「重力02」刊行記念ライブトーク/1968年の「重力」(4)


井土 じゃあ、質問の方に移りたいと思います。何でもいいので、質問のある方……。

 意見でもいいです。

会場A 「重力」の、解体と再創設の話についてお聞きしたいんですけれども、解体から再創設、「01」から「02」になって何が変わったのか明確に見えないんですね。解体して再創設しましたという予定調和みたいな中で、結局内実が変わらないという危険を孕んでると思うんですけど。

鎌田 「重力」の前提に戻ると、確かに、「01」においても松本さんと僕の考えは全く違っていて、共有というのはなかった。「02」についても、今回大杉さんと、あるいは全員の間で、共有がなかったことははっきりしている。そういう意味では、同じことを繰り返してる、という批評は甘受するしかないです。ただ、予定調和というのは違う。予定調和というと、回避しよう回避しようとして同じ所に戻ってしまう、置かれている人間の苦しみが消えちゃって、いかにも初めから予定してましたってニュアンスになっちゃうんで、そこは受け入れ難いんです――そうなってしまったことは認めますが。
 でも、そもそも同じことの繰り返しを、僕は単純に回避できるとは思ってない。何回も何回も悪循環が続いてるように見えても、ちょっとずつ変わっていれば、それが何事かを成し遂げたってことではないですか。さっきの直取直販に関して言えば、「01」は1300か1400冊売れて、130冊、その十分の一だけ取次を通さずにやった所を、今度の「02」では、青山ブックセンターさんの助力と作品社さんの寛容に拠るところが非常に大きいんですが、取次を通す分が1600に対して、重力側でやる直取直販が400冊という所までこぎつけた(注――この数日後1000部を増刷し、そのうち重力側(直取直販)を300に決定)。WEB重力での販売も急増しています。そういう感じで、サーキュレーションの面でも、内容の面でも、そんなに焦らなくていいから、一歩ずつ何かを付け加えていけばいいと思うんです。
 それとね、たとえば今回大澤君の小説を掲載できたのは、誰がどうとかいう問題じゃなく、「重力」にとって非常によかったことだと俺は思ってる。

井土 それともう一つ言うと、「01」の場合は、市川真人という「早稲田文学」の編集者がいて、「重力」を実際に作る場所というのは、完全に「早稲田文学」編集室に依存してたわけです。それこそ悪い言葉で言えば、「早稲田文学」に寄生して作られたようなものです。スペースとしても、人員的なことにしても。それが今回は、場所が全くないところで、一人オペレーターを雇って、そのオペレーターの部屋とか、まあ僕が喫茶店でいろんな人と原稿のやり取りをするという形でベーシックな実務作業をやった。もちろん作業自体はたいへんだったけれども、その点について言えば、ある場所になあなあで依存して作っていくというところからは前進したと思います。そして僕は、理念みたいなことよりも、そういう実務的なことをひとつづつ積み上げて、悪しき前例みたいなものを変えていくことの方がよっぽど重要だと考えています。 他になにかあれば……。

会場A 「01」にしても「02」にしても、鎌田さんなり大杉さんが全体の色調を決めている。「03」でメンバーが一新したとして、何をもって「重力」の名を冠するのかと考えたときに、やっぱり前提を共有してる限りにおいて、これは「03」だと言えると思うんです。さきほど大澤さんが、鎌田さんの主張が権力的に響くところがあったとおっしゃったと思うんですが、「「重力」の前提」は鎌田さんが書いたものじゃないですか。それを徹底的に討論の対象にして、改変したりして全員の共有物にしていないから、どこか「重力」が鎌田さんの言説で動いてしまうんじゃないかと思うんですね。
 それが「02」に抜けていたのが気になったので、「03」を出すなら、そういった討議をしてほしいなというのが一意見としてあります。

大澤 僕が沖さんと話す前まで考えてたのは、確かにおっしゃる通り、原理性みたいなものを参加者がちゃんと受け止めないで、ただ雑居的に空間をシェアするような感じで10万円を払うという関わりをしてたところに問題があると思ってたんです。だとすれば、その雑居性をどうにかするためには、いまおっしゃったような、原理を追求という話になると思うんだけど、それはむしろ方向が逆だなということを途中で思ったんです。
 というのは、原理を追求する、あるいは原理を体に受け止めるということ自体に既に、雑居とは別の何かが必要だというのを感じたんですね。何か運動がある過程で連合の原理を模索していくならわかるけれども、メンバーを何人か集めて、その人たちで原理について討論しようと言っても方向が逆だというのが僕の実感です。最初に僕が一緒にやれると思う人を、原理の問題も含めて討議できるところから集め直さないと……。僕はこのメンバーでもう一回原理を討論することで新しい空間が生まれるとは思えないんです。

