古谷利裕/大澤信亮『コンプレックス・パーソンズ』について


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 「重力02」の編集後記に書かれていた大澤氏の次のような発言には根本的な違和感を感じる。「世にはびこる数多の無くてもいいものを無に返したい。」この言葉は、鎌田哲哉による68年的なものへの批判、(めでたい詩人やバカ学生について)「彼らを冷凍して粉々に砕いたら、世界はどんなに浄化されるだろう」という言葉と直接繋がるような感覚で、受け入れ難いものだ。そういう「気持ち」になることは誰だってあるだろうが、しかしこの世界では決してそのようなこと(無くてもよいもの全てが無に帰すること)などありえない。この世界は決して「馬鹿どももその一部としてある」(ドゥルーズ)世界であることをやめないだろう。世界は決して「浄化」などされない。しかし、そんなことは百も承知なのに、それでも「世にはびこる数多の無くてもいいものを無に返したい」という感情がわき上がってくることも不可避ではあるだろう。この感情を、たんに観念的な倒錯と言って済ますわけにはいかない。世界は常に「馬鹿どももその一部としてある」世界でありつづけるというのは、それだけではいくら正しい認識であっても、たんに認識でしかなく、人はすぐさまそこから安易なニヒリズムへと堕落するだろう。『コンプレックス・パーソンズ』が描いているのは、まさに「世にはびこる数多の無くてもいいものを無に返したい」という志をもった主体が、ニヒリズムの腐臭のなかで、あきらめの薄ら笑いとともに生きる主体へといつの間にか変化してしまうという出来事が、何度も(世代を越えて)「反復」してしまうというその事実であり、その事実の反復を支える「構造」の姿、そしてその構造に抵抗する手段としての「書くこと」の意味なのだ、ということになるだろう。
  この小説では、抽象化された舞台設定の上で、ある徹底した思考が練り上げられている。しかし勿論、これは小説であるのだから、たんに思考が図示されているというわけではない。思考の複雑さや強度は、なによりも小説の形態や形式の上にあらわれている。

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  『コンプレックス・パーソンズ』は、三つの異なる「わたし」によって書かれたものがつなぎ合わされて出来ていると、とりあえず言える。冒頭、一人称で書くことの違和感について語る「わたし」は、この三つのわたしの全てに共通 する抽象化された非人称的な「わたし」であろう。つづいて現れる最初の「わたし」は、わたしという以外に名前をもたない者で、世界に対する初々しさを失っていない「新参者」である。その「わたし」は、自分のすぐ上の世代であり、好きな女の恋人でもある「あの男」に対して闘いを挑もうとしている。あの男=新館は、「わたし」からみるとたんなる自己欺瞞にすぎないことを「認識」だと言って誤魔化しているような我慢ならない先行世代であるとともに、「わたし」と性質において似ていることを好きな女=由記子から指摘されてもいるような存在だ。つまり似ているからこそ我慢が成らず、しかも新参者として好きな女を奪うためにはどうしても「違い」を示さなくてはならない存在のなだ。つづいて現れる二番目の「わたし」は、「あの男」新館その人である。ここで示されるのは、この新館こそが、実は最初の「わたし」であったということだ。つまり新館もかつては先行世代である「あの男」と女=由記子をかけて戦い、「あの男」から由記子を奪ったのだった。しかし新館は今では、自分が批判した「あの男」と同じ位 置にいる。この小説の舞台は森林を管理する事務所であり、ここでの森林とは日本的な「自然」ということになろう。つまり「わたし」と「あの男」とは、真に「わたし=主体」であり得ず、だから他者でもなく、たんに構造の一項を演じさせられているに過ぎない。(共に「日本的な自然」に違和感を感じていながらも、その一部と化している。)ここで「わたし」と「あの男」との対立は、構造としての他者である「女」をめぐる典型的な三角関係に還元される。(由記子には「好み」はあっても「意志」がない、と語られる。ここで「女」はそのような存在であることによって超越的なのだ。)つまり、新参者が先行世代のニヒリズムに対して行う戦いのはずが、いつの間にか「女」という「報酬」を巡る戦い、どちらが制度としての既得権を得ることが出来るかという戦いにすり替えられてしまい、そこでの新参者の先行世代に対する勝利は、制度=構造に対する敗北でしかなくなってしまう。ここまでで示されるのは、世界に対する初々しい「志」が、構造によって敗北してしまうことの果 てしない「反復」である。新参者との戦いに敗れた先行世代は「自殺」するのだが、ここではその自殺すらもあらかじめ定められていたものの反復でしかない。
