティルナーが商品交換をやる場所なんでしょう。

 まず前半の話でいうと、性格形成原理自体は規範的主張ではなく事実的なものであるというのはその通りですが、いずれにせよその主張に目的はあるんですよ。たとえば労働者だと、生産性の高い労働者の方がいいのであって、性格形成原理に則れば優秀な労働者を排出する学校や工場が必要だという話に結びつく。一方、オーウェン自身について言えば、単に市場があればいいだけではなくて、オーウェンのような厳しい競争に勝ち抜いた人間が望ましいということとセットになっている。この発想を僕は問題にしているんです。
 後半の話でいうと、それ自体としてはすごくまっとうである西部さんの市場理解とは違う市場を、僕は問題にしたいんです。それは、望ましい市場ということではなく、市場をどう理解するかというレベルにおいてですが。資本主義的市場と抽象的な市場、あるいは社会主義的な市場など、多様な市場というものを西部さんが考慮に入れているのはわかりますが、市場と資本の運動が本当に切り離せるものなのかが僕には根本的な疑問なんです。資本と労働力との出会い、あるいは、市場(流通)と生産との出会い、それはもちろん産業資本主義が成立する際に非常に重要な出会いでしたが、それ以前の生産を掴まない市場にも資本は存在したわけです。それは小規模で付随的なものかもしれないけど、僕が理解するマルクス理論なり宇野理論の考え方では、少なくとも市場と資本の運動とは単純に切り離せない。たとえば、地域通貨であれば資本の蓄積は起こらないという主張があります。もちろん非常に使いづらい通貨なので、そんなもので蓄積しようとは思わないというのは別として、十分に機能する地域通貨を想定した場合、本当に資本の蓄積はないといえるのか。利子がないことを根拠にする人もいますが、それだけでは貨幣の「蓄蔵」が抑制されることがあるとしても、資本の「蓄積」を止めることはできない。

鎌田 資本を廃棄したら共同体だけが残るんですか。

 いや、そういうことを僕は主張しているわけではない。「市場か計画か」「市場か共同体か」という問題自体を俎上に乗せなければならないと言うのはその通りです。しかし、そのことを一先ず措いたとしても、共同体も計画もダメという結論になった場合、帰るところはやっぱり市場になってしまうのか、ということを今更でも僕は考えたいんです。

鎌田 不自由のなかで見出される自由こそがあり得べき市場だ、と西部さんははっきり言っている(265頁)。松本さんみたいだけど。自由の観念が抽象的でプルードン的な場合には、「存在は環境に拘束される」というマルクス的な前提に立ち棄却する。しかしその上でなお、自由は存在する、と。彼はここでユートピアと書いてしまっていますが、これは資本主義的市場とは異なる「市場」における自由のはずです。それは、「現時点で我々は自由である」とか「理論の構成上自立的な個人から出発する」という意味の自由とは違います。最後に出てくる社会企業家としてのオーウェンも、事実的な不自由を承認した上で制度や環境を変えていく企業家です。制度の桎梏から主体を解放する闘争過程自体が「市場」である。最低限、性格形成原理を事実として承認することに関して僕はなんの異論もない。沖さんもそうでしょう。

 それはそうです。

中島 西部さんの論文に即していうと、性格形成原理はオーウェン自身の火傷体験から来ているわけですよね。「『やけど』という欠損や受苦は、やがて自然と社会とによって強制された労働者の貧困と荒廃へと転移していく」(260頁)と。これは下手をすると、オーウェンが持っていた欠点の一つに読み替えられてしまう可能性もある。自らのやけどという固有性を、無闇に労働者一般に拡張してしまうわけだから。
 一番問題だと思ったのは、オーウェンの可能性を評価したいがために、マルクスは意外とオーウェンを評価していた、という語り方をするところです。しかし「個人を諸関係に責任あるものとすることはできない」というマルクスの文脈と、「個人を責めることはできません」というオーウェンの文章が本当に同じことを言っているのか、僕には疑問です。そのようにオーウェンとマルクスの差異を消滅させてしまったことが、ニュー・ハーモニーの失敗の分析にも向かえなくさせているのではないか。

