高山大祐/「悪について」(前)


序文

1.本文は拙著「意味と認識」(1999年)の第三章「邪悪さについて」に、大幅な加筆・修正したものをさらにWEB重力投稿のために短くまとめたものである。この本のことを知る人はほとんど存在しないだろうから、日常に忙殺されている人たちのためにいくつか注意書きをしておいたほうがよいだろう。
 第一に、私はこの論考「悪について」を、重力編集部からの依頼によって書いている。
 第二に、第一の点からの自然な成り行きだが、重力の関係者のうち最低一人は、「意味と認識」1999年版に目を通している。
 この二点を念頭に置いてほしい。著作権は私に帰属しているものの、どうしてWEB重力にこんなものを載せるのか?については、編集部に尋ねていただくほかはない。私にはそのへんの事情はわからない。ともかくも、書かれていることを仔細に検討する暇(いとま)のない人たちには、以上の二点を参考にして、テーマの選択にあたっては依頼人の希望も入っていることを銘記されたい。
2.悪について論じるなどというのは、いかにも唐突いかにも大胆なことである。隣の男がそんなことをいきなり話し出したら、私もいい気分はしないだろう。善悪の彼岸などとニーチェが言ってからもうかなりの年月が経つ。だが、本当の意味で悪とは何かがわかっていないとしたら、そこで越えられているものは、語の用法である。これはあまりにも当然なことである。例えば次のような形で言いなおすことができるかもしれない。私は自分が生きるうえにおいて、私が好むところの概念と好まないところの概念の対立を越えたところにいる。この認識において本質的なことは、私は生きるうえにおいて概念操作を超えたところにいる、ということである。或いは、生は概念の集合を越えたところにある。そのように言うこともできるかもしれない。このことであれば私は簡単に同意できるが、逆にある人たちには恐ろしくなってしまうであろう。
3.私は、悪というものについて述べたいがために、意味と認識を書いたのではない。記号そのものの時空間的な分析を目的として考察を行い、その分析の結果として第三章の「悪について」が書かれたのである。ある独特な理論図式、それは明快な図式であるが、そこから導かれている。結論を一部言えば、悪というものは概念の否定とも、好まないという感情の移入された概念とも違うものである。これらは、記号と概念に明快な意義づけを行うことのできる理論図式にしか可能ではない区別である。残念ながら、それを詳述するスペースはない。そこでは、経験の多様性を無味乾燥な概念に還元する傾向に最大限に譲歩したうえで、区別せざるを得ない記号の諸動態が示されるのである。それは主体の理論として提示される。その理論が何を悪として捉えるのか、その一端をこれから見ていただこう。

第3章 悪について

(1)
 あるであろう情熱と誠実さにもかかわらず、今の思想と哲学に致命的に欠けているものは、悪への視点である。内部論理(注:内部論理とはこれが書かれた本の中で説明されている単語である)は良い面だが、それだけでは悪に対処することはできない。悪を知ってこそ人はより善を知る。人は善悪を大所高所から主観的なものに過ぎないと結論して、しばしばいい気になっているが、それは茶番劇というものである。例えば、ある時代の善を言葉で逆転させて悪と言ったりその逆を行うのは、言語操作の上でなら誰にでも可能なことである。別に英雄的なことでもなければ知性優れた人間の所業でもない。むしろ凡庸なことである。特に批判しておきたいのが、異国やはるか遠い時代に重視されていた事を否定して「さあどうだ、自分は善を否定するかっこのいい悪人だ」と吠えたてるような態度である。臆病な上に頭まで悪い。これでは先が思いやられるだろう。
 そのような態度は、実は本人が意味させたがっているようなスタイリッシュな凶悪さとはほど遠いところにある。自分ではかっこいいと思っている凶悪さは悪のうちには入らないし、実は世のためを思っているなどという凶悪さなど悪ではないのである。そのくせ他人が何かを喜んでいるのを見ると、さながら習性のようにして、内容を問うこともなく善悪を単純に逆転させる言語操作を施して大いにわめきたてることとなる。そのような連中も遂には自らに飽きて自分たちの徳目が必要となるかもしれない。
