高山大祐/「悪について」(後)
(4)
環境の喪失から来る倣岸・自足・自己満足。行為、解釈は世界内の存在者の代表的
な2つの中核である。もう1つの中核は環境である。環境も、本書では少し変わった
方法で導入されているが、ここでは分かりやすく自分の周りの環境と考えてもらいた
い。99年版は駆け足でこの問題に触れており、しかもあまりに軽く扱っている。改訂
版でははっきりと変更されねばならない箇所である。99年版で述べているのは、環境
が現実になくなるとどうなるかということであった。しかし、重要なのは環境が無視
されるとどうなるかということである。99年版は、概念だけでくみ上げられた理論の
あるものに対しては効力を有するかもしれないが、現実に生起しうる悪の可能性の分
析にはあまり有効ではない。実際に環境はあるのに、主体は環境の働きを無視する。
そこに環境の喪失による問題が生じてくる。
環境というのは私の理論において極めて重要な位置を占めており、それは3つの中
核のうちの1つである。しかし、5つの動作状態と1つの中立状態は、環境という支
えこそ必要としているが、概ね主体に帰属している。反対に環境のみが中心となり、
動作主体が単に補助的な位置にあるという主体的動作状態はない。まあ当然といえば
当然である。しかし、ここからバランスの取れた暴走、自己満足の状態が訪れる可能
性が生じてくる。環境が私の理論において果たす役割はどのようなものかを簡単に説
明しておこう。それはある程度自律的なものであり、動作状態が合計6であることに
とっても、不可欠なものである。このある程度自律的というのは、理論にとって非常
に本質的な特質であり説明を要するものである。単なる観察によって自然環境はたし
かに大切だからといって何となしに与えた権能でなくて、理論上の帰結である。その
ような働きの1つである環境が無視されるということは、認識の傾向にも影響を与え
ずには置かない。
私の理論において「環境」の働きが無視されるということは、世界を自分に対して
受動的なものとしてしまうから、凶悪さと邪悪さに通じている。そして、合計で6つ
の動作状態を知るということは世界内の存在者として自由を再発見することになるが、その自由が自己満足に過ぎないものになってしまう。世界を受動的な状態にし
て、自分は大いに自由であるような精神。このような精神には、自分の目に映る世界
だけが問題になる。近視眼的な価値判断と、自分の行動と言動の環境への影響への無
頓着。環境の働きを把捉していないために起こる価値判断の皮相浅薄化。場当たり的
で目先だけの正義感の発露で大満足してしまう或る意味でおめでたい人間。こうした
無頓着、自己満足、浅薄、近視眼といった結構恐ろしい負の効果が予想される。そう
した精神は、苛烈でもありうるし、狡猾でもありうるし、卑屈でもありうるが、どれ
も自己満足の上に立った不徹底なものであろう。
環境については今までのように「知っていただきたい」だけでは済まないところも
あるのだが、ここでは環境というのは自分にとっての手段だけでなくて、パートナー
なのだというふうに書いておこう。
(5)
動作状態それぞれの過度な継続、頻度の偏りはどれも良い影響をもたらさない。各々の動作状態について、説明していこう。分析の継続は、視野の固定を意味する。
演繹の継続は、対象領域の連続的な縮小である。それは根拠のない推論に繋がる。帰
納の継続は、対象領域の連続的な拡大になる。根拠のない一般化、条件つきの結論を
拡大適用することになる。以上は「読み・解釈」に属する動作状態の偏向についてで
ある。演繹と帰納は、精神的には分かりやすい契機となるだけに、続けざまに使いた
くなるが、そうするとせっかくのアイディアが足場を失う危険にさらされることにな
る。
行為の継続。行為は、他への働きかけである。これに偏るというのは、基本的に行
為の邪悪のところで述べた弊害をもたらすが、言語活動の面でも極端な行動主義の特
徴を見せる。自分にも他人にも有意な発話にこだわりすぎると内省の抑圧になってし
まうことがある。内省なき発話の優位への要求は、発話が状況に対してもつ実利的な
力の過大視ということになるからである。それはまた第三者的存在の特権化にも繋が
る。発話状況の理念上の解釈者を特権化するということである。しかし、ちょっと自
分で反省して考えたり、友人と個人的に相談すればそれで済むということも世の中に
は多いものである。以上の他に、価値判断が疎かになる傾向も予想される。それは理