鎌田 性格形成原理はマルクス自然史的立場に等しい、という主張に、僕はさほど抵抗を感じなかった。

 「存在が意識を規定する」というレベルで言えば、それほど違わないのかもしれませんが、少なくとも中島さんが指摘した『資本論』序文の「ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりのことである」という文章、これは性格形成原理の話ではない。これは『資本論』では資本家を資本の「担い手tr拡er」として捉えると言っている文章であって、むしろ資本家の性格など問題ではない。ここを引用するのであれば、「社会企業家オーウェン」などと本気で言えるのだろうか、と思います。

中島 経済的諸範疇の人格化、つまり資本と賃労働の関係や、売る立場と買う立場の関係がどうしようもなく存在するというマルクスの主張を、オーウェンは捨象している。『批評空間』に橘孝三郎がオーウェン主義者だったという話が出ていますが(第III期4号)、売る立場と買う立場の関係を捨象して性格形成原理に持っていったオーウェンの思想自体に、右翼的な共同体主義に帰着する要素がすでに孕まれていたとも考えられる。マルクスとオーウェンの「類似」ではなく「差異」を、もう少し見なければならなかったはずです。

鎌田 逆に、マルクスにつながるものを見たければ、「性格」の規定を変えないといけない。善人だろうが悪人だろうが、現実のふるまいにおいて演じさせられてしまう、というレベルで。

 いや、僕はそういうふうに性格を捉えるべきだと言っているのではない。このマルクスの引用で言われていることは性格形成原理とは違うのではないか、と言っているだけです。

鎌田 だから、西部さんの方で性格概念を転釈して捉えたわけでしょう、マルクスの自然史的立場を強引にオーウェンに見るために。認識的なレベルにおいては、我々は完全に拘束されている。善悪を問わず、ある強制が我々を資本の運動の担い手にする事実的レベルがある。でもそれは、オーウェンやマルクスがあくまでそこから離脱し自立すべきだ、という前提に立ち、そのゆえに社会企業家や活動家であった事実と矛盾しない。僕にとってもそれは基本前提です。
 もう一つ、「市場」の主張が重要なのは、資本主義的市場を批判するあまり、ある種の共同体主義に回帰する危険性を断つためですね。何かを批判したつもりで、特定の善や徳を手続的な正義より重視して、それを共同体内の成員全員に強要するようなことになるのはたまらない。どんなにいいことでも、公正な多事争論の通過が、みかけの制度だけでなく運用のレベルで実行されていないと意味がない。NAMだって、結局それができないから悲惨なことになる。それで、西部さんにとっては「市場」こそがそれを担保するものだと思うんですね。その分、ニュー・ハーモニーに冷淡になるのは不可避かもしれないけど。

 ただ、ニュー・ハーモニーだろうとニュー・ラナークだろうと、その共同体の内部に市場などないわけで、あるのは外部と結ばれる市場だけです。これに対しLETSやQは──これは共同体ではないのだろうけど──市場を別のかたちで内部に導入しようということでしょう。閉じた共同体を作ったオーウェンは評価できないにしても、単に開けばよいということではない。市場をどのようなかたちで導入していくのか、慎重に考察しなければならない。

鎌田 結局、このオーウェン論を批判したければ、「市場」はある、それはQという「技術」でもたらされる、という西部さんの仮説自体を理論的に批判する以外ないと思います。友人として言えば、彼は実生活でも思想でも非常に浮気っぽくて、流行に感染しやすい「性格」に長いこと翻弄されてきた人です。ハイエク論(『市場像の系譜学』)の時点でもまだそうだったかもしれない。でも、Qをやり始めてからの彼にはそういう印象がない。かといって自分の「性格」を乗り越えた、と言いたがるわけでもない。何か平静な変化を感じます。だから、このオーウェン論をどちらのレベルで批判するかですね。社会企業家、と言う時の「社会」をどう理解するか、ということにもなりますが。