 しかし、結局は掲げられる徳目にしがみつくことしかできていないのが現状ではないかと思われる。善悪を大所高所から主観的なものと断ずるようなやりかただと、いざ現実に対処する際には極めて狭量な態度しか示すことができないのが通例である。単に好みというだけなら、いくらでも自分に敵対するものが周囲に存在するからである。そこに先のような言語操作攻撃をお互いにやっている様子を想像すれば、それから起きる混乱もまた想像できるのではないだろうか。このような態度では、さような攻撃をさせない理由は決して出てこないし、自分が明日は攻撃を好きになるかもしれないということは決してない、ということを、周囲に納得させることもできないだろう。かくして自分の安全のために見えざる暴力に訴えるという道が残されている(分かりやすい犠牲者を選んで言説によって攻撃するというのが一例である)。大所高所からの善悪の相対化というのは、これらの暴力の上に立つ者にとっては格好の正当化になる。まあ自分たちは多数派だという宣言が一番分かりやすい例である。しかしニーチェにおいて標的だったのは、元々そのような「多数派」の方々であることを忘 れないで欲しい。そして否定的刺激や圧迫に対する無感覚、反応そのものの切除や除去、これは上述の態度が支配的な文化でのもっともらしい身の振り方として、昨今では高等な対応であるかのように言うものもあるが、それは同じニーチェによれば出来の悪さ(退化と意志薄弱)の証明であるということである(「偶像の黄昏」より。『去勢』は彼によれば生の横溢に対する教会的治療法である)。
 昨今においてもその時々の徳目の批判が長々と続けられるが、外見や単語が変われば大抵の人には見分けがつかなくなってしまう。それはいつの世も同じだ。そして、あまりにも同じ形式で批判を繰り返す結果、自分でも徳目に自信が持てなくなった人々は(徳目批判の形骸化により、もはやどのような徳も押し出すことができないので)、誰にでも分かる被害者を盾に行進し、正義を唱えるようになる。しかし、そのようなものの暴力を、私は叩くつもりだ。慰撫されるべき被害者を慰撫するときには、好ましくない連中も紛れこむ。善悪を好みに還元したり、ただ単に傍観者的な視点から相対的であるとするところでは、傍観者の正義感や憎悪や自己満足の心を満たすような被害者たちが捜し求められ、彼らは高値をつけて、本人の意に反して多数者の隠れ蓑として使われる。大切なのは市場に引かれる被害者をそこから迅速に救い出すことであり、避けられず市場にある被害者を支えることである。助けないということは不可能であり、助けを呼ぶためには情報の市場(これには多かれ少なかれほとんどの人間が現に参加している)にも助けを求めることになる。そして、毎日繰り返し供給される公正のイメージに満足するのを止め、市場のメンバー自体が変化していかなくてはならない。誰しも時には多数者であり時には少数者だが、刹那的な帰属は大したことではないし何も保証するものではない。そんなことを確かめて議論している間に、対処すべき状態が変わってしまう。悩む必要のないことで悩むよりは、対処すべき状態のことを、すなわちここで言う悪の様態を知るほうが効率がよいだろう。
 私は記号の力学と称して、記号そのものの分析から、記号にはどんな定義が与えられるよりも前に、いくつかの本質的な方向性の区別が存在するということを見出した。具体的には世界内存在が取り得る動作状態は5つであり、これに中立状態が1つ加わる。これらは同一の階層で得られる。私が悪というのも、記号そのものの分析を基盤として、そこにある可能な状態が、どのような条件に合致すれば、世界内存在にとってまた周囲にとって深刻なダメージをもたらすかを考察した結果、名づけた状態である。「自分に好まれないところの概念」とは、既に遠いところにある。周囲のことが理論の射程に入っているからである。

