杉田俊介/どこにも消えないということ――『こころ』『ノルウェイの森』『コンプレックス・パーソンズ』(後)


(3)大澤信亮『コンプレックス・パーソンズ』――象徴の世界と批評

 こうして『ノルウェイの森』は、『こころ』に対する一つの批判としてある。それは死の経験を絶対化するのではなく、私たちがこの世で生き続ける持続と連続の側を絶対化し、沈黙することではなく渋滞や途絶を孕んだ証言の言葉を延々と書き続けるという道をえらびとる。いな、他者=死者の側から選びとらされる
 しかし『ノルウェイの森』の認識にもなお欠けているものがあるように思われる。それは端的に、他者の書いた文を「批評」してゆく過程だ、と思う。他者が書き残した言葉を反復し、更新し、書き直し続けること、そのことで自分自身の魂の側をも決定的に改変させられていく経験――すなわち『CP』の世界が、人々が「生き延びる」プロセスの中に改めてさらに導き入れたのは、この〈エクリチュール〉=「批評」という言葉の物質性の水準ではないか。そのことをみてゆく。

 『CP』では、手記を書く一人称の「わたし」が様々な水準に転換し、ズレ続けていく。さしあたりそれは、「わたし」/わたし(新参者)/新館裕人/沢村由記子という四つの水準に分かれる(しかし、実際にはそう単純には割り切れないところにこの小説の複雑さがあるのだが)。
 まず冒頭に登場するのは、一人称で文章を書くことの違和感を語る「わたし」である(1)。
 「一人称で語ることに違和感がある。その違和感ゆえに、わたしは今まで文章を書くことをできるかぎり避けてきた」。この「わたし」の手記は以下の目的で書かれている。「この文章はあの男との戦いのシミュレーションとして書かれている。あの男はなかなか周到で頭の切れる奴だから、こちらの論理展開の隙を見てすぐに反論してくるはずだ。わたしはあの男を完膚無きまでに叩き潰さねばならない。/とはいえ厄介なことに、あいつが議論によって打ちのめされるとは思えない。それはわたしが議論によって決して打ちのめされないのと同じである。議論はたんに議論であって、それ以上のものではない。あの男を真に批判するためには、ともかく、あの男を支えているぎりぎりのところを明白に浮かび上がらせ、それをもってあの男を本気にさせなければならない。/そのさい、わたしの論理が曖昧では、それこそ話にならない。わたしはフローチャートのように緻密に、整然と、抜かりなく、あの男を最後の最後まで追い詰めなくてはならないのだ」。
 続いて「新参者」としての無垢な怒りをその内に秘める「わたし」が登場する(2)。
 狭山で森林管理のアルバイトをする「わたし」は、同僚の沢村由記子に恋愛感情を抱いている。しかし由記子にはすでに新館裕人という(同じく仕事の同僚の)恋人がいる。「わたし」が闘争を挑もうとしている「あの男」とは、「わたし」の先行世代に属し、恋愛をめぐるライバル関係にあるこの新館という人物である。「わたし」と新館がくりひろげる対決=討論の場面 は、前者の無垢な怒りと、後者のシニシズム(制度的なものをわかって楽しむという態度)との激突として描かれる。「わたし」は新館に言う。「ぼくが何を言いたいのかわかりますか? 生きた欲望の感触が確かにあるのです。あなたはたぶん、それこそが内面 化された制度の力がもたらす錯覚なのだ、と言う。(略)だけど、あなたとぼくには決定的な違いがあります。あなたにとって欲望が制度によって産み出されるものだとすれば、ぼくにとって欲望は制度を通 して現れるものなのです。制度を通りつつ、それを変えていく力。(略)あんたは単に不徹底なだけだ。(略)一人の人間を制度によって処理するのはやめろ、自己がないなどという決まり文句を有難がっているような奴が、現実などと言うな! 制度の力しか信じてないような奴が、生きることなどと言うな!」。
 この時「わたし」という一人称がふいに別の水準へと転換する。すなわち、新参者としての「わたし」(2)が闘争を試みた「あの男」=新館の一人称へと(3)。