会場B この中で、鎌田さんと大澤さんが「新現実」に原稿を書いてますが、「重力」と比べてどんな問題や可能性があると思いますか。特に大澤さんは「重力」も「新現実」も駄目だと思ってるとしたら、さっきから言ってる原理というのは、どんなものを考えていますか。

鎌田 世俗的な意味では、「重力」の方が格好いい、とかさ、当然そういうことを言いますが、「新現実」には純粋に寄稿しただけでしょう。だから、内部に立ち入ったて運動体として何を言えるか、ということはわからないし、言う資格は僕には全くないです。比べると、「重力」は部数が少ない分、値段も高くて、これがぎりぎりとはいえ読者に申し訳ない気持ちがあるかな。でも、とにかくお互い頑張ろう!って感じですね。
 ただ、最初から言っている通り、自分達の原稿の質とか、雑誌がやろうとしている方向、それが単なる雑居性の中に呑み込まれかけているとは言える。逆に自分がやりたいと思ってることに関しては絶対的な自信もある。でもそれは、他の雑誌と比べて威張ったりすることじゃないから……。それだけです。
 ちょっと答えになってないか。締切がほぼ同じだったんで、「新現実」の原稿をこっそり書きながら「重力」の作業をやったりして、みんなにすごい迷惑をかけたとか、そういうことしか頭に残ってない。何か批評しろってことですか。

会場B つまり、「重力」を買うときに、鎌田哲哉が書いている雑誌ということで買う人は多いと思うんです。ところが「新現実」の読者がどれだけ鎌田さんの名前を知っているのか知りませんけど、そういう中で「新現実」に書くとき、「重力」に書くときとスタンスが違ったのかどうか……。

鎌田 大したことはしてないけど、編集者的な仕事をしていると関わり方の違いがあるから、考え方が変わってきます。「新現実」では純粋な寄稿者だったので、雑誌がどうかとか、表紙がどうかとかは考えない。あの表紙に自分の名前があってちょっと俺は恥ずかしいんだけど(笑)。悪口じゃないですよ。フィーリングの問題でね。でも、原稿に関してはどれも手は抜かないで一生懸命書く。そういう基本原則だけを守ればよかった。
 他方、今回「重力」を僕の原稿で買う人は絶対減ったと思うんだけどな、自己評価として。気を使って言うんじゃなく、大杉さんの原稿とか、今回は全体に絶対的に面白くなってるはずです。自分の名前だけぽこっと突出してることはありえない。本当は初めっからそうなってるはずなんです、ちゃんと読めば。「01」だって、西部忠や松本圭二みたいに、他ではありえない面白い人はいっぱいいたわけでしょ。仮に自分にくっついてくる読者がいるとして、それがどの位事実なのかは僕にはわからないし、どうすればいいかもわからない。どうすれば分離できるんですか。中身も読まずに、僕の名前だけを見て「重力」を買う読者から、僕は自分を分離したいんですよ。

会場B 「新現実」に書くのは、分離かどうかしらないですけど……

鎌田 「新現実」の方が気楽かな。宮台さんとか福田さんとか大塚さんとか、そういう人の名前で買うんだろうから。

会場B というのは、僕はさっき「新現実」を買ったばかりなので、鎌田さんがどうして大澤さんが「新現実」に書いた原稿を否定されたのかわからないんですけど、僕の予想だと、大澤さんは「重力」に書くときと「新現実」に書くときと、自分のキャラクターを使い分けたんじゃないかと思うんですよ。