※自分に好まれないところの概念を避けることは別に何も悪いことではない。それを暴力的な言説は時々、「好みに過ぎないのだから我慢しろ」とか「我慢しよう」などといって自分は何も我慢しないが、それを相手にする必要はない。それは傍観者的自己満足か憎悪である。むしろ大切なことは、悪を避けるとは、自分の嫌いなことを我慢して嫌いでないかのように見せるということではないということだ。それは稀に修練として役に立つが、盲目的に嫌悪の感情を追い求めて耐えたところで何事も起こらない。なにせそれは自分の好きか嫌いかに過ぎないのであるから。善悪を好みに還元すると、こんな形で報われるのである。好悪の感情は、日常生活にとって有益なヒントをくれるので、むやみに歪めることはない。もちろんそれだけで重要な決断はできない。同様に善と悪もまたそれだけでは掴みきれないのである。

(2)
 それでは、取り得る5つの動作状態、そして1つの中立状態のうちの1つが悪なのか を確認しておこう。それらは悪ではない。そうすると、悪を為すという現在的な動作 は理論上存在しないことになる。そして実際にないのである。それはこれら合計6つ の動作状態の特有な組み合わせから具現する。それゆえに、悪というものを外部論理 的な仕方(普通の論理的なやりかた)で証明することはできない(注:この事情は本 書全体を読まないと理解できないだろうから、本書独特の仮定か仮説として受けとっ て読み進めて欲しい)。しかし、組み合わせから悪の現象が具現するということは、 一度悪が感じられたなら、そのときには相対的に大きな現象として現れることが予想 されるということを意味する。それゆえこれは軽視することなど絶対にできないので ある。(証明できないということについて:明らかに真であっても証明できないこと があるというのは有名な定理にあったと思うが、そういう定理に訴えることもなく、 証明できないことも、それにも関わらず悪に相当する状態が必須であることも、本書 全体の叙述から明らかに理解されることだろう。それゆえに、証明できないというこ とが示すのは、悪への対処は通り一遍の方法では困難だということであって、それが 嫌悪感や否定に属する何らかの行動・もしくは何らかの言動だということではない。 特に否定と悪は混同されがちであるが、それはまったく違うものである。ニーチェに おいてさえ、悪と否定は時折同一視されるが遺憾なことだと私は思う。)
 悪には大きく分けて3つある。それは凶悪さと邪さという対と、卑屈さ、そして自 己満足の3つである。まずは凶悪さと邪さの対から説明していこう。まずそのために 害意の何たるかを説明しよう。害意というのは、抱く当人の健康にとっても好ましい ものではないが、害意を抱いたというだけでただちにそれが悪の状態だということで はない。害意を抱くということの元になっているのは、ある対象に対して項以外の様 態を継続的に与えない(注:これを知るにも本書全体を読む必要があるが、結果だけ いうと項というのは動作状態の複合体としての主体と似ているが対照的なものである。記号の生きた状態に対して項は操作的であり或る意味では仮死状態にある)こと に対応する。したがって害意を抱くことはしばらくの間は当人の恣意のままになる。 しかし、害意自体は現象したときに悪と同義ではない。そこにこの問題の難しさがあ り、ありきたりの定義があてはまらない理由となっている。これもまた本書全体を読 まねばならないが、現象と主体的な動作状態とは1対1の対応関係を持っていない。そ うではなくて関心の的になる現象に対して5+1の主体的な動作状態が対応している。2つの問題がある。第一に、害意の標的が現実に生きた状態で推測されるに相応 しいか、つまり害意を抱くものが、標的を正しく見積もっているかどうか。第二に、 そのことは自己申告以外の手段でいかにして証明されるのであるか。