念的状況判定者に過剰に優位性をもたらすことからの帰結である。
これらはみなありうる全ての発話状況の原理的一体性、及び連続性が仮定されなけ
ればならない(それにより理念的判定者もまた導入が可能になるからである)。つま
り、行為という動作状態の「継続」にその根を持っているのである。しかし、発話状
況は概ね相互に連動しているものの、それが同一平面上に必ずあるという保証はなく、また我々の精神活動においても、全ての発話を覚えていることなどはとてもでき
ることではない。思い出し得ることの全てに解釈上関連をつけられるということと、
発話状況の理論上の同一平面仮説の妥当性とは区別されるべきだろう。これは再解釈
問題という論点である。発話状況に影響しない内省を排除する同じ行動主義的視点か
ら、発話状況において全ての発話が同一平面上にあって原理的に影響する、という結
論が導くことができるのかどうか、私は疑問に思う。私には、それは発話状況におい
て、たまたま会話全体の鍵となる発話が容易に見つかったときに可能であるような解
釈を拡大適用しているように思える。或いはまた、「1つの発話状況が他と独立では
ない」ないし「ある発話状況の孤立性を証明できない」という命題を「それゆえに全
ての発話状況を同一平面化することができる」という形に拡大解釈しているのではな
いかと思う。この拡大解釈もまた、発話状況における有意な発話にしか関心を示さな
いという態度と無縁ではない。そのような態度ならば、自分に対して実際に持ちこま
れた発話状況に対し、自分は常に判定をすることができる、という信念を持つだけで、以上のような難しい問題が当人にとってだけ自明の問題へと転化するからであ
る。
とにかくもウィトゲンシュタイン以来の再解釈問題自体は、それ自身興味深い論点
であると思う。
最後に改訂版では内的活性化と呼ばれる動作状態の継続について述べる。内的活性
化の継続は、その間の環境との境界線を強く引いていることになる。その帰結は、内
的活性化に関わる状況がますます密に連絡する一方で、ネットワーク自体には環境か
ら孤立する傾向が現れてしまうということである。 以上、各々の動作状態が継続している状態について述べた。
(6)
現象としての悪と自己意識との関わり。私は悪を、証明できるものではないとみな
しており、したがって人間が自らを悪であると定義することはできないと考えている。不可避の現象であるが、主体はそれを予想し得ない。悪が定義できないというの
は、示唆に富むことではないだろうか。悪を人間自らが定義できるのなら、いとも安
易にそれを相殺する取引を目指すのではないだろうか。もっとも悪が定義できないと
いうのは現代でも珍しくない認識であろうと思う。しかし、その含意は多少とも異な
るであろうと思う。(悪と否みの違いについては別所で述べることにする。悪と害意
もまた似て非なるものである。)
本論における考察において、「私は悪である」ということができるか?。当然でき
ないのであるが、そのような言明自体は虚偽の声明である。それは、悪なるものがな
いからではなくて、悪は人間のコントロールできるような現象の仕方をしないからで
ある。或いは言いかえれば、定義し得ないような形で世界内の主体に害を及ぼす現象
が存在し、それを措いて悪を語ることはできないということができる。悪が人の定義
を離脱してゆく事情は、「私は悪である」という自己定立が、言葉通りにではなく虚
偽の声明として悪へ通じているというところに既に現れている。
通常、悪という呼称は、他人からそう呼ばれるというケースだけが関心の的になる。善悪の傍観者的な観点からの相対化の気分では、「君は悪だ」と呼ばれるときに
は大いに心を躍らせることになるらしい。私の理論においても、悪を言語的に定義す
ることはできない。しかし、それは他人から自分が悪と呼ばれるときには反論が絶対
成功する、ということを言うためではない。
むしろ、自分で悪を決定できないことが自らに謙虚さを要請するということ、その
ことが悪の定義不可能性によって明らかになってくるというべきである。自分で悪だ
と主張したところで確実に人から構ってもらえるわけではなく、悪ではないといった
ところで周囲はそれを通さないこともある。悪の「現象としての必然性」と悪の「定
義の不可能性」の自覚は、自分の為すところに対する自己満足を許さない。そして、
解釈や行為の対象への意識を強める。かくして、環境と主体との関係を常に見つめる
ようにと誘導する。
