「重力01」作品合評会(7)


■松本圭二 アストロノート

中島 松本さんの「アストロノート」という作品、これは鎌田さんが「進行中の批評」で書いていたように「タクシー・ドライヴァーズ・ユニオン」という先にあった作品が破壊され分裂していったようですね。確かにその過程がよく分かるものでした。同時にこの作品はそうした「分裂」とともに超越論的統覚について語っています。「視覚はここで最終的な統覚の役割を命じられる」(40頁)。言葉が分裂しながらも、しかしどこかでその意味を取れるような部分があって、その破裂、分裂とかりそめの統御との繰り返しで展開して行く。その形式においてすごくリアリティがある詩ではないかと思いました。

大澤 ストーリーがあるんですよね。タクシー・ドライヴァーズ・ユニオンという、世界軍と闘う組織があって、家族の問題などの理由からそこを離脱した詩人=ゲイブ、ガブリエル、ジェイコブ──一人の詩人をいろいろと言い換えているんだけど──その詩人が翻弄される事態を強いられる。他にも、浮遊霊や自縛霊といった無数の霊の水準で話してもいる。だから中島さんのまとめでだいたい当たっていると思うけど、具体的にはそういう構造のなかに複数の語り手たちがいるというふうに僕は読みました。

鎌田 最初、「重力」に発表する作品でも活字の大きさを変えると松本さんは言っていたので、今までの「アマータイム」や「どいつねんたる」と同じ調子でやるのかと思っていましたが、そういう手法を一切やめましたね。しかも、他の参加者に遠慮や妥協をしたのではなく、自分から積極的に同じ活字で諸レベルの言語を並列させる手法を選択した。それは結果 的に良かったと僕は思う。

大澤 松本さんと文字の組み方について話したことがあるのですが、凝った文字組は自分の単行本でやるから構わないということでしたよ。認識的なレベルで同じ大きさを選んだというより、単に「重力」における制約があったから──

鎌田 じゃあ単なるバランス感覚なの。

大澤 この作品を単行本化するつもりなのかどうか、詳しいことは分かりませんが、ただ、文字組みなどの手法を認識的に切り捨てたわけではない感じがしましたね。

鎌田 でも、雑誌という制約とは無関係に、根本的な貧しさを選択した。そう僕は思いたい。松本さんはとにかく活字に関して贅沢でしょう。でも、趣向抜きで勝負すべき時もある。

 僕は現代詩を読まないから、これがいい詩なのかどうか分からないんですけど、これ……びっくりしたね(一同爆笑)。この作品は「重力」でしかあり得ないと思いました。こんなに長い詩を普通 は載せないという外的な問題もありますけど、「重力」に書くことについて書く、という自己言及的な内容が作品のかなりのウェイトを占めている。だから「重力」という媒体でしか存在し得ないと思っていたので、この作品を単行本にも載せるかもしれないという大澤さんの話を聞いて、二度びっくりしました(笑)。

鎌田 締切がどうこうとか、井土さんと一緒に詩人君のキャラクターを作るとか、僕に怒られるとか、初読の時は内輪受けすれすれと思ったし、今でもそういう面 はある。

井土 それでも言葉に向けて言葉を書いている気はするんです。「アストロノート」の制作過程を想像すると、「重力」の中で最初に出た原稿は「不可触高原」だったのですが、それを読んで「タクシー・ドライヴァーズ・ユニオン」という作品が「不可触高原」批判を含みつつ壊れていったのではないか。

大澤 それは……あまり弱い相手をねぇ(笑)。

井土 でもその時点で読める原稿は「不可触高原」しかなかったわけだから。

鎌田 最初の詩(4頁)の水準はどう思いますか。

井土 これはメール批判でしょう。松本さんはデジタルが嫌いなんだと思う。言葉は液晶画面 で見るものではないというのがどこかである。

大杉 でもメール的な「文字の発明」を「諸悪の根源」と否定した時、どこに行くかというと、演歌的な叙情に帰着するのだとしたら、問題だと思う。吉田一穂や中原中也の名が出てくるけど、そういう人たちから切れてないのかもしれない。

大澤 でも、そうだとしたら彼らの水準でやるべきです。中原中也だって、簡単に馬鹿にできるとは思わない。詩人君では済まないでしょう。

大杉 いや、僕もそう思うから言っているんですね。むしろ彼らに負けている。もちろん叙情にも徹しきれないで散文的なものに傾斜するところに現代的なものの刻印が打たれているのかもしれないけれど。