 一般的に言って、害意を抱くと主張する本人を想定した場合には、まさに生きた状 態で推測され語られるに相応しい対象、例えば人間を、わざと石ころ同然に観念の上 で転がしてみせるというような姿が思い浮かぶことだろう。確かにこれはお世辞にも 平均的な人間のすることと言えるものではない。しかし、そのことだけとってみれば、対象に対する(傍目には)お粗末な見積もりに基づく、建設的でない概念操作の 始まりか終端か、或いは中間を我々は眺めているに過ぎない。よって害意を抱くこと から、ただちに悪の現象が帰結するわけではない。害意自体の明快な定義を与えるこ とも困難ないし、不可能と言わねばならない。したがって、本人の自己申告に頼ると いうのも、理論的要求を満たすものではないと考えられる。言えるのはただ、生きた 対象を仮死状態へと引きずろうとする傾向に対して、害意という言葉が相応しいとい うことである。これはしかし、個々の害意を害意として同定できる基準ではない。そ してそれは現象レベルでは区別しがたい。
 しかし、人間の素朴な経験に訴えたときには、ただちにこうした一面の結論「害意 に定義を与えるのが困難だ」ということへの反論が心に浮かぶだろう。それはまった く正しいことだ。現象のうちに害意の痕跡、害意の気配を見ぬくことは、実際に生活 の中で多くの人間がしていることである。子供もしばしばそれを感じ、言葉にし我々 を驚かすことがある。こうした人々の直観は、正確なものとは限らないし、その後の 対処がまずいこともあるが、根拠のあるものである。根拠は、動作状態自体にではな く、動作を方向付けているより大きな記号の方向性(本書では極と呼ばれる)の平衡 関係から出てくる。記号の方向性の平衡を乱すものは、主に同じ動作状態の過度な継 続に起因している。3つの方向性で理解される記号の平衡は、具体的な動作状態の選 択によって乱される可能性がある。この可能性を悪の源泉と呼ぶ。それぞれの方向性 の欠損や突出は、それぞれに対応した悪を現象するものと考えられる。悪を無視でき ない、悪を視界から外すことができない理由が、この平衡関係の撹乱を防ぐような簡 単な手段がないということ、裏返せば撹乱の可能性自体は否定しようのない事実であ るということにあるのである(この可能性は人間のように動作状態を比較的自由に操 作できるに従って大きくなる)。したがって、我々にはこの可能性を展開し、その振 るまいを見極めるという仕事が残される。これは残酷映像を他人にも無理やり見せよ うなどという「蛮勇」とははるか遠い作業である。(見たければ各自で見よ。他人に 迷惑をかけるようなまねをせず、どうすればそれが防げるか考えてから来い。)
 さて、害意に基づく悪は、凶悪さと邪(よこしま)さであると先に書いてある。い ずれも、同じ方向性の突出に由来する。いずれについても、相対している対象を生き た状態ではなくて、死んだ記号として扱うことになる(注:生きた状態、死んだ状態 などは本書を参照するか、或いは再び仮説として仮理解をしておいて読み進めて欲し いが、その区別は明快であり、見間違いようはない)。そのことを確認して個々につ いて説明しよう。
 凶悪さとは、上述の傾向、すなわち対象を生きた状態としては把握せず、仮死状態 にして操作的な状態にしておくことを、よりマクロなレベルで、或いはより直接的に 現実生活に反映される形で行う傾向を指す。そして邪さとは、同じ事をより間接的な 仕方で行う傾向を指す。
 先ほども書いたが、ここでは理論的に得られた方向性をもとに、悪の可能性を展開 し、その振るまいを見極める作業を行っている。凶悪さについてまずそれを適用しよ う。凶悪な状態、または凶悪さが支配的な主体とその周辺では何が起こるのか。そこ では環境のいかなる変動も、単なる項として扱われて思考され、また現実にそのよう に実行される。抗議や抵抗や反論の類は、全て処理されるべき抵抗を示す量や事実に 還元される。このような傾向の主体では、世界はあたかも彼に帰属しているかのよう に処理されている。