 新館は(2)の「わたし」の怒りの「真剣さ」を絶対に肯定する。しかし、実は新館はこの「わたし」の怒りを先取りしている。何故ならば彼自身が三年前に別 の《あの男》に対して同じ闘争を挑んだ経験を経ているから。新館が哀しげに「予言」するのは、「わたし」が発揮した無垢な怒りが、実はその正確な延長上に、時間の腐食を経て新館のシニシズムへと転落していく、という反復の可能性、その徒労の感覚である。故に怒りの強度はそのままでは冷笑を破壊しない。そしてこの位 置で小説の時間が混乱する。つまり、ここで時間軸は(2)の「現在」(平成十四年)であると同時に、新館がその時点での新参者として別 の「あの男」と戦いを挑んだ「三年前」(平成十一年)へと重ねあわされる。現在時のわたし(2)/新館(あの男)/由記子との三角関係と同じように、新館は、三年前、新館/あの男/由記子という三角関係の中で闘争を経験している。その結果 、当時の新参者としての新館はその「無垢な怒り」を用いて由記子との恋愛関係を勝ちとり、「あの男」は自殺した。しかし、今では新館は、当時の彼がまさに対峙していた「あの男」と同じタイプのシニシズム、制度の力だけを信じるというシニシズムへと落ち込んでいる。「わたし」(2)との議論を経て、新館の中に、改めて自分を強いるシニシズムへの異和の感覚がかすかに芽生える。彼は由記子と結婚したい、と願う。何より彼女との関係をやり直したい、と願う。「わたしたちに今必要なのは、(略)差し当たって三年分の沈黙を紐解くことだ」。そして新館は、このあと、由記子との性交中に無理矢理彼女を妊娠させ、結果 的に結婚しその制度の呪縛を断ち切ろう、と突発的に思いつく。「わたしは突然、ある残虐な衝動に駆られた。妊娠させてしまえ。対話による結婚など所詮由記子には無理なのだ。既成事実を与えてやるのだ。由記子には子供は堕ろせないだろう。そうなればこっちのものだ」。
 この時「わたし」はさらに別の水準へ転換する。すなわち四番目の「わたし」としての由記子へと(4)。
 しかも、この時、由記子の性交の相手は、視点の転換の前には新館だったのが、視点の転換の後には《あの男》へと転換している。そこには時間の遡行があり(平成十四年→平成十一年)、かつこのことが含意するのは、三年前に起こった過程を、いままさに新館が全く同じ形で反復しかけているという事実である(つまり、新館はこのあと自殺へといたる可能性が高い)。由記子の視点からは他人の言動がみな演技にみえる。彼女はその離人症的な演技性の皮膜を破りたいと考える。しかし結局は破れない。性交中の「暴力」をきっかけに、由記子と「男」の間で一つの「対話」が生じる。生じかける。しかしそのかろうじて生じかけた対話の可能性さえもが文字通 り避妊あるいは死産された時、男は自殺する。由記子はその全ての事実を見届ける。結局全ては再び制度の圏内に回収されていく。性暴力の経験も男の自殺も、決定的な新しい関係をもたらさない。その意味でかれらの関係は制度にまたもや敗北していると言わざるを得ない。
 だがそこには関係の微細な変質と転換が生じかけたことも事実だ。(2)の「わたし」の愚直で無垢な怒りの正しさが新館の中の「生きた欲望」をかすかに目覚めさせ、彼と由記子の関係にかすかな変化と胎動をもたらしかけたように、《あの男》の自殺の経験は、それでも由記子の中に燻っていた「生きた欲望」の感覚をかすかに目覚めさせ、何かをわずかにゆるがした。
 《あの男》は生前に遺書を書き、『森林の観察』と名付けていた。その原文は、解読不可能な、暗号じみた意味不明な言葉の集積だった。由記子(?)はその印象をこう書きとめる。「男の遺書は文章を書くうえで最低限の遠近法が破られていました。接続詞がほとんどないまま羅列されていく文章は、論理の展開を読むのが困難でした。形容詞がどの言葉に掛かるのか特定できないこと、指示語の示す言葉が特定できないことがその困難を助長しました。句読点が一切ないのでリズムで読み進めることすらできません。何より話者がぽんぽん変わるため、読んでいる方は視点を定められないのです」。彼女はかつて、この遺書の文面 を「読む」作業を中途で放棄した。しかしいま、「この繰り返しを断ち切るため、その鍵となるはずの遺書『森林の観察』を読み抜くことを決め」る。彼女は遺書の内容をノートに取り、アフォリズムを抜き出し、「わたしなりに解釈し、読めるように組み合わせ」る。