また他方では、悪の現象の必然性の含意として、悪に対しては対処しなければなら
ないということも分かる。相手の害意が背景に動いていれば、それは自分の感じ方の
問題では済まされないからである。これは何も悪と戦え戦えと言っているのではない。むしろ、自分の感じ方を責めたり変更したりという苦労ばかりをあなたがたが背
負うことはないのだ、と言っているのである。相談できる相手には相談し、助けて欲
しいときには助けてくれ、ということに何の不都合もないということなのである。
悪の現象の必然性と定義不可能性には、また重要な意味がある。悪の必然性に踏み
込むこまずに、単に正しさとか合意とか自らの心慰める現象だけを尊び、漠然とした
悪の不安をいつも抱え、悪を思わせる光景に出くわすと、やけになり、或いは「やっ
ぱり俺の思ったとおりだ」などと開き直り、付け焼刃のマキャベリストになって弱肉
強食を語り出すような態度の不毛さを明らかにすることである。悪の必然性は、それ
が世界の動因であることを決して示していない。なぜなら、世界内の主体が意識的に
悪の現象を自分の意図したように引き起こすことはできないからである。それは現象
してしまうものに過ぎない。もっとも、悪の現象が感じられるときには、相対的に大
きな現象であることが予想されるので、過小評価してはならないことも事実である。
かの付け焼刃のマキャベリストたちのように、実は悪が真理であり世界を動かして
いるが、日常それに触れないようにわざとらしい作り笑いを浮かべて事態を傍観して
いるというのは(これは巨悪とは程遠く、チェーザレ・ボルジア的態度ともはるかか
なたにあるおっかなびっくりな態度であるので、おっかなびっくりの熟練であるかも
しれないが付け焼刃と私は呼ぶ)、悪なり弱肉強食が世界の動因だと思うことが既に
間違った認識であるゆえ、益するところがない。
悪は巨大な現象となる公算が強く、しかも即時的な対処が困難であるが、それ自身
が動因となることはできない。それは巨大な現象として、人々の与件に滑り込むこと
で影響を与えているのである。このように理解していて、初めて自信を持って信頼に
ついて語ることができる。
悪の可能性と共に、善と呼ばれるものについても述べることができる。それは、各
人が悪の現象に負けないように自らを高め、周囲との信頼関係を築いていくことであ
る。そのためには、悪を頼ってはならない。善の条件としては、私が「意味と認識」
で述べているような世界内存在としての認識のありかたを理解すること、或いは、こ
こで述べた悪に走らないことを挙げよう。ここで述べた悪について理解されれば、経
験的に悪に走っていない人々について分かるのではないかと思う。好みや効用という
尺度では決して捉えきれない行動基準がそこにあるであろう。私の理論における善は、相手に勝つこととも自分にとっての効用とも異なる(それらが必要ないとは言わ
ない)。もちろん負けることとも、むやみに苦役を背負うこととも異なる。悪を知り、それに対処できるだけの判断力を身につけることだと私は言う。それは世界内の
主体の認識方法について知るということなのである。
(7)
現に悪に直面した場合。現に自分が悪に直面している場合について考えるというこ
とは、これまで述べてきたところのことを、通時的に考えるということである。悪の
定義の不可能性と、現象としての必然性の両方を、自分がその中に加わっているよう
な場において考えるということである。定義不可能なので考えても仕方がないという
のは、現象の必然性について忘却した態度である。或いはまた、定義がどうしてどう
なったにしても、何が何でどうであると思われるにせよ日常は待ってくれないという
ことを忘却した態度である。たしかにこういう態度は、想像を絶するような馬鹿げた
闘争術をしばしば正当化してしまうので気をつけなれければいけない。ここでの考察
はしかしながら、必然的である悪の現象に主体が実際に対する場合を対象とする。む
しろこのような局面の存在については、必ず触れなければならないのである。一瞬で
分かる便利な判定式がなくとも、理論的な可能性は得られたのであるから、それを地
図として用いることができるのである。ここでの考察は、便宜的に交渉ゲームにおけ
る悪の考察と名づけておこう。
ただちに言えることなのであるが、自分のほうで悪に走ろうとしないことは、交渉
ゲームの場において必要不可欠である。悪の可能性を具体的に知るということは、具
体的に避けることを容易にする。悪を望んでいない、という思いがあれば、相手から
