鈴木=岩田は、宇野の純粋資本主義論が観念的であると批判し、史的システムとしての世界資本主義の内的叙述を対置した。しかしながら、資本主義の歴史性を明らかにするはずの世界資本主義論は、逆に、資本主義の歴史性を隠蔽するという結果に行きつく。鈴木=岩田に欠けていたのは、歴史性と歴史主義の区別である。逆説的ではあるが、歴史性 historicity と歴史主義 historicism は対立的な関係にある。歴史主義は、特定の因果関係に基づき連続的時間という直線的な物語を作り上げる。この方法は、一見歴史性を重視しているように見えるが、歴史記述を必然性論(目的論)に解消してしまうことによって、歴史性の問題を消去してしまっている。
そもそも宇野が、原理論、段階論、現状分析からなる三段階論を提唱したのは、日本資本主義論争において『資本論』の原理的規定が現状分析に直接適用されていたことに対する問題意識からであった。日本資本主義論争が誤りであるのは、自由主義段階に基づいて抽象された原理論を異なる段階である帝国主義段階に適用したからではない。宇野によれば、原理論は「資本主義の発展の一段階としての産業資本の時代〔自由主義段階〕の原理をなすわけではない」(宇野『経済学方法論』三八頁、括弧内引用者)のであり、あくまで、原理論と現実の資本主義との区別を看過したことが問題とされたのである。
両者の区別について、宇野は、マルクスの『経済学批判序説』「経済学の方法」における上向(第二の道)と現実の過程との峻別に注目し、次のように述べている。
…出発点たる人口が、たとい特定の国の、特定の時代の具体的なものであったとしても、この人口の構成部分の諸関係を規定する概念を析出し、その前提となる更に抽象概念へと進む過程では、当然に与えられた特定の国の、特定の事態の具体的なものは捨象されざるを得ないのであって、この下向過程の終点たる商品から逆に貨幣、資本等々と展開されて来ると、この過程ではもはや特定の国の、特定の時代の具体的な人口ではなく、資本主義一般に通ずる、その人口の階級的関係が明らかにされるにすぎないことになって来る。(宇野『経済原論』一五〜一六頁)宇野の原理論が、「特定の国の、特定の時代の具体的なもの」、すなわち、一九世紀中葉のイギリス資本主義における純粋化傾向に基づいて抽象されたとしても、その原理は「資本主義一般に通ずる」ものである。このような認識に立てば、原理論と現実の資本主義との区別は明らかである。