それが「今書いている(読まれている?)この文章なのです」(ただしこの事実自体も後に見るように相対化される)。しかも、重要なのは、この『森林の観察』が純粋にオリジナルなものであるわけではない点である。何故ならこの『森林の観察』自体が、さらに別 種の「あの男」との闘争の記録であり、その別の他者の「遺書」を解読した文章=批評なのかも知れないから。他者の遺書を永続的に書き直し続けること。ここには「読むこと」と「書くこと」をめぐるそんな屈折をはらんだ無限のプロセスがひらかれてあり、その持続=反復においてだけ、「わたし」は、いな「わたし」たちは、あのウロボロス的な制度の構造的呪縛を断ち切れるのかも知れない……。
 すなわち『CP』の内容と形式がひらくのは、批評という営みを無制限に反復し続けること、他者の言葉を永久に読み続け、書き直し続ける、という終りのない〈批評=エクリチュール〉の倫理である。ここでは、他者の生の事実を反復する可能性は、他者の残した言葉の物質性を今ここで反復すること、謎として在る他者の言葉を解読=批評する具体的なプロセスの中にだけある。この過程には厳密な「終り」も「始まり」もない。たとえば、『こころ』の青年は先生の遺書を「引用」することはできても、それを独自に批評的に解釈する、あるいは自分なりの形で書き直す、という可能性には決して行き着かない。その意味で青年の倫理的な覚悟と「断念」(書かないこと)は、別 の何事か、本当は人が生きる上で必要なはずの何事かを切りすてることなしには成り立たない。あるいは『ノルウェイの森』には、いきのびること=死者の記憶の証言、に関するひきしぼられた責任の感覚と決意の痛みが確かに刻み付けられているものの、そこには、他者が具体的に残した「言葉」(文字)の物質性についての考察やこだわりはほとんど見られない。デリダが言うように、念入りに燃やし尽くされた言葉にさえなお「灰」は残るかも知れないのに。
 『CP』では、他者関係が徹底して水平的な関係に置かれる。例えばこの小説では、漱石の『こころ』では積極的に明かされない女性(由記子)の内面 もまた直接的な形で吐露される。つまり、女性もまた水平的な他者関係の中に対等な形で介入して来る(その限りで、試みとしては漱石の『明暗』の位 置に対応する)。ここでは「女性は存在しない=女性は象徴世界を超える外部(もの)である」というラカン的な精神分析のレトリックが全く成立しない。由記子もまた、全ての「わたし」と同じように、言葉のシステムの世界、象徴秩序の世界の中で、彼女自身のありきたりの異和や欲望を平板に語り続ける(『こころ』の超越論的な師弟関係の場は、女性=静をそのような「もの」の位 置へ封じ込めることではじめて成り立っている)。当り前のことだけれど、由記子という女性もひとりの主体=「わたし」である事実には何の違いもない。女性は「内面 を語らないグロテスクな他者」の表象や沈黙の中に封じ込められない。付け加えれば、漱石や村上や大澤のこれらの作品は、他者の生の反復という問題を基本的に恋愛の他者との関係において考察している。これに対して大江健三郎や中上健次は、他者の反復という問題を歴史の堆積を含む血族・共同体的なものと不可分の関係に置いて考えた。前者は後者のような時間の立体的で重層的な厚みを欠くが、そのぶん、他者との二人称的な関係を純化した形で問いえている。実際『こころ』『ノルウェイの森』『CP』の三作品では「子供」という視点、「生殖の哲学」(小泉義之)をひらく可能性が完全に捨象されている、というか、『CP』において由記子が、男(あの男/新館)が無理矢理妊娠させようとしたことを徹底して批判し糾弾し続けるように、これらの作品では《妊娠》と《出産》の可能性が徹底して排斥される。