鎌田 「まんが」評論家だしね(笑)。

会場B それを鎌田さんがたぶん……。

鎌田 違います。批評の内容がよくなかったんです。大澤さんは、「新現実」の広告にもなるから、読んでみて下さい――貴種流離譚を支えてるのは構造的な問題ではなくて、寂しさだ、と「新現実」で書いてるわけ。そんなのは俺は全く認めない。というか、最後が寂しさで終っちゃうなら、今までの分析全体は何のためにあったのか、と感じた。貴種流離譚を覆していく、何か対抗原理になるものが寂しさだとか、ある感性的な何かだって言うならわかりますよ。僕は丸山真男論をそういうふうに書いている。多事争論的な世界、それだけで済むのか、という問題があり、その世界を覆すのがスティーヴンの「小ささと弱さ」だ、と俺は書いた記憶がある。何かを疑い得る原理として小ささや弱さを持ち出してくるならともかく、ある種の構造を支える寂しさがある、というのは、イロニーの合理化に近い感じがした。

大澤 あの文章で書きたかったのは、そこから始めないと駄目だってことなんです。天皇制は政治制度として、テクニカルにダブルスタンダード的に使い分けられていく、それで日本社会が云々という話がある。あるいは、大塚英志さんが『JAPAN』というまんがで、貴種流離譚的な――本人はそこからも外れたと書いているけど――構造の中で天皇を描いている。でも僕は、構造的に天皇を論じても、その本質は捉えきれないと思っている。戦後つねに国民の80パーセントは天皇を支持しているんですね。若い人たちはみんな支持してないと言うかもしれないけれども、あなたたちだってもしかしたら、年が40とか50になったときには、天皇ってけっこういいかもなと思ってるかもしれない(笑)。統計的にそういう数値が出ているんです。僕もそうなるかもしれないしね。そこに何が介在してるのかは、政治構造的な問題だけで切れないというのが、僕が思ったところなんだけれども。
 で、それを最初に貴種流離譚という言葉を使った折口信夫の論文にある、生きることの寂しさから考えたわけです。だからと言って、寂しさがいいと言ってるわけじゃなくて、それを克服するには政治構造とべつの問題を見る必要があるということです。僕は小説でそれを書いていると思う。これを言っていいのかな。あの論文には依頼の仕方があったんですね。要するに「まんがで描かれた天皇」について書いてくれと言われて……。

鎌田 マンガのことを分析したから、本当は挿絵が必要でしょう。それが落ちてる。

大澤 そうなんです。あれが少し腹が立ったところで……。

鎌田 雑誌作りのあり方として、疑問を感じたとすればそこかな。でも、頁数が多かったからきっと都合が悪かったんでしょうね。

大澤 絵も送ったはずなんですけど。でも、僕が自分で疑問を感じているのは、そういう使い分け的な作業がよくないんじゃないかということです。手を抜いたつもりはないんだけど。仕事の出来自体としても不満がある。
 原理について言うと、僕は現実感のない議論をするのはもう嫌なんですよ。今はとにかく人にもっと会いたい。引きこもりではないけれども、あまり人に会わない生活をしているので。活動的なものがあるという前提で、議論をするならわかるんだけど、ただ原理だけを議論していても、結局、それが具体的な場面に移ったときに、実行に移せない奴らが出てくると思うんです。

会場B でもその活動性っていうのは、原理じゃないんですか。

大澤 でもほら、フランスでマクドナルドを破壊したり、そういう奴いませんか(笑)。

会場B それは活動性なんですか、原理なんですか。

大澤 けっこう僕には変な欲望があって、そういうものに魅かれる傾向はある。求めるものとは違いますけれどね。

大杉 僕も大澤さんに対してずっと思ってる疑問だけど、情緒的なものが君の核の中にあって、情緒的なものを一生懸命表現したい……。結局『コンプレックス・パーソンズ』も、後半のダメダメさはまさしくそういうところにある。漱石の『こころ』と比べた人がいたらしいけれども、『こころ』だったら先生は奥さんに隠れて自殺するわけだけど、『コンプレックス・パーソンズ』は言わば、奥さんが先生に代わって遺書を書いてるような形に最後はなっていく。あれは漱石というより志賀直哉の『暗夜行路』の一番最後みたいなものであって、非常に情緒的な母胎回帰のように読める。決して論理的には書かれてないと思いますよ。

大澤 いや、論理的には書いてるはずです。読めばそれはわかると思うんだけど。論理で回収されない何かがあって、それがもしかしたら情緒的に響くのかもしれない。そこは自分でもよく説明できない。徹底的に論理的に書いたつもりなんですよ。

