大澤信亮/コンプレックス・パーソンズ(抄)

 一人称で語ることに違和感がある。その違和感ゆえに、わたしは今まで文章を書くことをできるかぎり避けてきた。
 そもそもの初めは違った。文章を書くのが好きだった。言葉が、言葉ではない何かにつながるはず、そう信じていた。ところがその信念が消えてしまった。こうなった経緯について具体的に書き始めれば、きっと長くなるだろう。しかしこの文章の意図はそこにはない。こう決めつけるのはいかにも性急だし、あるいはむしろ、そこからこそ書き始めるべきなのかもしれない。が、あいにくのところ、今のわたしには時間がない。一刻も早く手を打たないと、すべてが手遅れになってしまう。
 とはいっても、この文章の性質上、一人称の違和感を無視できないのも事実である。それに、何かを語るとき──潜在・顕在はともかく──一人称なしでは済ませられないのも事実。そこで、いくらか粗略になるのは承知で、違和感の要点をまとめてみる。
 わたしについて語るとき、いつもどこか嘘めいていて、だが、その嘘めいているという実感だけは疑えない。世間体という意味の「偽りの私」と、個人的な本音としての「本当の私」とはよくある区別だが、少し生きてみれば、「本当の私」さえ信じられなくなるのはもっともに思える。事実そのように生きてきた。
「偽りの私」も「本当の私」もつまるところ嘘だ。後者を嘘と感じるのは少しつらいが、そうなのだから仕方ない。その結果、偉そうに「私は──」などと語るのはどこか訝しい、となる。これが違和感の要点である。
 ときにはかえって、呪文でも唱えるように、「本当の私などない」と一心に念じることもある。だが、そんなときも、両者を拒絶する「わたし」だけは疑わなかった。
 ところが今、「本当の私などない」という確信が、たとえ無視できないにしても、それ自体に魅力があるとは思えなくなりつつある。この確信が、どれほど現実との直面において求められるにしても(その意味で、現実から逃れて「本当の私」に執着するのは、断じてわたしの望むところではない)、それが現実を受け入れることでしかないなら、むしろ批判するべきではないか。
「本当の私などない」と悟りきったわたしは、結局のところ、積極的なものに対して極端に疑い深くなり、自らの不甲斐ない生活を「本当の私などない」という言葉で慰め、そうすることで、いつか「本当の私」が到来するのを待っていたような気がする。こんなざまではあの男に勝てるはずない。
 わたしはこれから、わたしにこのような自己批判を強いるきっかけになったある出来事と、そこから派生した問題について、記述を進めることにする。
 そのさい、できるだけ簡潔かつ明晰に、マニュアルを作成するテクニカル・ライターのように、論理および状況の展開が正確に追えるように書くことを目指す。二つの理由がある。この文章の性質上の理由とそれとは無関係なもう一つの理由。
 確認しておく。この文章はあの男との戦いのシミュレーションとして書かれている。あの男はなかなか周到で頭の切れるやつだから、こちらの論理展開の隙を見てすぐに反論してくるはずだ。わたしはあの男を完膚無きまでに叩き潰さねばならない。
 とはいえ厄介なことに、あいつが議論によって打ちのめされるとは思えない。それはわたしが議論によって決して打ちのめされないのと同じである。議論はたんに議論であって、それ以上のものではない。あの男を真に批判するためには、ともかく、あの男を支えているぎりぎりのところを明白に浮かび上がらせ、それをもってあの男を本気にさせなければならない。
 そのさい、わたしの論理が曖昧では、それこそ話にならない。わたしはフローチャートのように緻密に、整然と、抜かりなく、あの男を最後の最後まで追い詰めなくてはならないのだ。
 もう一つはまったくべつの理由。すでに書いたが、文章を書くとき、わたしはいつも非常な違和感を覚える。こちらの理由はそれに関係している。実際にシミュレーションに入るまえに、それをもう少し具体的に書いておいたほうがいいだろう。