抵抗が、「処理されるべき状態」なのではなくて、「自分に対し ての根本的な異議」ではないのか、という自問はこの態度が続く限りはない。これは 独我論的な態度であるが、相手が弱いとみるや蛮勇を示したくなる現代人が発作的に 飛びつくおなじみの光景である。ともあれ、これ1つとっても、独我論という単語を 攻撃したり、ルールをちょっとばかりいじるというのでは対処しきることは困難なこ とである。というのも、これは個々の現象としては、杓子定規な男の凡庸な逃げ口上 に過ぎないということがありうるからである。このような転換は、知性なのではなく て凡愚の証明でしかない。というのも人間を相手にしながら、自分はそれが分からな いと公言しているようなものだからである。人間というのは、現実にはそのような強 行に出られるほど強くはないが、自分でそのつもりでいるという人間は数多い。
 邪(よこしま)さ。邪さは、自分の弱さの自覚のゆえに直接的に相手を支配下に置 くことは意志できないが、言説や陰謀によって強者から力を削ごうとする傾向である。このような傾向というのは、相手によってはただちに凶悪さに転換される。基本 的には凶悪さと邪さとは同じ性質だからである。(いずれ書くつもりだが、このよう な悪は、ニーチェが悪と否定とを混同したことで擁護されたため、厚顔な連中を活気 づかせることになったが、人間の可能性を最大限に生かすことは決してないことが明 らかになったので、くれぐれも一時の虚栄心のために飛びつかないようにしてもらい たい)。
 話しを戻す。誰か目の上のたんこぶだと思われる人間をみんなでなんとか排除しよ うというとき、ごく普通の人間は大義名分を求めるし、正当化できる理由を求める。 邪だといわれたくないからである。しかししばらく眺めているとそこに邪な人間が混 じっていることが判明することがある。それは弱い立場の人間に対する態度や、いつ も誰かの追い落としを試みている人間がいるとか、なぜだかその人物の周辺ではしょっちゅう追放だとか除名だとかお家騒動が起きるとか、そうしたことから分かっ てくるのである。
 凶悪さと邪さは、共に行為と密接な関係があるが、行為そのものが悪なのではない。行為の偏重から来る悪は、個々の行為からは分からず、傾向的に読み取ることが できるのみである。したがって即時的に凶悪さと邪さを判別する方法はない。凶悪さ は直接的なので比較的分かりやすいが、邪さはより潜行的なので傾向的にしか分から ない。しかし、個々の好ましくない行為に繋がるのは、頭の中で人間を仮死状態に置 くということである。人間を操作的に扱うのは統計処理とか医学とか人間工学などの 目的のはっきりした分野においてであり、人間同士のつきあいの中では基本的に礼を 失した態度と見てよいだろう。
 人が悪に走るのは、一見それが徹底した態度に見えるからでもあるし、精神の偏重 により自分の中のエネルギーを容易に取り出せるようにも見えるからである。しかし、それでは自分の持つ可能性を十分には引き出すことはできない。周りの迷惑も甚 大なものであるから是非とも止めていただきたい。悪は現象としては相対的に大きく、原因となる本人には何の薬にもならない。もちろんかっこのいい革命児とも程遠 い。

(3)
 卑屈さについて。解釈の偏重と、行為と環境の無視・欠落から至る態度である。こ れもまた現象の中では傾向としてしか分からないが、そのかわりに理論的可能性とし てはあまりにも明らかな形で現れる。行為の否定と現象の解釈の偏重は、私の見ると ころでは前述の凶悪さの反動から一切の能動的行為の否定に至るという道筋で起きる ことが多いようである。しかし、行為の完全なる否定を現象させるということは、本 人の希望とは無関係にまず無理である。他人に話しかけることにも私の理論における 行為は介在するからである。そうすると、無行為現象地帯を人間が自己について設け るということはまずあり得ない状態ということになる。したがって、行為否定者とし ての解釈専門者は、さしあたり自己定義において自分は解釈専門者であり、他に働き かけるような独断的な真似は一切しないのだ、と思っている状態にある。