 しかし、見落としたくないのは、この『CP』の記述の全体が、ふたたびメビウスの輪のように(1)の「わたし」の自意識に呑みこまれていく循環的な事態だろう。冒頭近くに次の断りがある。「このシミュレーションは、途中いかなる事態が起こったとしても、終始わたしの闘争草稿=自己批判草稿である」。つまり(4)の由記子の記述が最終審級(メタレベル)ではない。端的に由記子が「あなた」へ宛てた文面 も含めて、冒頭の「わたし」の「シミュレーション」であり「闘争草稿=自己批判草稿」なのかも知れないから。とすれば、時空間上の複数の断絶や転位 を含むこの『CP』の記録の全ては、彼の内面的な先取りの産物に過ぎないことになる。由記子の視点、『こころ』や『ノルウェイの森』では不可視の闇(外部)の領域にあった「女」の視点さえも実はそこでは先取りされ、内面 化されていた、と。その意味でこの小説は、一九八〇年前後の柄谷行人が「形式化」の諸問題(一つの形式体系を根拠づけるメタレベルはありえるのか?)を扱った『内省と遡行/言語・数・貨幣』の記述に似ている。『内省と遡行』では次々と認識の水準がずれ、文章と共に転換し続けていくが、最後にはそのプロセスの総体が自己生成を続ける「自然」という制度にすぎない、という「敗北」の認識へ行き着く。「わたし」/わたし/新館/由記子、という複数のレベルへずれこむ『CP』の内容もまた、冒頭の「わたし」の自意識にのみこまれる。この時『CP』の内面 性は、阿部和重が『こころ』をパロディ化したストーカー小説『トライアングルズ』(『群像』一九九七年十二月号)の妄想じみた内閉性の水準へ限りなく漸近している(『トライアングルズ』では、家庭教師の「先生」が、生徒の「私」=イデヒサオの内面 を偽装する形で、「女」――イデヒサオの父親の愛人に当る――へ自己弁明の手記を書く)。
 古谷利裕は『CP』の「遊園地や海水浴に行き、お互いの誕生日にはプレゼントを交換し合い、クリスマスにはデコレーションケーキを囲んでフライドチキンを食べた。映画館や個展を巡り、買い物に出掛け、ファミリーレストランや、情報誌で調べた店で食事をした。ゲームセンターで遊んだ。カラオケボックスで歌った。旅行に行った。自転車で浜辺を散策した。テレビやビデオをBGMのように流した。森をはじめ様々な場所で性交した。それらすべてが制度だった」という箇所を引用し、これを「『コンプレックス・パーソンズ』が非常に考え抜かれ、緊密に組織された高度な小説であることは認める。しかし、どうしても、硬直した、狭いものと感じられてしまう。例えば、次のような部分を、簡単には受け入れられない」「むしろ、このような日常的な「制度」の反復のなかにこそ、硬直した関係を変化させる可能性のある契機、構造の綻びが無数に存在しているのだと思う。と言うか、このような「制度」の内部を繊細に生きることによってしか、関係の変質などあり得ないのではないか。(と言うか、そうでなければ人の一生など本当に下らないということにしかならないのではないか)」と批判している(「大澤信亮『コンプレックス・パーソンズ』について」WEB重力2003・7・5)。しかし重要なのは、古谷の批判を認めた上で、本文から引用した『CP』のこの制度的なものに対する認識の言葉自体が実に陳腐で制度的な言葉であり、しかも大澤が、そのような凡庸で平板な文章を自覚的に選択している、という原的な事実だ。物語内容の面 でも、由記子が、本来は読み得ない《あの男》の暗号的な文章を、他人が「読みうる」平板な文章へと翻訳=変換した以上、この『CP』の記述自体が終始平明なものになることは避けられない(デリダ批評『存在論的、郵便的』の東浩紀が、中期デリダの暗号的テクストをロジカルで平明な文章で「書き直す」以外になかった様に)。この小説の文体の「平板さ」を叩くのであれば、これらの事実全てを繰り込んだ上でなおかつ叩かなければならない。しかしこのような文体上の平板化=地均しのプロセスは、おそらく、村上春樹が短篇「蛍」を長編『ノルウェイの森』へと書き換え=変奏した時にも同じく生じたものだろう。この時『ノルウェイ』の認識は『CP』のそれにきわめて近くなる。『ノルウェイの森』に関しては2章で分析したが、凡庸な制度への批判の言葉はそれ自体が凡庸な制度の言葉でしかなく、しかもこのこと自体は、私たちにとって幸福でも不幸でもない。日常をある側面 から切り取った時、誰もが等しく帰属している事実=条件の一断面にとどまる。でもかれらは、そんな位 置から改めて自分の「言葉」の強度を現実に対して験そうとする。
