発刊討議:「重力」は何をしようとしているのか(抄)

松本 最近の映画業界では、上映団体とかが議員に働き掛けて「映画振興法」なんてことをやろうとしています。公的資金をつぎ込まないと業界が自立できないからでしょう。それは文芸も同じじゃないかと思う。そうすると経済的自立も糞もなくなっちゃうわけですけれども、現状はそういうことに近いんじゃないか。マーケットに期待するだけで回収できるのかどうか。僕は、これは鎌田さんに何度でも言うけれど、今でもやっぱり出資金の十万円は、回収することを前提に出していません。回収できないっていうことを前提に僕は出している。

鎌田 僕も立派なことを主張しているつもりはない。何かを自分でやるときに、他人の金に依存する状態だと、言いたいことがどこかで必ず言えなくなるから、現実に文芸誌の連中は殆どそうだから、それが嫌だ、と思っているだけです。もうひとつ、僕にはもちろん資金の回収が大前提だけど、マーケットの力をあてにしているわけではありません。打つ手がない、という感覚は共有していると思うんだけど。

松本 僕は単純に金持ちと付き合いたい。そういう経験がないので。たぶん金を持っているヤツは何かあるんですよ。違いますよ、相続して、ということじゃないですよ。二世的に金を持っているんじゃなくて、自分で稼いでいるヤツのことですけどね。それはもう俗に言う「汚い金」だっていい。助成金だってキレイな金ではない。マトモな経済活動の外にある金ですから。

市川 まだ実質三人しか話していないのに、もうみんなばらばらなことを言ってる(笑)。鎌田さんは経済的自立と精神的自立がパラレルだということに焦点をおいて、そのうえでどのような贈与関係があり、多くの書き手はいかにそこへの依存によって書いているか、書かされているかに苛立つわけですよね。他方でこの討議以前に可能さんが問題にしていたのは、演劇を実際にやっている連中が、そこで精神的な満足を得ているどうかの違いはあるにせよ、いずれにせよ搾取構造の下にいる、ということだった。今日は「すごいものを書けばなんとかなる」とか言っているけれど(笑)。これは、二〇〇〇年秋の「重力」スタートの時点で最初に鎌田さんが言った「二代目的な相続の廃棄」に対して大杉さんが「それはしかし負債の廃棄でもある」と言った、そちらの話でしょう。いかに私たちが負債の下あり、それに虐げられているかと。松本さんは補助金の話も含め、たとえばフランスのように映画にしても文学にしても、「文化的な営み」なるものを補助する企業なり国家なりを受け入れながらやっていかざるを得ないんじゃないか、それは二代目的な相続ではないけれど、ある意味で鎌田さんが最初に廃棄しようとしているもの肯定的に受け入れる必要がある、ということだと思う。さらには、そういうかたちで大きな資本、お金が入ってくることじ、可能さんの言う搾取の問題も解決できるのかもしれない、と。
その三つを結ぶために、まず松本さんの補助金についての考えを聞きたいんです。「補助」がなされる理由は正当なのか。もしそれに肯定的だとしたら、べつ補助金が出版社から出ていたっていい。「早稲田文学」だって大学から出ているし。でも、それでは鎌田さん言う「自立」の問題提起が根本から崩れてしまうし、可能さんの文脈であれば、贈与を受けつつお金が末端までいくようなシステムを整理すればいいじゃん、という話になるでしょう。