大杉 そこが僕にはよくわからない。阿部和重の方がよっぽど論理的だと僕は思うけど、違うのかな。

鎌田 いま大澤さんの言ったことで、原理で動くのはうんざりで、動きたい、人に会いたいというのは、僕もそう思ってました。だから、いろんな人に会えたのは、2号までは非常に面 白かったですけどね。まだ俺は「重力」を続けてやるけど、とりあえずそういうのはあった。だから原理の共有なんてどうでもいいかと思って、いい加減にしてしまった面 も多少ある。
 人と会うのはやっぱり、面白いことです。特に俺なんか、もうばれちゃったから言うけど、毎週毎週九州までバイトしに飛行機で往復している。だから、松本圭二とかに会ったら、世の中は面 白いな、天才がいるんだな、と思って何か単調さから解放された気がしましたね。でも、マックを破壊した奴と会っても意味ないですよ。

大澤 いや、どうかわかんないですけど(笑)。たとえです。

 さっきマック食っちゃったしな(笑)。

会場B 僕の感覚的な理解だと、大澤さんが共有したいのは原理じゃなくて、気分のようなものだと思うんです。

鎌田 厳しいね。

会場B いや、否定的な意味じゃないんですけど……。

大澤 たぶん、それは近いんですけど、気分がないところで原理を問うても意味がないということです。単に論理的な作業になっちゃうじゃないですか。だから、ある状況の中でしか原理は問えないと僕は思ってる。

会場B 僕は、大澤さんが言ってる状況っていうのはたぶん、職がないっていうことなんじゃないかと思うんですが。

大澤 職がない?(笑)。

会場B それはたぶんさんが言ってるような……。若い人って大澤さんが言うのも、ここに来てる人たちもたぶん、文学にはまったりしてしまって、没落予備軍のような若い人は多いと思うんですけど。

大澤 正直、ここにいる人たちが自分で何かを書いて持ってきてほしいと思いますよ。僕に限らず「重力」に投稿してほしいと思っている。もっといてもよかったんじゃないかなとも思います。投稿は何人くらい来たんですか。

鎌田 投稿っていうか、「重力」自体には、読んで下さいっていうメールが何通 か来ただけです。「01」から「02」にかけては、原稿を回し読みしたのは大澤さんともう一人だけかな。制度がそこはできてなかった。
 ただ、いまの気分の話で言うと、俺は逆にそういう気分を突き放したいね。没落予備軍の間に瀰漫する気分とも徹底的に戦っていきたい。君達は没落しきってないよ。もっと没落しようぜ。そこまでいかないと駄 目だ。……と言ったらまた怒られるんだよな。苦しみがわかってないとかさ。何でこうなっちゃうんだろう。俺の方が苦しいよ。俺はサイボーグになりたいよ。とかいって、それも気分か(笑)。

会場C さんにお聞きしたいんですけれども、僕は大澤さんの話されたことにリアリティを感じていて、何か運動体を作るとき、気分と原理性は分離できないと思うんです。さんがよく言う「享楽」ということを考えるなら、原理だけでできるんでしょうか。さんがドゥルーズを引用して「群れ」と言ってるのと、大澤さんが言われたことが僕の中では合致したんですけれども、どう思われますか。

 いやよくわかんないですけども……

会場C 原理だけで運動体が進んで行けるかという問題です。

 原理だけじゃ運動なんかできないでしょう。毛沢東風にいえば、水のなかで泳ぎを覚えるしかないわけで。「重力」ってのは、原理っていえば原理なんですか?

大杉 前提でしょ。

 前提だと原理とはちょっと違う。前提は色々と、やっていく上で変えざるを得ないとか、ちょっと逸れざるを得ないということが必ずあるわけでしょ。よく知らないけど。

鎌田 もちろん、暫定的で、公開の議論を通じて修正するものですよ。

 その場で修正しなきゃならない、カッコに入れなきゃならないことって、常にあるわけでしょ。

鎌田 むしろ、それこそが「重力」の原理なんです、強いて言えばね。

会場C パーソナリティみたいなことが出て来ざるを得ないと思うんですけど、その辺は。

鎌田 パーソナリティとかいうことはよくわかんないけど、気分で動いていいんですか。

大澤 気分という言い方は確かに語弊があった。

鎌田 志賀直哉もみんな気分で動いてるんです。人間を個人にするのは気分じゃないですよ。むしろ気分の暴走を抑制し、自己批評する別 のものを見いださないと駄目なんじゃないかな。情念はもともとある。それは否定しません。でも僕にとっては、いかに情念から解放されるかっていうことが課題で、今さら、原理だけではだめで気分が必要なんだって言われたら、問題の方向が逆になる気がします。

