浅田彰/「投壜通信」について
「重力01」作品合評会の中で、大杉重男氏が、私の「投壜通信」論を批判して、「誰かが海の中に手紙を流せば、それが価値のあるものであれば誰かが必ず拾ってくれるというおなじみの発言があるけど、現実にシンポジウムの時ですら浅田は僕の論文を読んでいなかった」と述べていますが、この解釈は私の本意と違うので、簡単に訂正しておきます。
(1)「投壜通信」の定義からして、「価値のあるものであれば誰かが必ず拾ってくれる」などということは前提しようもありません。現に、これまでも多くの「価値のあるもの」が失われてきたでしょうし、これからも失われていくでしょう。私は当然その意味で「投壜通信」と言ってきたつもりです。(ちなみに、『批評空間』の共同討議でもそのように言ったところ、東浩紀氏が、自分はそういう形で自分のメッセージが失われるようでは困る、メッセージが確実に読者に届くよう「営業」をしなくてはならない、という意味のことを言い、私は、そのような「営業」を否定はしないものの、そんなことに過度に力を注ぐ必要はないのではないか、という意味のことを言った記憶があります。それと似た意味で、私は、『重力』が、経済的に自立することや、読者を創出しつつ読者に伝達することに過度に力を注ぐ必要はないと考え、シンポジウムでそのような発言をしたのだと記憶します。)
(2)その原理を踏まえた上であえて付け加えれば、経験的にみて「価値のあるもの」がそこそこの確率で拾われ保存されてきていることも事実でしょう(鎌田哲哉氏や大杉重男氏の論文が『群像』新人賞を受賞したことに言及したのは、その例としてです)。他方、さまざまなジャンルにおいて「知られざる作家/作品」を「再発見」するリヴィジョニズムがかなり前から流行しており、面白い発見もないではないにせよ、これまでの価値評価の全面的転換を強いるような事件はなかったと言わざるをえないでしょう。けれども、(2)はあくまでわれわれの限られた視野から見た経験的事実に過ぎず、原理的には(1)の通りです。
簡単な訂正は以上の通りです。なお、私は『季刊思潮』『批評空間』『InterCommunication』などの編集に関与したことがありますが、座談会やシンポジウムに招いたゲストに私の書いたものをいちいち読んでくるよう期待するほど傲慢であったことはなく、ゲストとして参加してくれるだけでありがたいと思っていました。『重力』のシンポジウムには、書店での販売促進イヴェント(「営業」)なのだから「人寄せパンダ」として行けばいいのだと思って参加したので、大杉重男氏の論文はもちろん読んでいませんでしたが、私のそのような不真面目な態度こそが傲慢なのでしょうか。ともあれ、私などはどうでもいい、有名であれ無名であれ大杉重男氏の論文を読んで何かを考える人がひとりでもいればいいというのが、「投壜通信」の考え方であり、私はその古めかしい素朴な考え方でいくほかないと今も思っています。
(あさだ・あきら……経済学。五七年生)