大杉重男/森有礼の弔鐘──『小説家の起源』補遺(抄)

 実際志賀は国語の変更の現実性について非常に楽観的である。「国語の切換へに就いて、技術的な面の事は私にはよく分らないが、それ程の困難はないと思つてゐる。教員の養成が出来た時に小学一年から、それに切換へればいゝと思ふ。朝鮮語を日本語に切換へた時はどうしたのだらう」。
 丸谷才一は志賀のこの発言を「このとき彼の心中には、一民族が母国語を奪はれることへの同情もなければ、国語は学校が教へるものではなく社会全体、文明全体が教へるものだといふ視点も欠落してゐる」と批判している(『日本語のために』)。「前者については、何しろ明治時代の人だからやむを得ないとすることができるとしても、後者についてはどのやうな弁護論も成立しないだらう。それはあつけらかんとした無知にすぎない」。しかし丸谷の批判は丸谷自身の無知を示すことにしかなっていない。まず第一に日本の植民地になった後で日本語が朝鮮人に強制されたことは「同情」の問題ではない。また「母国語」という概念そのもののフィクション性に丸谷は無自覚に見える。現実に何世代かに渡る強制的な教育があれば、人はある言語を捨てて別の言語に移り得る。志賀の言葉が示しているのは、今ここで日本語を使っていることの根源的偶然性である。この偶然性は英語や朝鮮語やフランス語その他どのような言語を使っている人々にも等しくつきまとっている。更に「学校」ではなく「社会全体、文明全体」が「国語」を教えるとしても、それは単に「社会全体、文明全体」が「学校」化することしか意味しない。丸谷には「国語」という概念そのものが、明治において「学校」と同じく制度的に人工的に構築されたことに対する認識がない。
 そしてこの点については丸谷の志賀批判を批判する蓮實重彦も、志賀の言説を真剣に読んではいない。蓮實は、志賀のフランス語採用論を「ほとんど荒唐無稽で論理からも知識からも途方もなく逸脱している」が故に「途方もない懐しさと距離なしに接し合っている」と評価する(「皇太后の睾丸」、『反=日本語論』所収)。「飽きたからでも、厭けがさしたからでも、不便だと思うからでもなくそれを無上に快適な環境として住みついているが故に、あるとき「日本語」ならざるもののさなかで目覚めてみたいと思う書く人の夢」。しかし蓮實は志賀を擁護しているように見えて、志賀の言説につきまとう幽霊を慎重に消去し、無害なものに作り変えている。少なくとも志賀の言葉は決して「荒唐無稽で論理からも知識からも途方もなく逸脱している」わけではない。志賀は「日本の国語が如何に不完全であり、不便であるか」を「四十年近い自身の文筆活動」の中で「痛感して来た」と述べているのであり、日本の国語を「無上に快適な環境として住みついている」のではない。実際日本語で良い文章が書けるならフランス語で書く必要はない。いずれにせよ戦後における志賀の沈黙は、書くテーマの枯渇以上に、書くための言葉の枯渇を示している。そしてこの水準において志賀のフランス語採用論は真剣に考える必要がある。
 すなわちもし志賀の言説の中で真に批判に値する部分があるとすれば、それはこの国語として採用された英語ないしフランス語が日本化され得ることへの自信である。それは「吾々は日本人の血を信頼し」という「日本人の血」への信頼とつながっているが、私は少なくともそのような「血」を信頼することはできない。よって日本語に代わる言語について、もしそのようなものがありうるとしたら、その可能性と現実性について、志賀のように空想的にではなく、批評的に考える必要がある。
 そのための出発点として私は、森有礼について考えることから始める。一挙に日本語を廃棄しようとした有礼の考えは否定されたが、しかし有礼的な発想は漸進的に散種され、浸透した。言文一致の文体を駆使し「小説の名人」あるいは「小説の神様」と呼ばれた秋声や直哉にも、有礼の幽霊はつきまとって離れない。そしてこの幽霊は現代においても英語公用語化論の言説の中に回帰している。マルクスは『共産党宣言』において「共産主義の幽霊話」に対して「共産党宣言」を対置した。日本語をめぐる幽霊話に対しては、それに対する徹底的な批評を対置するしかない。