大澤 ちょっと待って。僕が思っている「気分」というのは、さんが運動をやってるときのような「気分」じゃなくて、どちらかと言えば「人」や「出来事」だった。自分がやりたいと思える人がいなかったり、向き合う現実のないところで原理だけを議論できないという話なんです。だから、おっしゃったような意味での、気分と原理という話とも少し違うと思います。

会場C 僕は、気分と原理は分離はできないような気がするんです。

鎌田 そうかもしれません。でも、繰り返し気分から自分の身を引き剥がそうとする試み自体はあると思うな。僕は生活上、自分の気分にいつも翻弄されてるから。

会場C 個人の、例えば批評ということで言えば、鎌田さんのやり方は誠実で紳士的なんですけれども、運動体ということで考えるとどうなのかなと。鎌田さんの言い方だと、批評それ自体が運動体ということだから、首尾一貫はしてるんですけれども。

鎌田 いまの方の議論を聞いていて思ったのは、やっぱ俺はスガさんの批評を根本的にわかってないんでしょうね。「享楽」を、さんについての批評で僕は結局わからないで書いてると思います。

 それは、向こうからやってくるものだからね。気分の問題っていうのもさ、気分ってのはいつもつきまとうわけだよね。原理だったり。それはもう、気分がいい悪いとか、気分を排除すべきだとか言ったって、常につきまとってしまう。それに対して、これはまずいなと思うときはさ、ちょっとカッコに入れるとか、そういうことしかできないわけでしょう。気分を追求したってしょうがないわけだよね。
 例えば、「重力」だって何だっていいと思いますけれども、ただ必要だからやってたわけでしょう。とりあえず「02」を作る必要があって、そのときにいろいろ問題が出てくる。それだけで別 にいいんじゃないかな。前提は、とりあえず色々とカッコに入れておいて、壊さなきゃならないところが出てくるとか、そういう中でしか……。原理とか、そういうことを言ってても、今までの議論は全然ピンとこないんですよ、俺。よくわかんないんだ。運動とかさ。大した運動じゃないですよこんなの。〔会場笑〕代々木公園に行くのが大したことじゃないのと同じようなもんですよ。ちょっとやってみましょうぐらいなもんじゃないですか。

大杉 やっぱり大澤さんに対する疑問があるけどさ、気分とか人とか、それが好きになったり嫌いになったりするのって、やっぱり構造によって決まってるような気がするんだよね。それを決めさせている外の磁場ってあるんじゃないですか。そういうものを見ないで、人に会いたいとか言っても……。つまり、ある人を好きにさせたり嫌いにさせたりしてるものは何なのかってことも突き詰めて考えていかないといけないと思うんだけど。別 に、大澤さんが完全な情緒主義者だとかは思いませんけどね。

大澤 いいですよそれで(笑)。

大杉 前に、山城むつみとか好きだって言ってたじゃない。

大澤 まあそうですね(笑)。

大杉 要するに、ある種のムード派みたいなものだよね。

鎌田 (笑)やっぱそういう所が大杉さんはいいなあ、かっこいい。

 あんまりぴしっと言えないところをげろっと言っちゃうという(笑)。

鎌田 しかも軽薄な調子がいいよね。

大澤 そこに疑問を感じるけど。

大杉 だけどね、山城さんより僕は大澤さんがマシだと思うのは、山城さんは対話しようとしないじゃない。何か言っても絶対に答えてくれない人だけど、少なくとも大澤さんはこういうところに出てきて、対話する意志があるってことは非常にいいことだと思うんですよ。だから、大澤さんはムード派でいいからその対話をする意志っていうのを忘れないようにしてほしい。〔会場笑〕

 まあそういうものじゃないの(笑)。

大澤 じゃあ僕も返すけどね。前から思っていたんだけど、大杉さんの批評に心を動かされたことは実は一回もなくて、いつもすごくケチ臭いところで怒ってるなという印象しかないです。鎌田さんはさっき、大杉さんはその部分を直せという言い方をしたでしょう。そういうことは言うべきではないって。僕はむしろ逆で、その徹底化が足りないんじゃないかと思うんですよね。本当に自分がそう思うんだったら、そこで貫けばいいのに、どこかで弱気になっちゃう部分を感じる。大杉さんがそれをやり続けても僕は動かされないけれども(笑)。例えば「徳田秋声論」ですね、僕からみたら、なんでこういう問題意識で動いているのかなよくわからないんだけど、それをずっと押して行って。「アンチ漱石」もそうですね。何か論理的に、問題がずれているんじゃないかとずっと感じてて、でもずっとやってましたよね。そういう批評を大杉さんが展開すればいいなっていうことは思ってます。何かつまんないことを言っちゃったかな。