 これは一種の現代病であると私は99年版で書いている。奇病とまで書いたが、行為 を悪と同一視するような誤りを犯すと、陥りやすい状態ということが言える。本当に 彼が心の中で解釈をしているだけで、特に他への働きかけをしないのであれば、それ は現象としては無口な人で終わるかにみえる。しかしながらそこにはもうひとつ別の 可能性がある。それは、他からの要請の拒否か無視という可能性である。他からの働 きかけの可能性は、理論上この立場では排除し得ない。排除するためには、他を彼の 意に合わせて秩序づけないとならないだろう。それは既に働きかけなのである。この 状況で解釈のほうをより生かすのなら、他からの問いかけへの応答は予め否定されて いなければならない。
 つまり、解釈専門者の自覚に立つ者は、延々と現象を解釈しつつ、人から何か言われるとそれへの応答を拒否する。そしてそれが現象と捉えられるならそれを解釈し始める。これだけでも相当に困った人間であり、また自己中心的な無用の長物である。そしてまた惜しむべき能力の浪費を行っている。
 また、解釈専門者の意志と行為放棄の外観の確保の努力は、時に思いもよらない展開を見せる。自分が解釈をするだけの人間であるということに対して、周囲からのお墨付きを求め始めるのである。これは要するに、世界内存在には不可欠な行為・意志を周囲に仮託しているということなのである。それが当人にとってどれほど薄汚れて感じられるにせよ、周囲に押しつけて涼しい顔をしているというのは、誉められたことではない。
 世の中には、理論的解釈専門者という人間もいて、それらは意志と行為の否定から自分の立場を理論的に確保したと考えている。しかし、そうした純粋解釈者が自分の立場を確保するために、外部の何者か(文脈とか趨勢とか時代精神)に何を仮託しているのかを観察することでその欺瞞はいずれ露見するだろう。
 理論的に自らを解釈専門者に限定するということは、自らに対して厳しい制約を課すことになる。解釈を自己にだけ留めて、ひたすら解釈をしながら他人の言葉への応答は断り、一切積極的な主張はしない、ということが可能であればよいが、これだけ非合理な戒律の実行が可能でない場合は、外部の権威をいただいた主に言説による攻撃が始まることになるだろう。こうした攻撃は、意志と行為を否定しない人間の力を削ぎたいのだから、邪さに通じている。結果を恐れて自分は解釈をするに過ぎないのだといい続ける卑屈さはこうして、邪さへと通じている。それは相手が弱ければすぐに凶悪さに転換される。
 思うに任せない現実に耐えて生きるために現実を解釈するという抵抗の方法があることを私は知っている。しかし、それは将来のためであったはずである。その方法が一人歩きしたり、自らを最終的立場と為す場合には、ここで述べたような事態と隣り合わせになるということを知って欲しい。
(2003年6月、つづく)

(たかやま・だいすけ……哲学。七二年生)

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付記 今回掲載するのは、高山大祐氏の著書「意味と認識」の第三章「邪悪さについて」に、高山氏自身が全面的な加筆改稿を加えたものである。高山氏が冒頭で言うように、本章は前二章との緊密な幾何学的関係のうちにあり、それは大げさに言えば、「エチカ」の第一、第二部と第三部以後の関係に近い。にもかかわらず、氏の主張と苛立ちとが最も率直に露出した第三章の単独公開を、我々はあえて依頼した。
 なお、氏は自らのWEBを主宰する一方、本書を自費出版しており、この書物は一部のオンライン書店や、地域通貨Qでも購入できる。批評や哲学に関する公募論文や新人賞システムが機能不全に陥っている今日、原点に帰って言論を公開的に問うスタイルにも注目してほしい。おそらく、この書き手にはネットの「自由」ではなく書物の「不自由」にこだわる何かがあり、それはリセットできない現実への倫理的な固執から来ている。(WEB重力編集担当)