 じつは文章を書くときにかぎらない。わたしはいつも違和感で慌てふためいている。ふとした加減で取り乱すことなどしょっちゅうだ。自分が何をやっているのかわからなくなってしまう。これはもともとわたしの性格だけれど、文章を書くときになるとそれが酷くなるのも本当だから、きっと、書くという行為にとりわけ強く結びついている問題なのだと思う。
 わたしは文章を書かないわけではない。だが、そのとき使用する人称は「私」や「僕」のみである。これは意識的にそうしている。報告書などの公式または準公式の文章であれば、要求される内容は限定されるので、ちゃんとコンテクストを意識して書けば、「私」や「僕」が「考えていること」はそれなりに論理的整合性をもつ。あとで読んでも論旨の乱れはそれほど目立たない。しかし、そのような何らかの制約の下で書かれた文章と、そうでない文章の間には著しい違いがある。
 わたしはかつて何度か、誰に宛てるでもない問題について筆を取ったことがある。誰に要求されたのでもなく、誰が読んでくれるとも知れない、しかし、名状し難い力に駆り立てられて文章を書いたことが、恥ずかしながら、かつて何度かある。
 そのような文章は内容以前の書かれ方からもう、他の一般の文章とは違った。一般の文章が、ああでもないこうでもない、と遅々たる進展の末にようやく完成するとすれば、前者のそれは、不眠不休で二十四時間なにかに憑かれたように書きまくり、書き上がった時点では問題は解決したことになっている。
 ところが、次の日、高揚が冷めた目で文章を読み直してみると、さっぱり意味がつかめない。それは、日をおいて読んでみると内容が稚拙だったという様なものでなく、それが稚拙かどうかさえ判断できないような代物なのだ。とても自分が書いたとは思えない。何やら薄気味悪いものを感じる。通常ならこんな文章を読まされる義理はないが、書いた当人がわたしなのだから、読まずには済まない。思いつきや酔狂で書いたのではないのだ。
 とりあえず一読する。もちろん一読しただけではわからない。二度繰り返しても同じである。こうなるとこっちも意地だ。せめてその主張だけでも読み取ろうと躍起になって読めば読むほど、どんどん錯乱の深みにはまり、結局、その見返りを得られないまま徒労に音をあげるのがいつものことだった。
 そういうことが何度かあって、その状態を経たあとの体の疲弊も耐え難く思っていた──ヘルニアもちなのだ──わたしは、そのような文章を書くのをやめた。いやこれは正しくない。体の方が拒絶反応を起こすようになった。ふとした加減で、何かを書こうとする衝動が起こると、不意に眉間が痛くなり、その痛みがじわじわ後頭部に広がりはじめ、やがて大声が聞こえてくる。頭の中で〈何くだらんことしてやがる!〉という怒声が鳴り響く。
 以来、たとえそれが公的なものであっても、文章を書くときはいつも、頭痛と幻聴に見舞われるようになった。もちろん今も感じている。ちなみに今はジミ・ヘンドリックスが怒鳴っている。ジミヘンが日本語で怒鳴るってのは我ながら何か変だが、そうとしか言いようのない声なのだ。
 わたしはこの頭痛と罵声による撹乱に抵抗するために、できるかぎり論理的かつ明晰に書くことを心掛ける。こう念を押さなくては、また同じことを繰り返すのではないかと不安になってしまう。情けない話だ。ついでに関連して二つ付け加えておく。一つ。わたしはこの文章で、普通なら省いて構わないことも、できるだけしっかり細かく書こうと思う。もう一つは、後になって読み返しても内容が正確に把握できるように、たとえ赤の他人でも読めるように書こうと思う。
 最後に重要な事を強調しておかなくては。このシミュレーションは、途中いかなる事態が起こったとしても、終始わたしの闘争草稿=自己批判草稿である。「本当の私などない」などという腑抜けた自信に守られてきた「わたし」を、徹底的に批判し、叩き潰してやるために書いている。それをせずには一歩も踏み出せない。いや踏み出そうとする資格を得られない。あの男に勝てるはずがない。さあ、急がなくては時間がない、前置きはもういい、そろそろ「わたし」からカッコを外すことにしよう。