大澤 「重力」のなかで、普通の詩は書きたくないと言っていますよね。でも、普通 の詩を書くのはものすごい厳しいことだと思う。僕にとって詩というのは、最後の言葉を言うことでかろうじて最初の言葉を言うような感覚なんです。この言葉自体、松本さんが山本陽子の書評で書いていることだけど。そういう感覚で書かれることが詩の条件だとしたら、それを「普通 の詩は書きたくない」という言葉で切り捨てることはできないでしょう。

鎌田 僕もそう思う。単に普通の詩を書いて欲しい。ただ、最近の松本圭二には絶対的な自信がありますね。とにかく堂々としている。ABCのシンポジウムでも、「射程が短い、何年かしか持たない議論をしてどうする」とか、ゲストも僕達も全員やっつけられた。そんなところで評価してもだめですか。

大澤 ダメでしょう。

大杉 詩人がもう一人いると、何か言ってくれそうだね。

大澤 そうですね。でもそれだと、またジャンルのなかでの話になってしまう。

鎌田 確かに松本さんはすごいし、何かがある。でもそう思った途端に、何ものでもない、としか思えない面 もある。いいと思うとダメに見えるし、ダメだと思うとよく見える人なんですね。それは、彼が自分で言っているけど、周りの人間の期待には絶対に応えるな、という原則を生きているからなんでしょう(笑)。ただ、こういうことは言える。彼の詩はエッセイの強度に届いていないのではないか。さらに言えば、この「ミスター・フリーダム」というエッセイ、僕は松本さんが書いた文章でこれが一番いいと思って、巻頭に置くよう提案したんですが、これにすらある種のひ弱さがあるのではないか。どう思いますか。

大澤 最初松本さんの詩だけを読んでいた頃は、正直言ってまったくいいと思いませんでした。良くないだけで、何とも言いようがない。ただ、エッセイを読んだら良かった。それでああいう感想を書いたんです。鎌田さんの批評と似てしまって、後々いやになったんだけど。
 松本さんは、詩を書く上で認識的に間違っている部分があるのではないか。エッセイの認識でエッセイを書くことと、そこから詩を書くことでずれが出ている気がする。「ミスター・フリーダム」を書いた人が書く詩だとは思えないんです。

鎌田 「ミスター・フリーダム」では、「私が嫌うのは、こういう惨めで、おいしいところの全くない現代詩の外に、別 の現代詩、大いに読まれて、モテモテで、尊敬され、金も稼げる現代詩があってしかるべきだと夢想し、あんなアホないわゆる現代詩とは一緒にして欲しくないという態度で業界をゴロついている連中だ」(59頁)と書いている。しかし、かつての松本さん自身が、金も稼げるし尊敬されるしモテモテだし、いわゆる現代詩とは違う、という態度で業界をゴロついている若者だったはずです。それはそれで若々しくて、僕は嫌いではない。今やったら馬鹿だけどね。敵対すべき相手は別 にいるんですよ。

井土 しかし現代詩を選ぶ時点で、儲かってモテモテになるなんて思うかね(笑)。

鎌田 でも彼は映画俳優だったんでしょう。

井土 俳優と言ってもピンク映画ですからね(笑)。

大澤 話を戻すと、詩はよくないと言ったけど、「青猫以後」はいいと思ったんです。特に最初の部分のヒリついた感覚がすごくいい。途中から「アンドロメダ教授爆発!」とか自暴自棄な形になってしまうのが残念ですが。

井土 「アストロノート」と「青猫以後」を比べると、「青猫以後」には妙に切迫感があるんだ。この切迫感は何なんだろう、と僕も驚きました。その前に発表された「どいつねんたる」はもうちょっとコミカルな感じでしょう。「青猫以後」では、自分の家庭も危機で、今後自分が働いていくことすらも危機であるような書き方をしている。「アストロノート」にはある種の余裕があるので、結局危機は回避されてしまったのかもしれませんね。

大澤 それが気になりますよね。「アストロノート」では「青猫以後」の稿料が一枚いくらという話になってしまっていますが(25頁)、これは値段の問題に還元できない問題だったはずです。もしかしたら「青猫以後」に対する周りの評価がなくて、その方向性を自ら断ち切らなければならないところまで追いつめられたのかもしれない。

