事柄とは何か。竹内好の言葉を借りれば、それは「古さ」との闘争である。正確には、「新しさ」のなかにある「古さ」との闘争である。古さとして現象する古さがここでの問題ではない。古さが自分を自覚的に古いと考えていることは皆無に近い。思考/運動の如何を問わず、この事情には変りがない。古い思考とは、ほとんどつねに自分が新しいと思いこんでいる思考のことであり、新しい運動とは、古い運動を駆逐するかにみえてそれ自身の古さを温存し再び増長させてゆく運動のことでしかない。同じことは、古さ/新しさを、老い/若さに置き換えた場合にも言える。批評の困難は、古さに新しさを対置することにではなく、古さとしての新しさをそれと似て非なる真の新しさから分離できるか否かにかかっている。
たとえば有島は、大逆事件の直後に武者小路に向かって書いた。
不遠慮を許して下さい。兄の同情は広汎だとはどうしても云えないと思います。兄の作が未成品だなぞと云ったのも、僕は主にこの点から思い付いた事であります。(略)先日僕の心を強く動かした一つの偶然な出来事が起りました。それは白樺社から送ってきた二月号にある兄の「桃色の家」を読んで居ると、或る頁にべったりと血をなすくった跡のあるのに出遇いました。僕は汚いものがあるな、多分職工でも製本する時に、指を切ったか、鼻血でも出したんだろうと思いながら、成る可くその頁を早く読んで次の頁に移りましたが、其処にも指の先でなすくった血が黒くなって染まって居ました。それで僕は変な気になって考え込みました。桃色の女は灰色の女と男とを相手にあくまで拒ぎ戦ったが、その灰色の男の中に若しこの頁を汚す様な血を持った男が居たらどうするだろう。そういう男の居ることが分ったらどうするだろう。桃色の女の夫と灰色の男とは何だか永久の敵の様にも見えるが、若し偶然に二人の手が握り合わされた事があったら、両方から思いも設けぬ暖みが通うのではないだろうか。(略)文芸雑誌の上に塗られた職工の血。僕はどうしてもそれを唯事と看過する訳には行かないのです。そんな事を思うと僕は兄がその同情の範囲を拡げても差支のない時が早く来ればいいなと祈るのです。 (「「お目出度き人」を読みて」)この一文において、「職工の血」は、幸徳秋水その他の死刑囚の血を指している可能性が高い(死刑執行は一九一一年一月、「「お目出度き人」を読みて」初出は同年四月)。有島は、大逆事件の時期の日記をおそらく捨てた。だが、その前年の朝鮮併合についての日記やティルダ宛書簡を読めば、彼が大正期日本の文学者の貧弱な政治意識をほとんど唯一突き破っていたことは明らかである(本多秋五は、そもそも「桃色の室」自体が大逆事件を念頭に置いていた、と言っている)。そこからみれば、武者小路における「同情」の狭隘さは、見るべき何かを見ずに回避する臆病の延命につながる。武者小路の「自己」主張は、新しくみえるが全くそうではない。有島はそこに、倣岸で超然的なやり方での相も変らぬ政治権力への屈従だけを感じたかもしれない。それは、石川啄木が自然主義者に感じたものと同じだ。友人としての気づかいを除けば、この批評がすでに白樺派の新しさとしての「古さ」を十分に突いている。