  三つめの「わたし」は女=由記子である。ここで今までの構造に亀裂が入る。新参者との戦いに敗れたと言うよりも、構造によって予め決定されていたように自ら崩れ落ちてしまった新館は、「恋愛」という制度よりも強い「結婚」という制度に持ち込むことで由記子を自分のもとに置いておこう(つまり既得権を守ろう)と考え、由記子との性行の時、無理矢理子供をつくってしまおうとする。その「暴力」に気づいた瞬間に三つめの「わたし=由記子」が登場する。(ここで時間が遡り、「あの男」は名前を失う。この小説では、出来事や個人の固有性は、構造による反復によって残酷にもかき消される。)由記子=わたしは、男の暴力を問いつめるが、男はそれをのらくらとかわすだけだ。わたしと男との関係はずっとこのようなのらりくらりとしたものだったし、わたしはそれが楽でそれによって救われもした、しかしこのような暴力が行われた以上、この関係をそのままつづけることは出来ないし、この追求を引くわけにはいかない、と由記子は考える。男同士の、新参者と先行世代との戦いにおいては、制度を可能にする超越的な存在(意志のない存在)として現れていた由記子も、由記子の側からみれば、男との関係は制度が保証するものとしてあった。男との関係が制度によって保証されたものであるならば、そこに「対話」は必要がない(意志を示す必要がない)。しかし、既得権を守ろうとするあまりの暴力に男が打って出たことによって制度が揺らいだ時、意志のない存在であるはずだった由記子は、意志を露わにする必要に迫られた。ここで一歩も引かずに追求するわたし=由記子によって、この小説で初めて「わたし」と「男」と(個と個と)の「対話」の契機が生まれる。これ以降の「対話」のシーンがこの小説の核と言えるだろう。男はギリギリのところで言葉を発し、「わたし」はそれを受け止め、自殺する男を最後まで見届ける。ここで、男が自己破綻から自殺へ至るという道行きは陳腐な物語の反復(構造)でしかなく、二人の対話はそのような結果 を変える力を持たなかったわけだが、男の最後に発せられたギリギリの言葉は、それでもわたし=由記子を動かすものがあり、わたしは、男が残した支離滅裂で解読不能な言葉たちからなる遺書を読み解き、解釈して、読みうる文章へとかき直すことを決意するに至る。「彼はもうこの世界にいない。彼に対しては手遅れになってしまった。でも、彼が抵抗しようとしていたものに対してなら、まだ手遅れではないかもしれない。」(つまりこの敗北が「記憶」されなければ、永遠に反復されてしまう。)それが「この文章(『コンプレックス・パーソンズ』)なのだ」、と。
  ここで複数の人物が皆「わたし」として語られるのは、この小説における「わたし」が、どのような「わたし」も固有の者たり得ず、構造によって飲み込まれた一項としての「わたし」であるに過ぎないような「わたし」であることを強いられているからだろう。「わたし」と名のった時点で、どの「わたし」も「誰」でもあり得るような「わたし」でしかなくなってしまう。冒頭の部分に示された、一人称で語ることの違和感とは、このことを指している。しかしこの小説で示されているのは、そのような「わたし」の錯乱による空洞化ではなく、たんに構造の一項でしかない「わたし」においてもなお存在する(記述するという行為そのものを支える)、「わたし」と語るしかないような名前のない「生きた欲望の感触」であろう。それがこの小説では、ある無様で滑稽な切迫感として、その文体に具体的に現れているように思う。

