大杉重男/翻訳者の資格(抄)

 この時一つの指標として日本における翻訳権の変遷を振り返るのは有効である。宮田昇によれば、日本は一八九九年(明治三二年)、ベルヌ条約(「文学的美術的著作物保護万国同盟創設に関する条約」)に加盟し、同時に著作権法を制定した。当時の日本政府に著作権保護の積極的な意志があったわけではなく、条約改正の一環としてイギリスから強要れたものだった。ベルヌ条約は著者の死後三十年まで著作権を認め、翻訳権は原作刊行後十年以内に翻訳されたもののみ、著者の死後三十年まであるとする。つまりある書物が刊行されて十年経って翻訳がなければ、翻訳権は消滅し、基本的にこの後その書物の翻訳は誰でも何種類でも自由にできるということになる。間もなく一九○八年(明治四十一年)のベルリン改正でこの十年規定はなくなるが、日本は留保の権利が認められ、翻訳権については国内法を改正しなかった。この状態は基本的に一九七一年(昭和四十七年)の新著作権法の制定まで続く。新著作権法は十年規定を撤廃し、翻訳権は一般著作権と同じ著者の死後五十年の保護を受けることになった(七○年以前に刊行されたものについては現在でも留保が認められている)。この状態は基本的に現在まで変わっていない。
 この翻訳権の変遷の過程を見ると、それがほぼ日本近代文学の変遷の過程と重なっていることが分かる。これは偶然ではない。一九○八年は徳田秋声の『新世帯』や夏目漱石の『三四郎』、田山花袋の『生』が書かれた年であり、日本の近代文学が一応の自立を達成した時期である。しかしこの自立が括弧付きの自立であったことを、翻訳権十年規定の留保は制度的に示している。この留保のお陰で、その後も日本文学は十年遅れでヨーロッパ文学を無条件に輸入することができ、十年遅れでヨーロッパの最先端の流行を追い続けることができた(あるいはそれを強いられた)。近代文学は成年に達したにもかかわらず、なおそれが果たすべき代償を支払うことを免除され、モラトリアムを許された。一九七一年以降このモラトリアムの構造は消滅を予告される。しかしそれは日本文学がついに自立を達成したということではない。三島由紀夫と川端康成の自殺(前者は七○年、後者は七二年)に隈取られる形で、日本近代文学もまた消滅した。そのことは、新著作権法が実質的に発効した八○年代以降誰の目にも明らかになる。これはウォーラステイン=スガ秀美の言う「六八年革命」の観点からも分析できる。スガは一九八九年のベルリンの壁の崩壊を「六八年革命」の帰結と見るが、八九年はまたそれまで著作権を保護して来なかったアメリカがベルヌ条約に加盟した年であり、著作権のグローバリゼーションにおいて一つの画期をなした年でもある。
 この「六八年革命」への参照は、文学における「六八年革命」の最大の合言葉の一つが「作者の死」であったことを考えると、必然性を帯びて見えて来る。モーリス・ブランショはフーコーの追悼文の中で、フランス五月革命の体験を「誰もが誰にでも、無名の、非個人的な、多勢の人間の中の一人として話すことができ、いま一人の人間であるという以外の資格証明ぬきで歓迎される」「すばらしい時」だったと回想したが、このような「資格証明」の消滅の祝祭的で詩的な体験の下で、新たな別の資格の構築が秘かに散文的に同時進行していたとは言えないか。少なくとも日本文学において、「作者の死」は「著作権者の誕生」によって補足され、隠蔽され、完成されたように見える。
 たとえば同じく「六八年」的思想家であるデリダは、言語行為論をめぐるサールとの論争において"copyright c 1977 by John R.Searle"というサールの署名と徹底的に戯れて見せる(「有限責任会社a,b,c,…」、『有限責任会社』(法政大学出版局)所収)。しかしその戯れが、いかにサールという「著者」の言語行為が含み得る暴力性を暴いて見せているとしても、そのパフォーマンスのすべては、その論文が収録された日本語訳に刻印されている1990?Edition Galileeというガリレ社の「著作権者」としてのコピーライトに安全を保証され、その内部で行われている。後期デリダは「正義」は脱構築できないとするが、この「正義」とはフーコーが言う法の言葉としての「外」と同一である。「私は嘘つきだ」と語る私はその論理的パラドクスの中で「作者」としては死ぬが、「私は言う」と語る私はその実証的な事実性において「著作権者」として生きる。「作者」「作品」は脱構築できるが、「著作権者」「著作権」は脱構築できない。「六八年」的思考は、「著作権」の法を倒錯的に肯定せざるを得ない。
 そこでは大文字の「作者」の作品が「作者」の私有財産ではなくなり公共の財産となる一方、「著作権者」の「著作物」は「著作権者」の私有物となる。作者の作品が生前の不遇と引き替えに死後の永遠の生を享受し、歴史に記憶され続け読まれることを希望できるとすれば、著作権者の著作物は、著作権が切れた段階で忘却されることを覚悟しなければならない。しかしそれは死後の無限の生を断念することにおいて、現在の有限的な生を享受することになるだろう。
 このような作者から著作権者への移行は、同時に翻訳者から翻訳権者への移行、翻訳者の死と翻訳権者の誕生をもたらさずにはいない。ベンヤミンが翻訳作品に見た作品の死後の生の在り方はそこにおいて決定的に変化する。宮田によれば、新著作権法による翻訳権十年留保事項の消滅以降、量的にも質的にも翻訳出版は相対的に比重を低下させた。「翻訳し難いもの、その翻訳の労力に見合うほど部数が期待できないものは、翻訳権をとってまで出版されることは少なくなっている」。宮田はこの事態を海外文化の日本への紹介を阻害するものとして否定的に考えるが、十年遅れで流行を追いかける文化的後進国の構造の解消はそれ自体は肯定されるべきことである。実際六八年以降文学や哲学において輸入すべき決定的に新しい革新は海外に現れておらず、時代は終わりなき反復、マンネリズムの様相を見せている。
 むしろ真の問題は、翻訳における翻訳者の主体性の弱体化と、出版社のイニシアティヴの強化にある。翻訳権の取得には手続きと費用が必要であり、そして多くの翻訳において、この手続きは翻訳者自身ではなく、出版社の編集者が行っている。もちろん海外文化の輸入という使命に賭ける出版社の善意を疑うわけではない。むしろそこに積極的な悪意が不在であること、秩序を一瞬でもかき乱す邪悪な意志の本質的不在が問題である。現在フーコーやデリダを翻訳する人々に、そしてそれらの翻訳書を読む人々に、「翻訳者の死」についての自覚がどれだけあるのか、また「翻訳権者」の権力作用(それが善き意志によるものであればなおさら)にどれだけ注意を払っているのか、私には疑わしい。小林秀雄の時代の文学同人雑誌に、文学者たちがその個人的な興味からプルーストやジードやジョイスの翻訳を掲載したようには、今日たとえ文学同人雑誌があったとしても、文学者は気軽に同時代の文学の翻訳を載せることはできない。誰もが村上春樹のように望めばサリンジャーの翻訳を出版することができるわけではない。