鎌田 お互いに助言し合ってるわけですね(笑)。

 白樺派やってるなあ。

会場D 今日は松本さんがみえてないんですが、彼の書いたものに対してみなさんが思ってることがあればお願いします。松本さんの詩を読んでいてひっかかるところ、いいなと思うところがあるので。そのうち合評会をやるから読んでくれということなら構わないんですけれども。

鎌田 松本さんが引用するとさ、大澤さんのメールも詩になるんだよね。

大澤 すごいですよね。びっくりした。

鎌田 あれは行分けしてる。大澤さんはほとんど行分けしないで書いてるんだけど、ちょっと行分けを加えただけでそのメールを詩にしている。

大澤 聞いてみたいんですけど、松本さんの詩について、誰か批評はしたんですか。僕はメーリングリストであの文章を流しただけなんですけど。

大杉 してないと思うけど、ひっかかるところってどういうところなのか、教えていただければと思うんですけどね。

会場D 僕も詩を書いたりしてるんですけど、伏せ字はどういう形で書いたのか。書いたものがあって、それは塗り潰すべき、でもやはり発表すべきという製作過程だったのかなと想像したりしたんですが。

鎌田 どこまで言っていいのかな。

井土 それは松本さんの個人的な問題等々にかかわるので……

会場D じゃあそれはいいんですけど、「03」号の合評が出るのかわからないので、ここで彼に対する皆さんの思いを聞かせていただけたらと。

井土 スガさんどうですか。

 じゃあ簡単に。まだ合評が出てない段階で、それに俺が出るかもわからないわけだけど。68年以降をある意味で体現するのが稲川さんだとしたら、松本さんという詩人はポスト稲川的な意味で……。稲川さんとはスタイルも異なるわけですけどね、ああいう長編詩的なものがなぜ今書かれなきゃいけないのかというのを、実践したりしてるわけだよね、彼の場合。彼が現代の詩の中で一番面 白いポジションにいることは確かだとは思います。まあそれ以上は、もうちょっとちゃんと読んでからということで……。

大杉 僕はパス。

井土 僕は単純に、彼が、自分の幽霊がまだ東京で彷徨ってるというところで、まあつきあいも古いので感動した。現代詩というもの自体についてはわからないんだけど、あの部分で感動したということだけですね。

鎌田 自分の部屋がいわば東京なんだけど、そこに立てこもるのは駄 目で、母親や子供に話しかけられる条件の下でも詩を書けなきゃいけない、と。

井土 最終的な決意表明にもなってるわけですよね。

鎌田 俺もそういう状態だな、精神的に。

 「01」の合評をやったのは、さっき大澤さんが言ってましたけれども、相互批評が必要なんじゃないかということです。「01」は事後的にやったわけですけれども、「02」の作品については、事前にやった方がいいという話があったんですね。そこで事前の検討をやったときに、松本さんはあの詩でいうと、前半くらいまで書いてたのかな。僕は最初に読んだときは、まあ、小咄みたいだなと(笑)。笑ったところがあったと大澤さんはメールに書いてたんだけど、確かにうまいなっていうのはあった。だけども、あんまりいいとは思わなかったんですね。その検討会に松本さんは九州にいる事情もあって直接参加できなかったんだけども、そのあと大澤さんがメールを送った経緯が詩の中に書いてある。メールの内容も書いてありますが、それが後半部の一つの推進力になっているところがある。僕は、詩についてうまく評価することはできないんですが、それ以降に書かれてる部分はいいと思いました。言えるのはそれぐらいですね。

鎌田 彼のレジュメもいいよ、今回の。スガさんへの食い下がり方は見事なものでしょう。

 レジュメも詩だよな。

鎌田 僕はああいう無教養は肯定する。「アルチュセール、名前を聞いたことがあるような気がする」とかいうのは絶対にいい。お勉強でアルチュセールやヘーゲルを入れろと言ってるんじゃないんだ。