鎌田 「青猫以後」の評価で「アストロノート」の方向性へと変化したのではないでしょう。むしろ、自然に安定し、中年化しつつあるんだと思う。時々会うけど、最近特に落ち着いた感じがしますね。それで僕は、安定したのに自己欺瞞的に不安定なふりをする位 なら、単純に「おっさん」の詩を書いてほしい。

大杉 先ほどのDTPを使わないという話ですが、それはあくまで活字にとどまるということなんですか。本質的には手書きにすべきだ、というところまでは行かないのかな。活字メディアにしてもそれ以前のメディアを抑圧してきたわけですからね。

鎌田 彼は、詩というよりは「詩集」にこだわっている。「アストロノート」でも書物が印刷される過程を書いています。「私はこのテクストにリュウミンLKLという書体を選んだ。なぜなら電算写植というテクノロジーの段階──滅びつつある──にとってそれが最もオーソドックスな本文書体だったから。」(51頁〜)。アナログがデジタルに技術的に代替されることで、物質性を喪失する過程を書いている。「アマータイム」も同様で、滅び行くテクノロジーに賭ける、と書いている。これらを読むと、「アマータイム」と「アストロノート」の間に切断があるのかどうか、僕にも分からない。――ただ、こうは言えるでしょう。「アマータイム」の父親は若々しいんです。子供が言葉を覚える過程に注ぐ視線と、アナログの滅亡に対して注ぐ視線に同じ強度がある。テクノロジーも、赤ちゃんも隔てなく愛する力のみなぎりがある。でも「アストロノート」はそうではない。何か中年化している。夫婦喧嘩をして車で逃げるんだけど、唐津で戻ってきたとか、対象にうんざりする者の疲労感がにじんでいる。イツキやカーハも反抗してきて、アナログのようには愛せない。

井土 他人との関係を言葉にするときの叙情性は、僕がこの人の作品で好きな部分です。やんちゃで破れかぶれな言葉と叙情的な言葉とが共存している。「アマータイム」で親父は犬のことをのらくろと呼んでいた、というエピソードとかを読むとジンと来るんです。この場合は親父への反抗と対立、そして和解なのですが、その関係を表現するときの感じが好きなんですね。 ところで、詩の評価ってどういうところにあるんですか。僕が今言ったようなところにはないのかな。

大澤 それでいいと思うんですが、作品論理に沿ってみたいんです。「アマータイム」には、「様々な引き裂かれのなかにしか現実はあり得ない」というフレーズがありましたよね。その意味で、『アストロノート』の書き方も引き裂かれた感じなのかどうか。あと、読んでいて思い出したのが、W・バロウズの『ノヴァ急報』です。あれも設定としては「ノヴァ・ギャング」という集団と主人公が戦うストーリーですが、引用やカットアップでぐちゃぐちゃになっていく感じが似ている。それは言語ウィルスと戦うというモチーフがテクスト自体に顕現されているわけですが、ただ、そのこと自体が言語との闘争になるのかどうか。 裂け目のなかに現実があると言っても、松本さんの詩は語や文章の水準における分裂が起こっているわけではない。それこそ市川さんの文章より読みやすいし、だからこそエッセイもいいのでしょう。ただ、様々なものをいろいろな形で配置することによって一見分裂しているように見えるけど、それは本当に分裂と呼べるのか。本当に感覚において現実が裂けていくのであれば、こういうきれいな文体自体がどこかで崩壊していくはずなんです。おそらく現代詩の最良の可能性は、そういう崩壊する場所にあるのではないか。もっとも松本さんの作品は、そういうこと自体をくだらない、という批判なのかもしれないけれど。

鎌田 今の話でツェランを思い出した。でも、そういう失語や消尽は、二冊目の「詩集工都」にすでにある。ほとんど白いページでしょう。

大澤 白いページがあればいいというものではないでしょう。

井土 「詩集工都」の方が、さっき言ったようなポエジーがすごく強いよね。それでも時々、「ばかやろう」とかいう言葉が出てきて、叙情を断ち切ったりするんだけど。

大澤 失語はもう経験した、ということになってしまうのかな。

鎌田 実はすごく意識的で実験的な人だから、その点は確実だと思う。でも、だからこそ問題も感じる。感覚を自然に流露した言葉が「ロングリリーフ」で、その言葉が消尽した状態が「詩集工都」で、一転して饒舌になったのが「アマータイム」や「アストロノート」だとしても、その全てにおいて、ある極点に達した上で別 の段階に移っているのかが疑問です。そうは言っても、他の詩人を読んでも何も感じないから、やっぱり松本はすごい、と思ってしまう。それではだめなのに。