中島 「彼[オーウェン]は、この性格形成原理の布教を進めるうちに、古い制度を擁護しようとする人々の観念における頑迷かつ強力な自己維持的性質を知ることになる」(272頁)という一文に、当の西部さん自身の苛立ちや焦りを読み込むのは、やはり穿ち過ぎでしょうか。鎌田さんの言うことは分かるけど、今西部さんの論文について批判するのは戦略的に良くない、と聞こえかねないところがある。それではまるで、「俗情との結託」(大西巨人)ではないか。

大杉 合理的宗教って言っているけど、やっぱりどこか宗教的なんですよね。

大澤 オーウェンについて見たいものだけを見ようとしている気がしますよね。本当に議論があるレベルでなされているならば、ニュー・ハーモニーを簡単に切ったりしないのではないか。せめてもう少しつっこんだ議論をするでしょう。

中島 そうなんですよね。

大澤 『資本論』は帝国主義についてわずかな記述しかなく、基本的に一国資本主義的型で考えていますね。もちろん時代的な制約があるから、可能性の中心において読めばまた違うのかもしれない。しかし西部さんは、帝国主義を見なかったマルクスをそのまま輸入してしまっている。それによってオーウェンの成功自体が実は帝国主義的への荷担だった可能性や、それゆえオーウェンは成功にも関わらず、失敗の大きいニュー・ハーモニーへと移ったのではないか、という視点が欠けている気がした。

 ただ、教科書的な分け方をすれば(笑)、この時代は帝国主義段階ではないですよね。だいたい重商主義から自由主義への過渡期ぐらいに当たると思います。特に一八世紀中葉は、イギリス資本主義があたかも自立しているかのように現れていた時期だった。

大澤 東インド会社は一六〇〇年からあるわけですよね。産業革命によって大量に作れるようになった商品をインドに安い値段で売りつけることで、インドの伝統的な工業がどんどんやられていく。さらに原料自体は残っていたがために、インドは第一次産業化してしまう。オーウェンがそういう状況と無縁だったかわかりませんから、事実として間違っていたら訂正しますが、もしそういう構造の上にオーウェンの成功があるのだとしたら、やはりそれは独占資本的帝国主義の萌芽のようなものに結びついていたのではないか。

鎌田 帝国主義でなくとも、イギリスとそれ以外の諸国の不均等発展に、ニュー・ラナークの成功自体が依存していたということですか。それは基本的に正しい指摘だと思う。

 でも、外部との交易を重視する一方で、西部さんは内部における生産(製造業、工場)の必要性を強調しますよね。この理由も考えてみましたが……やっぱり外部に対する依存を最終的には絶ちたいのかなぁ。LETSにしても、生産者が必要なのはそうでないと内部でやっていけないからでしょう。

鎌田 僕は今、西部さんと分担で「重力01」をQで販売していて、Q長者なんだけど(笑)、買う物がなくて困ります。もちろん、僅か一年弱で日本の地域通貨としては最大規模になり、僕達が相当ひどいことを言っているのに、「重力」も代行販売を含めて20冊以上売れたから、Q市場の潜在力はすごい。僕の見方もそれで変った。ただ、やはり企業や商店がもっと多いといいですね。新刊本は今や「重力」しかない。レポート用紙やプリント用紙も売っていなくて、マッサージとか人生相談とかサービス業に偏っている。そんなもの、まだ若くて元気だからいらないよ(笑)。宇野弘蔵的に言うとね、Qでは流通が生産をまだつかんでいない。これは長期的に解決すべき問題だけど、オーウェン論で企業や産業連関の必要性を強調する時、西部さんがQの将来設計をそこに仮託している感じがするのは確かですね。