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  『コンプレックス・パーソンズ』を、とりあえず三つの異なる「わたし」に応じて三つに分けた。しかしそれは小説全体の概要を示すための大雑把なもので、もうすこし詳しく(形式的に)みれば、それぞれの「わたし」はさらに、二つ、あるいは三つの記述の次元の異なる部分に分けられる。小説全体は、だから、冒頭/わたし(1)/わたし(2)/新館(1)/新館(2)/新館(3)/由記子(1)/由記子(2)という八つのパートからなる。一人称で語る違和感について述べられた「冒頭」につづく「わたし(1)」では、「わたし」が(夜中から朝方にかけて)ノートに書き付けている「言葉」から成り立っている。つまりノートの言葉が(とりあえずは)そのまま示されているという形だ。つづく「わたし(2)」になると、「わたし」はノートを書くのを中断して朝のトレーニングに出かける。ここではトレーニングに出かける「わたし」と、その道すがらの「わたし」の回想が、普通 の一人称の小説のように、現在進行しつつあることのように記述されている。そしてそのまま、トレーニングの帰りに偶然「あの男」と出会い、対決することになる。対決の後、視点は「あの男」である新館へと移動する。(「新館(1)」)ここではまだ、小説は冒頭から、時間的に自然な流れになっていて、視点だけが移動したように読める。しかしそのまま読みつづけると、自然な一人称の小説の流れが途切れ、「以上が、三年前わたしに起こった出来事だった。」という文が挿入される。(ここから「新館(2)」になる。)ここで読者は混乱する。今まで語られていたことが三年前の出来事で、しかも語り手が「新館」だとすると、「あの男=新館」ではなくて「わたし=新参者=新館」ということになってしまう。しかしその直前の「新館(1)」では、「新館=あの男」であることは間違いない。ここで読者ははじめて、冒頭から自然な順序によって流れてきたようにみえた話は、反復された出来事の断片が、あたかも連続しているかのように並べられていたものだと気づく。つまり「わたし(1)(2)」の「わたし」は、現在、新館と対立している新参者であると同時に、三年前の新館自身でもあるのだ。(現在の新参者は三年前の新館の反復であり、新館は三年前の「あの男」の反復である。)「新館(2)」は、アパートの部屋で新館によって書かれたノートの言葉をそのまま示していると思われる。と同時に、現在進行しつつある出来事として一人称の小説のように記述されてきた「わたし(2)」「新館(1)」の部分も、既に書かれたノートの一部であり、「新館(2)」の話者(と言うか記述者)である新館は、既に書かれたノート(冒頭から「新館(1)」まで)を読み返しながら今後の作戦を練っているとも読める。つづいて、「新館(3)」は、また普通 の一人称の小説のような記述となり、新館の現在と回想が語られる。新館は由記子との過去を回想し、由記子に会いにでかける。そして由記子との性交の最中に、このまま子供をつくってしまうば「結婚」にもちこめ、新参者に由記子(制度)を取られなくて済むと考える。射精の瞬間にすんでのことろで由記子は身をかわす。そこから、視点は由記子のものとなる。(「由記子(1)」、これも普通 の一人称の小説のように描かれる。)しかしまたここで時間の断絶があらわれる。「由記子(1)」で由記子と対しているのは、新館ではなく以前につき合っていて「自殺」したと作中で語られている男、つまり三年前の「あの男」なのだった。場面 はいきなり三年前になったわけだ。しかし、物語は自然に連続している。時間が移動し、人物が入れ替わっても、物語が自然に連続するということは、人物の固有性は消去され、ここでは「構造」だけが勝利する。(常に植え替えられて存続する森林のように。)「由記子(1)」では、「あの男」によるギリギリの地点からの「対話」の試みとその失敗が由記子の側から描かれ、その失敗から男が死を選び、その自殺を由記子が最後まで見届ける。「由記子(2)」ではまた時間は現在へ戻る。「由記子(2)」は由記子がノートに書き付ける言葉がそのまま示される。一通 りのことの顛末を記述し終えた(つまり、冒頭から「由起子(1)」までの全てが実は由記子によって書かれたノートだったのだ)由記子が、「この文章はあなたに読んでもらうために書いた」と書く、「あなた」に向かって直接語りかけるように書く部分である。この「あなた」とは一体誰なのか。