大澤 松本さんが言うところの戦後詩が持っている恥ずかしさや自意識といったものを、一度明確にした方がいいと思う。一つのラインとして吉本隆明や鮎川信夫といった言葉を出すことの倫理を追究するタイプの詩があり、それとはべつに吉岡実や西脇順三郎のようにモダニズム詩の流れがある。これが一般 的な整理ですよね。その両方ともある極点で突き詰めていればいいのですが、松本さんの戦後詩の認識がどこに置かれているのかがよく分からない。

大杉 どちらかといえば松本さんは美的な方向なんじゃないかな。

大澤 いや、僕はその両方でもないと思うんです。さっき挙げた「青猫以後」の最初の部分にそれを感じる。

大杉 松本さんは昔、鈴木志郎康を評価していたんでしょう。

鎌田 「凶区」が好きなんだから。「重力」で私がイメージするのはスター集団(どこが?)が出入りする「凶区日誌」だ、と言っていた。僕は本当に恥ずかしくて、情けなかった。でも、「ミスター・フリーダム」より正直だとも言える。

井土 だから、「ミスター・フリーダム」で否定しているような詩人としてのあり方に憧れてもいるというか、嫉妬しているということがあるんじゃないか。

大澤 自分の気質とはまた別ですよね。吉増剛造のように、存在としてまったく詩人としか言いようのない人がいますが、松本さんの特徴はそこにはないでしょう。だけど、詩人的ポジションへの思いを切り捨てていないのではないか。

井土 おそらくそうでしょうね。体質としては違うけれど、生き方としては詩人で食えればそれに越したことはない、と。

中島 もう少し「アストロノート」の話をしたいのですが、この作品の核心的な意図は、「世界軍」への対抗にあると思います。具体的にはインターネットへの抵抗ですね(34頁)。インターネットで垂れ流される膨大な量 の言葉に勝つために、これだけの言葉を書いていく。さらに、鎌田さんが2ちゃんねる的な匿名性を批判したのと同じように、松本さんも「世界市民」という揶揄的な言葉でインターネット的な匿名性を批判している。そういう対抗はきちんと読みとるべきではないか。

大杉 しかし2ちゃんねるって世界市民という感じではないよね。どちらかというと、ごろつきの集まりというか。

大澤 松本さんは敵の対象を見間違えている気がする。何か間違ったものと戦おうとしているという感覚が離れません。

中島 ただ、最近はインターネットを安直に使う小説が氾濫しているわけです。綿矢りさの「インストール」でも阿部和重の「ニッポニア・ニッポン」でもいいけど、インターネットそのものを持って来てしまうでしょう。だから、そのものを生のまま持って来ないで言葉で対抗するというのは、敵をそれほど間違えているとは思わない。

大澤 でも最初から負ける戦いだと言っていますよね。

中島 そう。「空想上の勝利は『重力』が否定しているから」とか言ってしまう(笑)。そういう「女々しさ」はもちろんあるけれども。

鎌田 でも、松本さんは一貫している。DTPを使いたがらないのも同じ姿勢だと思う。

大杉 松本さんは月二十万で奥さんは月三十万もらっているらしいけど(17頁)、これは相対的に中流家庭であるわけですよね。娘さんもピアノ教室に通 わせているんだし。だとしたら内容的にもう少し中流を受け入れたらどうなのかな。「何年後にいくら給料貰えるかなんてほとんど判っているんです。役所ですから。いくらがんばってもね、35歳で新規採用ですよ。そんな男に何が期待できますか?」(45頁)とあるけれど、何年後かには給料貰ってないかもしれない35歳だっているわけです。別 にやましさを持てというのではなく、もっと胸を張ってもいいのではないかというだけですが。奥さんに対する態度も含めて甘いと思う(笑)。