の非難に対して対処することを躊躇することはないだろう。対処の目的が常に悪から
離れてあることだからである。自分が交渉ゲームの一翼を担っている以上、自分自身
にとって必要な心がけというものは外せないのである。交渉ゲームというと、相手を
自分の都合よく動かす術のように思われがちだが、悪の可能性と、悪から離れるとい
う視点をそこに導入するならば、交渉に臨む動機の輪郭もまたはっきりしてくるだろ
う。交渉相手を解釈の対象としかみない態度は邪さに通じているので、自分が場の一
翼であり交渉場は両翼を包む場であるという意識を持ちつづけてもらいたいと思う。
交渉場において現れる悪は、他の現象と同じく時間の順序に従って現れてくる。こ
れは思考の世界では自明のことではない(最近の市販の時間論などでも現れている議
論と思う)。時間のまさに時間である特徴が、簡単に記述内容として反映されるわけ
ではないのである(記述行為には反映される)。であるから、ここで悪が交渉場にお
いては時系列に従って現れるというのは、大事な点である。それが定義の不可能性と
も関連しており、現象の必然性を指摘する必要が生じることとも関係するのである。
99年版で具体例と見なしていたことを抜粋していこう。
「ある話題になると常に解釈が同じ型であり他の考えを否定するとか、或いは初め
から脱構築をすると決め付けているゆえに、人の言うことを補足したり展開しようと
しない、そういう行動としてとらえられる」(99年版110ページ)。相手の言うこと
を補足したり展開したりしないというのは、見かけのオープンさの有無の強調よりも
ずっと重要なことである。「自分は開かれている」という態度を身にまとうのは、つ
まらない意見を自分の頭を素通りさせて右から左に丸投げして人々への嫌がらせを繰
り返しているという行為でさえできる。なるほど、いかなる防波堤の役目も果たせな
い開かれた頭である。
しかし、相手の言うことを展開、補足することは相手への提案であるし、確実に思
考力を要する。つまり思考力と節度、相手に対する思慮というものが確実に含まれる
契機である。単に開かれているという基準は、その点について何も保証しない。概し
て拒否されると予想される意見を声高に述べ立てて拒否の声を起こさせて、相手方は
オープンでないと言いふらすという結末が待っている。もちろんここで非難されるべ
きは自称オープンな人間の方である。
さらに抜粋を続ける。「脱構築そのものが悪なのではないが、彼らはしばしば、初
めから戦略的に脱構築すると決めているので、相手の了解も得ないまま勝手に表現を
切り分け相対化するという方法で原文とは違うものを作り、しかもそれで原文を解釈
したという。もしも、それを自分の文章にもやるというのなら、その目的は理解でき
ないにせよ、行動の一貫性を認めないでもない。しかし、敵対勢力の言うことだけを
そのような勝手な理屈で相対化し、自分がその解釈の末尾にそっと添付する見解につ
いてはそうしない、というなら、そしてそれを繰り返すなら、それは邪悪な現象であ
ろう。(中略)。自他の見解には同程度の意義を持たせるべきである」(99年版111
ページ)。ここでは脱構築という単語にはこだわらずに、相手の意見の改変のマナー
に関心を集中して欲しい。また相手の了解を得ないことを正当化するということはそ
れ自体、少なくともオープンさとは相容れない方向であろう。自分が交渉場の一翼で
あって両翼ではないという自覚があるとは、こういう行動からは推定するのが困難で
ある。以上は99年版における交渉場の悪の現象についての描写である。
これでは時系列に沿って現象するということの意味がよく分からないかもしれない。事前にそこの交渉場には悪が現れると予測を立てることはできない。予測しにく
い状況で、人を交渉場に赴かせるのは、先に述べたように、交渉場に必ず悪が現れる
わけではないからであり、また交渉場の一翼は常に自分だという思いであり、悪から
離れていようという気持ちによる。そうした思いがあったにしても、何かのきっかけ
で場が不穏になってしまうことはよくあることである。なぜかが分からないこともよ
くある。そうしたときにどうすべきかが大事なことである。不穏になっている場にすっかり影響されて攻撃的になる人もいる。全てが悪循環になりかかる。私はこのよ
うな状況を必ず好転させる方法についてなどは説かない。私が説くのは、意図せず不
穏になっている場における対処の仕方である。対処は、むろん交渉場の一翼である人