「あの男」の自殺が三年前の出来事だと書いていることから、これが現在(つまり「あの男=新館」となった時点)であることが分かる。だとしたら、これは新館と対立する「新参者=わたし」、「冒頭」にづづく「わたし(1)(2)」の「わたし」であるということになるのだろうか。だが、由記子が「由記子(2)」を書いている「現在」、隣からの騒音で眠れないと書く由記子の存在する時間が、「新館(3)」で新館と由記子が会う前の時間なのだとすれば、「あなた」は新館であるという可能性もある。(しかし、だとしたら「新館(3)」は誰が書いたのか?)つまり、現在「あの男」となってしまった新館が、由記子との「対話」を成立させ、新たな関係をつくり直すことが出来るのか、それとも、再び反復する「構造」に敗北し、三年前の「あの男」同様、自殺するしかないのか、という謎は開かれたままで終わることになる。それがこの小説の唯一の「希望」である。
  以上のように、この小説の「わたし」と「時制」とのあり方は入り組んでいる。このような錯綜は、たんに「内容」としての「構造の反復」を効果 的に示すためだけのものではないと思う。たんに、構造の反復としての「わたし」をいかに超えるのかという「内容」だけを示すのなら、ここまでの複雑な錯綜は必要ないだろう。そうではなくて、このような錯綜によってしか捉えられないような「わたし」の形態こそが描かれようとしているのだ。このような複雑に錯綜した形態によってしか「生きた欲望の感触」は捉えられない、と。この小説は、一人称で語ることへの違和感を表明することによって語り出される。しかしそれは同時に、三人称による語りが安定したパースペクティブを保証してしまうことへの違和感でもあるのだ。三人称への抵抗として、ある違和感とともに錯綜した一人称が選択されている。

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  『コンプレックス・パーソンズ』において、「わたし」と「由記子」との恋愛感情の「熱さ」が、「あの男」を含めた三角関係という「構造」に起因するということは、「わたし」にも「由記子」にも、明確に意識されている。だから、自殺によって「あの男」が消失してしまった後、二人の関係が「冷めた」ものとなっていることも自覚されている。そしてその「冷めた」関係を維持しているものが恋愛という「制度」であることもまた、明確に自覚される。しかし、「制度は楽し」いものであり、その楽しさは「制度を頑なに拒否していたそれまでのわたしを、いっぺんに笑いとばして」しまうような強いものだった。ここでそのような「楽しい」関係を「楽しいもの」として持続させているものは、二人の関係が制度にしか過ぎないということの自覚(「ステレオタイプの自覚」)を、シニカルな「笑い」ではぐらかすという高度なパフォーマンスによっている。(この小説のこのような部分の具体的な描写 は、とても弱いと思うけど。)このような関係において、「言葉」がそのままの意味で相手に届くことはあり得ない。どのような言葉、どのような行動(つまりどのようなメッセージ)にも、必ずそこに「あえて」ステレオタイプを演じているのだというメタ・メッセージが貼り付いてしまっているからだ。これは「あえて〜を演じているのだ」という自意識によってではなく、二人の関係が構造上そもそもそういうものとしてしかあり得ないという形で成り立っているから(二人の関係における意味の解読のコードがそのようになっているから)であり、だから、「自分はこれから素直に喋り、素直に行動するのだ」と決意したからといって、簡単にそうなるものではない。例えば、「由記子(1)」の部分の記述で、男が何を言おうと、由記子にはそれらが全て「嘘」にしか聞こえない。それは本質的なものとしての「本当の私」が、「演じられた私」によって覆い隠されているということではなく、どのような「私」であろうと、それらが全て「演じられた私」としてしか現れないような関係性の構造によるのだ。これは男の側でも同じで、男は何度も、このような関係を突破し、別 種の言葉を由記子へ投げかけようと「決意」するのだが(「もう論理も理由も目的もどうだっていい(略)これからはただ真剣さだけを心掛けよう」「何かを伝えるための文章ではなく、それ自体が、由記子と直接的な関係をもつようなそんな文章が書きたい」)、実際に由記子を前にすると、いいかげんな言い逃れの言葉しか出てこない。