可能涼介/不可触高原(抄)

舞台の上手の階段に、後ろ向きに座っている男と、下手で踊りの稽古をしている女がいる。男は、作曲家・逆瀬徹(以下S)。女は、ダンサー・ヨーコ(以下Y)。夕方である。赤い落陽が見えている。女は、踊りながら、男をうかがうが、男は、一心に、何か書き物をしていて、気づく様子もない。Sが、不意にYの方に振り返り、

 ビルの合間に川があるだろう。今は、あるかなきかにしか見えないけれども。

Yは、階段を上り、Sの横に立つ。

 線路が延びきった先の地平線のあたりに、川面が見えているわね。

 あれなんだよな。

 何が。

 天気次第では、高く浮いて見えるんだよな。

 それで。

 銀の鱗を翻す魚に、見紛うこともある。

 曇りの日には、見えなくなるんじゃないかしら。

 そうだ。あれなんだよな。

 だから何が。

 我が作曲の秘密だよ。あのきらめきを見ていると、旋律が思い浮かぶんだ。

 私には、ただの川にしか、見えないけれども。

 あの川面を見ていると、創作上のいくつものひらめきを得る。そして、作曲後の余韻にひたりつつ、この丘の頂から、下りながら振り向くと、ただの階段が音階に見えるんだ。

 おたまじゃくしがその階段の五線紙の上で踊って見えるんじゃないの。

 ああ、そうだ。

 私が踊っている姿は、ちっとも見ないくせに。

Sは無視して書きはじめる。

 曲想を五線紙に書きつけている瞬間だけだな。

 何が。

 こう思えるんだ。すべてよし、と。本当の自分に返った気がするな。ダンサーのお前さんは、踊っているときにそういう気分になるんじゃないのか。

 そうよ。そのためだけに生きているようなもんだわ。

 そうだろう。それは素晴らしくいいことだ。だが、他人がうっとりしている姿なんて、見たくはないやな。

 他人なの。

 他人に悪口は言わないや。

 悪口なの。

Yは少し怒りはじめたようである。

 あなたは、そんなふうに、紙にばっかり向かっているから、猫背になってしまったのよ。背骨を軸にした体のバランスが、一番大事なんだから。

 いいんだよ。アンバランスこそ芸術なり。

 そんなのたわごとだわ。バランスこそが芸術だわ。黄金比って言葉もあるわ。

 だとすれば、お前は、自分の実力に見合った金や地位や名誉を得ているのか。

 そう思うわ。

 濡れ手で粟としか思えないがな。

 誰のこと。

 いや、もちろん、俺のことだよ。単に、ここに来て川のおもてを眺めるだけで、曲なんかいくらでも書けるんだから。おい、このことは誰にも言うなよ。

 私が口の軽い女だと思っているの。

 しかし、この間、誰かに知られていたものな。

 私はさっき聞いたばかりよ。

 どうして知られていたんだろうな。

 自分で喋ったんじゃないの。

 なぜだか秘密が持てないんだよな。

 いろんな噂があるもんね。

 しかし、まあ、アンバランスこそ芸術だ。

 そうかしら。

 そうさ。片想いの歌なんかいいじゃあないか。胸がせつなくなるだろう。

 そう言えばそうね。

納得させられて口惜しそうである。

 だけど猫背はよくないわ。

 俺は踊り子じゃあないもんな。

振り払うような手つきをし、作曲に没頭。Yは離れて踊りの稽古をはじめるが、やはりSが気になる様子。

 人生で大事な物は、集中力と決断力だ。

書きながら、大きな声で独り言を言う。一人で踊り続けるYも、Sに聞かせるつもりのような独り言を言う。

 逆瀬徹は、階段が音階に見えるなどと秘密めいた言い方をしていたけれども、そんなのありふれた話だわ。何かのかたちに見立てることで、踊りの名前はついているんだもの。

ひとつひとつ踊ってみせる。

 栓抜きのかたち。猫のかたち。土を引っ掻く馬の前足。

Sの様子をうかがってみる。

 そういうふうに見えないかしら。見えるわけないわね。私を見てもいないもの。

興に乗ったSは、はいつくばって書いている。しばらく経って、

 できた。いつものごとく名作だ。

Yの様子をじっと見て、

 お嬢様、一緒に踊っていただけませんか。

譜面を置いたSは、階段から下りて来て、二人は踊る。しばしの後、元の所に戻ったSは、譜面を見て、急に頭を抱え出す。

 どうしたの。

 書いた物が、すべて、消えているんだ。参ったな。たまにあるんだが。

 どうして消えちゃったりするの。

 俺の紙では、魂がこもっていない文字や曲は、時間が経つと消えてしまうんだ。

 魂ねえ。そんなことがあるもんかしら。

 あるんだよ。集中力が足りなかったんだ。

 ひょっとして、私のせいだと言うつもりなの。

Yは怒っている。

 いやいや、すべて俺のせいだよ。

Sは下りて来て振り返り、

 いまや階段はただの階段だ。

Yは踊り出し、

 私は音符に見えないかしら。

 お前はただのお前だよ。

 弓と矢のかたち。揺れる小舟。

それぞれを踊る。

 黙れ。

 「逆瀬徹」って名前だって、踊れるわ。

さかしまに背中をひねり、助走した後、跳びはねる。

 お前はただのお前だよ。インスピレーションの源たる俺のミューズとは遠すぎる。

 魚の銀の鱗に見える地平のあたりの川が、あなたのミューズなんでしょう。遠くにばかり思いを馳せなくても、どこかから見れば、ここだって地の果てなんだわ。はじめてあなたを訪ねた日に、あなたが色紙に書いてくれた言葉をまだ覚えていて。

 そんなのすっかり忘れたな。こうじゃなかったか。何人殺しても死刑は一回。

こう言いながら、右手で宙に横線を引く。

 こう書いたのよ。ここが地平線だ、ここで跳べ。

 書いたような気がしないでもない。その文字は、まだ、消えちゃいないのか。

 今朝までは、まだ残っていたわよ。

 所詮、俺が書いた曲など、いずれは消える運命だろうが。どうせ消えるなら、はじめからやめちまおうか。消えない曲を書けるのか。これまでに残せているのか。

 どうせいつかは別れるのなら、出会わなければよかったのか。どうせいつかは死ぬのなら、生まれなければよかったのか。

 黙っていろって。

 ここが地平線だ、ここで跳べ。

言いながらYは踊っている。怒りを含んだ大きな声で

 黙れ。

瞬時のうちに、舞台暗転。