間が、限定された情報において為し得ることを越えるものではありえない。越えるな
らば、それは結果論に過ぎないだろう。
取り得る手段というのは、実際には多くはない。悪の影響が強まった場では、影響
された側が、自分の身を守ったり相手を攻撃するために駆け引きをし始めるからであ
る。駆け引きが始まると話されている内容はもはや力を持たず、ある主張を認めてやったからこれを認めろといった状態に陥る。こうした状況ではもはや大事を話すこ
とはできない。話の焦点をなるべく瑣末な事柄にすることが必要となる。一方で、相
手の求めるもののうちに本質的な対話の可能性を見つける努力をする必要がある。不
穏な場において適当に相槌を打つことは些事に過ぎない。それに対して大事なことは、相手が自分の話している内容を考慮し尊重しているときに、それにしっかりと応
じることである。
さらに必要な手段は、自身悪を求めないのはもちろんのことであるが、秘密を保持
することと戦略的であることである。何のためにそうする必要があるのかというと、
自分にとっての価値ある議論を、悪の影響が強まった場に長時間さらさないために必
要なのである。それは悪の現象が必然的に現れるという認識から来る。そして、先に
も述べているように、発話状況の一様性仮定を私はそこから帰結する理念的判定者共
ども否定するのであるから、場の性質を考えて行動と発言を選択することは、理論上
の要請といってもいいことなのである。交渉場の一翼であって両翼を担うことはでき
ない、そう私は自分で思っているので、あらゆる発話状況、あらゆる交渉場を自分の
悪からの離脱願望だけで突破できるとは考えない。諦めこそしないが別な接近法、別
の場を模索することをも考えるだろう。一様な発話状況の仮定であれば、最悪な交渉
場から一旦撤収することはできず、そのときの悪条件は全て後続の交渉場に引き継が
れることになる。こうした結論は、実生活においてそのように強いられている場合は
別だが、理論上の帰結として人々に信じさせてはならないものである。
悪の影響がありうる諸々の交渉場一般において、あまりに素朴で正直にしているの
は危険である。また、それが持つ危険を告知することなくその人物が正直であること
を要求する姿勢は、進んで人を危地に追いやるようなものである。状況判断の伴わな
い正直や素朴さを抱いたまま交渉場における悪にさらされれば、その人々の正直さや
素朴さは食い物にされ、自我は無防備なまま攻撃を受けることになる。このような唆
しを私は見たことがあるが、これほど非人道的なことはないと思われたほどだった。
こうした教唆は、狡猾で、非人間的な解釈に喜びを見出す卑屈な人間から発せられる
と予想される。表現というものは基本的に一人で完成させるものである。自己におけ
る表現の完成は、もちろん最善の可能性においても交渉場では一翼であるに過ぎない。しかしながら、危険も確実に存在する交渉場において、自分と相手を守ろうとす
るなら、中途半端で所構うことのない自己告白は捨てるべきである。自己表現の無防
備な流出は、悪を引き寄せるばかりである。正直さや素朴さは、状況判断があって生
かされる。正直や素朴は貴重なものなのだから、簡単に人に見せるわけにはいかない。どんな人間が狙っているか分からないのである。
悪の影響下にある交渉場についてこれまで述べてきたが、改めて言えばこれは交渉
場が一様に悪の影響下にあるということではない。そのように受け取ってしまえば、
様相は一様に駆け引き・謀略・闘争に満ちたものになるだろう(他者についての考察
で見られるような様相となる)。しかし、交渉場ないし発話状況の一様性の仮説は、
生き延びることはできない。そのように一様に攻撃的なものとして環境をとらえるな
らば、かえって人は自分の殻に閉じこもることになるだろう。そうではなくて悪の可
能性を知り、悪に頼らないことを心がけるなら、いざ悪の現象に対したときの準備が
できる。秘密を持つこと(自分にとって価値あるものを価値あるものに相応しい仕方
で保持すること)、戦略的であること(普通にいうと場所柄をわきまえること)、悪
に頼らないこと。物事を正しく見ようとすること。自分の好みを越える真実があると
知ること。そうすることで、正邪、善悪の感覚を伸ばすことができ、大事なことを話
すことができる相手のいることの貴重さを知ることもできる、そのように私は考える。そうすれば自分が相談に足る人間になることが、どれほど人を激励するかという
ことも知ることができるだろう。