スガ秀実/一九六八年革命小史(抄)

 日本の六八年を担った、「全共闘」と呼ばれるニューレフト学生集団最大のモティーフの一つには、後にも論じるように、「戦後民主主義批判」があった。丸山の勤務していた東京大学の全共闘学生たちは、丸山をほとんどヒステリー的に糾弾する行動を取った。いや、全共闘学生たちは、戦後民主主義を標榜する全ての既成左翼・アカデミズム左翼を軽蔑し、糾弾したのである。彼ら学生はバリケードで封鎖した東大の中にある丸山の研究室の貴重な学問的資料を無闇に破壊したのだが、これを目して丸山は「ヒットラーも行わなかった暴挙」といきどおったと伝えられる。ヒステリーなるものが、言説によっては論理化できない事態の先端においてあらわれる行為であるとすれば、「六八年」の学生のこの「暴挙」は、さまざまに解釈されうるとしても、四五年の敗戦を「革命」と見なすがごとき、既成左翼の一国主義的な(ナショナリスティックな)歴史認識に対する批判であり、そのところから、全共闘の「戦後民主主義批判」なるものの意味も問い直されなければならないと言えよう。
 私見によれば、このようなアカデミズム左翼と学生との敵対的な関係は、今日もなお変わってはいない。いや、相互の矛盾は拡大していると言ってよいであろう。今日の日本の大学では、六八年時のごとき敵対的な関係が露呈しておらず、学生のアパシーが蔓延していると見えるにしても、そう見なすべきなのである。「全学連」の名を世界にとどろかしめた一九六〇年の反安保闘争までは、学生と大学教師は連帯関係にあり、ともに手を携えて街頭のデモンストレーションに向かった。双方はともに戦後民主主義を信仰していたのである。かかる連帯関係は、「六八年」において修復しがたい決裂をこうむったといえる。
 丸山真男らの一九四五年革命説に対して、戦後憲法をアメリカ占領軍の「押し付け」であるとする、実証的な反論を試みた江藤淳らの保守派においても、その批判のモティーフは、明治期以来の日本近代の連続性を主張するところにあり、そこでは六八年問題はほとんど隠蔽されてしまっている。そして、米軍占領政策に執拗に拘泥するところに、江藤ら保守派もまた、四五年が癒しがたいトラウマであることが証されている。もとより、江藤淳は「六八年」のアナーキーな「破壊」運動に無意識的にしろニヒリスティックな共感を寄せていたフシもあり、戦後民主主義の欺瞞的ルーツを批判する彼に対して、「六八年」の学生たちが相対的な好意を抱いていた様子もうかがえるが、そのことが日本の知的世界において十分に思想化されているとは、いまだ言いがたい。
 それはともかく、「六八年」は決定的なターニング・ポイントであったにもかかわらず、今なお明確な思考の対象となってはいない。その理由を忖度すれば、日本の知識人界が、そのパラダイム・シフトを受け入れることを、今なお無意識のうちに回避しようとしていると見なすほかはあるまい。とりわけ、八九年/九一年の冷戦体制の崩壊と二〇〇一年の九・一一以降の現在まで(その間の日本では、いわゆる「バブル経済」の崩壊と「不況」が顕在化していったわけだが)、加速度的に進行した思想的「保守化」は、「六八年」についての思考を、さらに阻害しようとしているかに見える。冷戦崩壊も九・一一も、ある意味では「六八年」という歴史的切断の帰趨といいうるにもかかわらず、である。時たま「六八年」がジャーナリズム上で回顧されることがあるにしても、それは、怠惰な懐古趣味を出ないし、その思想的・政治的意味を問い直す作業は、ほとんど手付かずのままなのである。
 その理由も、今や明らかである。日本においても、「六八年」に対する反革命的総括としてのネオリベラリズム政策が、八〇年代の中曽根(康弘首相・当時)民活以来それなりの成果をあげ(中曽根は六八年時、すでに大学改革などについてのネオリベラリズム的政策を持っていた)、今日の小泉(純一郎首相)「構造改革路線」においては、それへの国民的な「支持」を背景に、さらに強力に推進されようとしている。その浸透は、学生層を中心に、きわめて深刻な危機をひきおこしつつある。