 その一方で、西部さんは外部をすごく強調するじゃないですか。

鎌田 地域通貨に即して言うと、Q単体では仕方ないから、Qを含め色々な地域通貨の分散をつなぐmulti-LETSが不可欠だ、という構想と関係している。

 LETS内だけでは現実的にやっていけないから外部が必要なのか、それとも、もっと本来的に外部が必要だと考えているのかが、そこが分からない。

井土 資本主義というのは外部が必要なわけですよね。

 それは難しい問題ですね。おそらく西部さんはそう考えているのだろうけど。外部が必要だと考えるのは世界資本主義論(岩田弘)ですよ。しかし本当にそうなのか。資本主義が労働力以外の外部を必要とするということを原理的=内的に明らかにするのは容易なことではない。外部があればそれはそれで巧く利用するでしょうが、なくてもやってしまうのではないか。この問題は「02」に書く論文でも扱うつもりですが。

大澤 資本主義的な意味での内部と外部があり、さらにそれ自体をも相対化するような外部がある。資本主義を相対化させる外部に向かってアソシエーションを開いていくならいいですが、都合のいいところでは資本主義的な意味での内部・外部の議論になり、本質的な外部における生産や消費の問題が置き去りにされているのだとしたら、仮にLETSがある程度展開しても、理論的に資本主義に敗退するでしょうね。
 沖さんに聞いてみたいのですが、だいたい産業資本内でマルクス主義者が闘争するとゼネストみたいなことになりますよね。でもそれは外の関係を捨象したところでの闘争であって、商業資本には本質的に抵抗できないから資本主義への抵抗にはならない。他方で闘争を商業資本のレベルに限ってしまうと、産業資本の重要性を見落とすことになる。ようするに資本に抵抗するだけではだめで、商業資本でも産業資本──貸し付け資本は僕にはわからないので──でもない新しい生産と消費を生み出すような展開が必要だと思うんです。それともそういう展開を考えること自体、レトリカルに問題を解決させてしまう欺瞞につながるのでしょうか。資本主義とは違う市場があるのではないかという考えすら、沖さんは批判するのですか。

 いや、そこで言われている資本主義とは違う市場というのが、どんなものなのかが問題なんです。少なくとも資本主義的市場を揚棄したつもりで小商品生産社会(自分で直接生産した商品だけを交換しあう社会)の想定に再度陥るようなことには注意すべきです。
 可能性を考えること自体はいいことだと思います。でもそこから一歩踏み出す瞬間があるとしたら注意したいわけです。西部さんは、少なくとも今はもう踏み出している。その踏み出し方に確信があるのでしょうが、僕はその方向で本当にいいのかと思うんですよね。

鎌田 確かに、踏み出し方は試行錯誤で、無限に修正すべきだと思う。

大澤 西部さんの論文が踏み出し方を本気で考えているのであれば、ニュー・ラナークを評価して、ニュー・ハーモニーを一頁で片づけることはできないはずです。それを簡単に済ませてしまっているせいで、LETSが既存の産業資本と商業資本を揚棄する新しいアソシエーションとして理論的に考えられているのかが見えにくい。今のところは実現できているけど、ある困難があって、その前で口ごもりながらやっているかどうか疑問です。

鎌田 「古い制度を擁護しようとする人々の観念における頑迷かつ強力な自己維持的性質」(272頁)という批判で全てを切り捨てているのかどうか。もしそうなら問題ですね。古い制度の手強さを知っているがゆえに、何が新しいのか反問する人もいるはずで、切り捨て方次第で、そうする側の底の浅さが逆に見えてくる。でも、それは西部さんじゃなくて柄谷さんに言えることでしょう。フットワークを誇示して、自分だけが急に新しい運動家になり、周囲はみんな頑迷な批評家になる――その時にこそ、自分の批評の古さを暴露しているのがわからない。でも、西部さんについては、創刊号で『重力』の参加者だったのは相当のことだったと思うよ。全体討議の時かな、大杉さんが、Qと阿Qは紙一重だ、という意味のことを西部の前で突然言ったでしょう。僕は泣きたくなったけど、むしろ二人で冷静に話し続けていたよね。それは、いかなる善も信念の強度だけでは真理性を獲得できない、という前提に互いが立っていたからではないか。僕には、それが西部さんと柄谷さんの決定的な差異であり、早晩QとNAMの差異として示される気がします。

(つづく)