鎌田 奥さんやイツキ、カーハの声は、本当は最後まで聞こえてこない。僕は聞こえてきたという前提で「進行中の批評」を書きましたが。

大澤 別に聞こえてこなくてもいいと思いますけど。

鎌田 いや、聞こえて欲しい。松本さんは今まで、他人の声を書いたことがないんですよ。人称の問題じゃなくて、「アマータイム」までは一人称でも「地下室の手記」のようには決してならなかった。だから「アストロノート」が相対的にすごいと思った。

大杉 僕は詩というのは本質的にモノローグだと思っています。むしろモノローグ性に徹していないのが問題なのではないか。あちこちに色々な配慮をしている印象を受けます。

鎌田 でも詩と小説なんてジャンル分けはしなくていい。どんな作品も僕には詩であり、批評や小説であり、結局言葉だよ。

大杉 そういう意味では、鎌田さんは徹底的にモノローグだよ(爆笑)。

中島 そのモノローグ性が、「暗号」という言葉に一番出てしまっていると思うんですね。タクシー・ドライヴァーズ・ユニオンの無線の間で飛び交っている現代詩、それは暗号であると言ってしまう(41頁右側)。通 じない奴には通じないという見切りが「暗号」という言葉に出てしまっている。大杉さんの印象もそこから出てくるわけでしょう。

大杉 そうですね。

鎌田 書物の印刷過程に関する厳密な内省と、原稿料や「重力」のプロジェクトで僕とケンカしたとかいう内輪話と、カーハやイツキの話と、原詩である「タクシー・ドライヴァーズ・ユニオン」、この四つの層しか僕は読みとれませんでしたが、それだけでいいのかな。解読不可能な断章が途中にある。

大澤 浮遊霊や自縛霊が語り始めて、猿田彦が云々という話になる部分がありますよね。

鎌田 でも猿田彦の話は、「タクシー・ドライヴァーズ・ユニオン」の一部でしょう。

井土 いや、猿田彦の話は「不可触高原」批判なのではないか。

鎌田 そうか。「猿の惑星」の話が24頁に出てくるから、その続きで猿田彦が出てくるだけで、原詩の一部だと理解していた。

井土 浮遊と自縛って、彼のなかの分裂した二つの何かなんですよ。浮遊クンはモテモテで儲かっている詩人で、自縛クンはそのようなあり方を否定する意識というか。だから自縛クンは浮遊クンが羨ましいんだ。

鎌田 でも、結局猿は猿なんでしょう。猿たちを侮蔑するから、猿田彦とか「猿の惑星」という話になる。「猿たちが人間の言葉を始めると」というのは、インターネットや携帯電話で話す連中のことでしょう。地球はもう猿の惑星なんだよ。そして「きみは猿田彦に反抗してばかりいる」というのは、松本が猿と戦っている、ということでしょう。僕も「重力」のHPで戦ったけど、自爆した(笑)。

井土 じゃあ浮遊というのは、インターネットのなかを流れている言葉ということか。

大杉 そういう解釈を一生懸命するのは、なんだか松本さんが救われた感じがしますね(笑)。

鎌田 「タクシー・ドライヴァーズ・ユニオン」という原詩の構成を推理すると、中島さんが言われるように世界軍=インターネット=無名性の世界なんだけど、そのネットの言語を操っている奴らが松本の定義では猿なんだよ。その猿達に対して松本が結局一人で反抗する、と。陳腐だけど、とにかく最初から最後まで地は続いている。

井土 もしそうだとしたら俺は全然構造が読みとれてなかったよ。

鎌田 みんな何を読んでいるのか(笑)。はっきり言って僕も読めていないけどね。自分の名前が出てくるところで怒って、その前後だけ意味を理解した(笑)。

大澤 猿田彦はただの猿とは違うのではないか。血と書いてあるし。猿田彦はいちおう天孫降臨の道案内をしたということになっていますよね。だから例えば日本人に繋がったりするのかなと僕は思っていました。それに対して松本さんは抵抗していると。それは井土さんの言うように高天原を不可触とした可能さんへの批判なのかもしれない。よくわからないけど。

大杉 古事記とか日本書紀とかいった日本神話というのは、あとから作られた人工的な話だから、深読みしようと思ってもできないと思いますよ。近代に捏造されたわけだから、桃太郎なんかと似たようなものです。松本さんは幽霊を呼び寄せようとしているのかもしれないけど、幽霊が全然現れなくて、そのことは現代的なんだけど、物足りなくもある。

(つづく)