井土 そんなかんじでよろしいですか。

会場D はい。

大澤 僕も沖さんとほとんど感想は一緒で、自分のメールがどうという言い方はしたくないけれども、明らかにあれ以後はすごくいいと思いますね。すごくいいと思うんだけど、疑問があって、それは、一号で鎌田さんとやり合ったでしょうということです。なんでその感覚を持ってるのに、あのような前半部を書いてしまうのか。前半部を書いたことに対して誰かから批評をされたら、それをよくできる力があるのに、なんでそれが最初から出し切れないのか。僕はわからないけど、もしかしたらそれが生活をするということかもしれません。後半がよかっただけに苛立ちが強くて……。何に苛立っているのか自分でもわからないけど。

鎌田 それが生活をすることだと思うよ。

井土 あと一人ぐらいどうですか。

会場E 現実に、しょぼくても左翼というのは常にいて、知識や文学の側の想像的な左翼が感じるそれとのギャップがずっと日本文学の、あるいは文壇のジレンマだったと思うんです。大澤さんが会いたいと言った、マクドナルドを壊したフランス人というのはジョゼ・ボベのことですよね。ボベみたいな人はいないわけじゃないと思うんですよ。

大澤 まあ例えばですけど。いるんですか。もし知ってるんだったら教えてください。

会場E NAM関係の人たちにもいたし、だめ連の界隈にもいる。想像的な左翼の側はそのギャップを埋めたくて、そこで権力を制覇して地上に降りてきたのが柄谷行人だと思うんです。彼はずっと想像的な左翼の中でしか生きてこなかったから、現実の左翼と直面して失敗したと思うんですね。「重力」もそれを再生産してるんじゃないか。文学や知識の左翼が、「ベルリン天使の詩」の天使のように地上に降りたがっている。

井土 それは意見として受け止めればいいということですか?(笑)。

会場E 皆さんも、『こころ』的な厳しさを抱えているが故に、そこに踏み込んでいけないのかなと。単純に、日本のジョゼ・ボベに逢いたかったら「あかね」〔だめ連系の飲み屋@早稲田〕に行けばいいんですよ。鎌田さんなんかは、可能涼介の話だと、どんなに誘っても「あかね」には絶対に来ないと。大杉重男は一回来たけど店の端っこでいじけたとか。

 何が言いたいんですか?(笑)。

鎌田 ちょっと待って、俺も一言言いたいんだな(笑)。今の議論だと俺達は天使なんだろ。俺の感覚じゃ全く逆だね。今の質問者の方こそが天使ですよ。俺は地べたで働き続けているんだけどな。それだけです。

会場E なんか、柄谷行人の誤りを再生産してるだけのように見えるんですよ。こういうシンポジウムでせっかく出会えたのに、じゃあ原理はどうしようかという話に行くのは、積極的なネタがないからですよ。あるいは、積極的なネタと出会うことを恐れているような、心の内部的な葛藤がパネラーのみなさんにあるんじゃないかと思うんですけど。

 俺はそんなことないよ。

会場E さんは例外的にフットワークが軽いから。

 軽薄なだけだけど。で質問ってのは何ですか?(笑)ネタってのはどういうのを言ってるの。

会場E 原理的なもの、前提となるものをと言いたがるんだけども、それは否定的に働かざるを得なくて、否定的な前提ばっかり増殖していくわけですよ。

 そういう人もいろいろいるってことでいいんじゃない。そういう人はいるんだよ、昔からいっぱい。

会場E NAMと同じようなことを再生産してる。

 ちょっと違うんじゃないかな。

会場E 単に、自分たちの持ってる文壇的な権力が弱いから抑圧できないんであって……。ちょっとそういう人たちが偉くなると、第二、第三の柄谷行人が現れ得るわけですよ。鎌田さんももしかするとなるかもしれないし。

鎌田 そんなの、さんにも大杉さんにもしょっちゅう言われてますよ(笑)。

 そういう忠告だと。もう時間がないんで(笑)。

鎌田 ただ、そうならないことだけは約束できますよ。絶対にね。それは約束します。

井土 ではもう時間になりましたので、今日はどうもありがとうございました。

〔終り〕

(2003年4月6日 青山ブックセンター本店カルチャーサロン青山にて)
(構成:長谷川一郎)