これは男の決意が足りないからではなく、あくまで構造の強さによるものだ。素直になろうと「決意」するくらいで素直になれるなら、人は誰も苦労したりしない。(と言うか、素直になろうと「決意」してしまう人は、だいたいが最悪の醜さに陥ってしまう。)『コンプレックス・パーソンズ』が問題にしているのは、「自覚」や「自意識」によってはどうにもならない、構造の強力さこそを顕在化することであり、その上で、そのような構造を突破し、関係のあり方を動かしてゆくような「生きた欲望の感触」を浮上させるとしたら、どのような可能性があり得るのか、という事である。だからここで追求されているのは、「本当の私」を覆い隠している「演じられた私」を払いのけるというような「素直さ」とは全く異なるものだ。ある関係のなかで発せられた私のギリギリの言葉が、「あえて」としてではなく、愚直に切実さをもったものとして相手に響いた時に初めて、つまり関係が新たなものとして作り直される契機があらわれた時に初めて、新たなものとしての「本当の私」が(事後的に)生まれ直すのだということだろう。そしてそれを促すのは、「決意」などという自意識(自己陶酔)ではなく、具体的な現実として強いられる、ある切迫した状況なのだ、と。だから「本当の私」と「演じられた私」があるのではなく、構造に亀裂を生じさせ、硬直した関係に変化の契機を生み出すような「切実」なものとして他者に「言葉」(メッセージ)が響かせることに成功した時に、そこに確かに「切実な私」が生きた欲望の感触をもって生きられたのだと「事後的」に言うことが出来るのだ、ということになる。『コンプレックス・パーソンズ』が、普通 に記述された一人称の小説のように、現在進行しつつあることがらを描いている部分と、既に記されたものとしてのノートの言葉の部分とが、複雑に入り組んだ形で書かれているのは、この「事後性」に関わっていると思われる。一人称の記述では「決意」や「自意識」を捉えることが出来ても、構造や事後性が表現しづらいのだが、しかし、既に記述されたノートを「読む」という形式だけでは、「事前」であることが強いる、「緊張」や「飛躍」のようなものが描きこめない、ということだろう。
  『コンプレックス・パーソンズ』が非常に考え抜かれ、緊密に組織された高度な小説であることは認める。しかし、どうしても、硬直した、狭いものと感じられてしまう。例えば、次のような部分を、簡単には受け入れられない。
  《遊園地や海水浴に行き、お互いの誕生日にはプレゼントを交換し合い、クリスマスにはデコレーションケーキを囲んでフライドチキンを食べた。映画館や個展を巡り、買い物に出掛け、ファミリーレストランや、情報誌で調べた店で食事をした。ゲームセンターで遊んだ。カラオケボックスで歌った。旅行に行った。自転車で浜辺を散策した。テレビやビデオをBGMのように流した。森をはじめ様々な場所で性交した。それらすべてが制度だった。》
  だがむしろ、このような日常的な「制度」の反復のなかにこそ、硬直した関係を変化させる可能性のある契機、構造の綻びが無数に存在しているのだと思う。と言うか、このような「制度」の内部を繊細に生きることによってしか、関係の変質などあり得ないのではないか。(と言うか、そうでなければ人の一生など本当に下らないということにしかならないのではないか。)勿論、これらの日常的で微温的な「制度」を全て根底から揺るがしてしまうような激震のような出来事が、人の一生には何度か不可避的に訪れるだろう。そのような時、人は嫌でも根本的な問題に直面 せざるを得ない。そういう時にどのように行動するかで、その人物の「実質」のようなものが試されるというもの事実だろう。だが、そのようなギリギリの状況によってしか関係の変質があり得ないかのような描き方には、同意できない。例えば、小説として素晴らしい出来映えとは決して言えないが、舞城王太郎の『我が家のトトロ』(「新潮」6月号)で描かれている、「〜のふりをする」ことを複雑に繊細に積み上げるようなこと(つまり段取りを最大の配慮をもって尊重すること)によってこそ、むしろ関係の絶え間ない更新が可能になるよう思えるのだ。

(ふるや・としひろ……美術(画家)。六七年生)

無名アーティストのWildLife