 日本における、終身雇用制や各種社会保険制度、農地解放等を骨子とするリベラリズム的福祉政策は、今日では「一九四〇年体制」とも呼ばれるところの戦時経済体制(総動員体制)を濫觴としながらも、戦後のアメリカ占領軍政策に受け継がれた。占領軍に指揮された学制改革においては、戦前からの、希少な帝国大学を頂点とする学校ヒエラルキーが相対的に解体され、膨大な国公立・私立の新制大学が誕生した。後発資本主義国の例に漏れず、日本は明治維新以来、当時の最大のベストセラーである福沢諭吉『学問のすゝめ』に象徴されるごときメリットクラシーが国民的に浸透していたが、新制大学の誕生は、その国民的心性の亢進に強力なドライヴをかけることになった。相対的に低学歴であった親の世代は、子弟を大学に進学させることで、彼らをよりアッパーな││高収入で安定した││階級・階層へと移行させうると信じたのである。いうまでもなく、戦後における資本主義の高度化は、日本国民の多くを農村=土地から放逐し、鉄鎖ならぬ学歴以外に頼るものを持たぬ存在へと仕立て上げていった。そして、一九六〇年の安保闘争時あたりまでは、大学が終身雇用的な就職のための予備校として有効に機能していたのである。そのことはつまり、大学を卒業すれば、そこに勤務する労働者(教職員)と同程度の収入や地位を保証されるという信憑にほかならない(いや、学卒者は教職員よりもアッパーな地位を獲得しうるとさえ信じられた)。そして、これこそが、六〇年安保までの教員と学生の「連帯」を保証する階級的な基盤だったと言ってよい。戦後民主主義とは、冷戦体制下における資本主義国の福祉主義的リベラリズム政策が有効に機能しえた時代のイデオロギーだったといえよう。
 日本の「六八年」は、そのイデオロギーへの最初の意義申し立てだったと言いうる。その批判は、福祉主義という名のもとに「ゆりかごから墓場まで」を管理する「生政治」への嫌悪という側面を持っていた。しかし、一九六八年を境にして下降局面に入ることになる資本主義世界経済が、福祉主義的リベラリズムを放棄せざるをえない、「アフター・リベラリズム」(ウォーラーステイン)というべき事態におちいったことも、日本とて同様である。今や青年層の七割近くが大学を中心とする高等教育を享受しているが、にもかかわらず、それを吸収しうる労働の場は、ネオリベラリズム政府の市場原理主義政策によって、どんどん崩壊している。あえて誇張であることを承知で言えば、日本の大学は、今や、ルンペンプロレタリアートやアンダークラス予備軍の生産工場と化しつつある。就職に不安を抱く必要のないのは、ごく一部の名門大学の、それも文学部や教育学部を除いた学生たちのみであり、他の多くは「フリーター」と呼ばれるアルバイトをしながら、親からの経済的援助に頼る「パラサイト・シングル」と化している。彼らは、一四〇〇兆円あるといわれている、日本の(親の)膨大な個人資産に頼っているのである。
 かかる存在様式を強いられている学生層が、相対的に特権的なアッパーミドル・クラスに位置する大学教員に対して、コミュニケーションを拒絶してしまうのは、ある意味で当然である。学生と教員とは、もはやまったくといっていいくらい、階級的に断絶してしまっている。日本のアカデミズム内においても、「カルチュラル・レフト」(リチャード・ローティ)と呼ぶべき者は多々存在している(彼らは、概して、六八年世代以降に属している)。しかし、彼らの「左翼的」言説は、おおむね、アッパーミドルという自らの階級的基盤を問うことのない観念論であるがゆえに(それゆえ、彼らの言説は戦後民主主義的なリベラリズムへの無自覚な回帰としても、あらわれている)、アンダークラス予備軍たる学生に届きえず、自慰的なものにとどまらざるをえないのである。