 対して漱石の『こころ』は、言葉の制度や象徴秩序のひらべったさを超える他者の〈死〉という経験の絶対的な一回性、反復しえないものの反復という在りがたく稀有の光景を、明治の歴史の終焉と個人の宿命の間で、確かに描き得ているように思われる。1章で論じたように記述の内容だけでなく、複数の断層や空白を伴うその形式の側面 で。先生が「先生」という取替えのきかない固有名(英語に翻訳される時もそれは「sensei」と記述される)で呼ばれるのは、ただの偶然ではない。先生の人格はとりかえのきかない特異的なものであり、先生の自殺もまたとりかえのきかない絶対的な死の経験である――先生にとってKの死がそうであったように。それ故青年の手記は先生の自殺の光景を直接描けず途絶するし、先生の遺書の文面 をそのまま引用するだけで彼の手記を唐突に断ち切るしかない。そこでは〈死〉が超越論的な位 相に絶対化されるが、そのことにおいて確かに他者の生の唯一性が限りなく崇高に輝いている。この崇高な〈偉大さ〉は『ノルウェイの森』も『CP』も決して描写 しえなかった質のものなのだった。ただ、直子の死は他者が消える経験の儚さのアクチュアリティーを、『CP』の《あの男》の死は、自殺を以て制度に対抗すること自体の滑稽な制度的薄っぺらさの光景を、それぞれ描き得てはいるけれども……。
 『CP』での〈あの男〉の森の中での首吊り自殺の場面は、全てが目に見えるもの、過視的なもの、凡庸で抽象的なものとして記述される。私は以下の記述を読んだ時、B級SF映画『トータルリコール』でアーノルド・シュワルツェネッガーが火星の大気に触れて目玉 を膨張させる場面を思い起こした。「真っ赤になった男の顔が、急速に真っ青に変わった。鼻血が流れるのと同時に、真一文字に食いしばっていた口が僅かに横に割れ、そこから、黝く変色した舌が伸びてきた。顎の先までだらりと伸びきると、ついで、瞑っていた目蓋を押しのけるように、血走った眼球がじりじりとはみ出してきた。出目金のように膨れた眼球に目を凝らすと、瞳孔は完全に開き切っており、懐中電灯の強烈な光を何度あてても、ぴくりとも反応しなかった」……。(試みにこの場面 を、『こころ』の、先生がKの自死の現場を発見した時の、陰影や切迫をはらんだ濃密な記述と比べてみればいい)。このことは例えば、村上の『ノルウェイの森』に対する一個の批評的レスポンスとも言える青山真治の映画『名前のない森』(二〇〇二年)で、探偵・濱マイクの「とりかえのきかない」はずの欲望の形が、固有の欲望の形が、最後に、あっさりと目に見える凡庸なイメージ(森の中で樹木と融合した自分の顔)として画面 にクロースアップされることを思い出させる。
 全てが水平的な関係に置かれる時、あらゆる物事が象徴秩序=言葉=批評のひらべったさの中に置かれることになる。そこには、それを超えるもの――〈詩〉や〈現実〉の絶対性――によって端的にじぶんの身体を貫かれる、外側から打ち抜かれる、という素朴な経験が生じる転換軸や契機がない。私たちのありきたりの日常の中では、その種の経験はごく普通 に、いくつもの細かな襞やずれや濃淡として生じ続けているはずなのに。『CP』の認識には確かに徹底性がある。言葉の制度性、他者関係の制度性に対する、透徹したごまかしのない認識がある。だからこそ、『CP』の記述は、その「制度」を超えるものの沸騰する生きた手触りを「何か」という曖昧な言い方でしか語りえない(この「何か」は大澤の文章のキータームであり、その漠然とした語感は、彼の認識を突きつめられた所からさらにもう一歩進める時のモーターになっているが、同時に、彼の言葉を曖昧な情念の中へ暈す結果 を生じさせてもいる)。
 あらゆる物事が相対的な水平関係に飲み込まれていく事態への認識は、戦いを挑む「敵」が見えない、「敵」がどこにもいない、という焦燥感としても作中を瀰漫している。「楽したいのではない。戦うべき敵を見出せないのだ」。『CP』の登場人物達が異様な程に他人との勝敗(対決)にこだわるのも、この世界感覚と関係があると思う。垂直的な価値基準が見当たらない以上、自分の立場の相対的な優位 は、相対的な他人に対する相対的な「勝利」を積み重ねることによってしか立証できない(この感覚は、どこかで佐藤友哉の荒廃し尽くした作品世界を連想させる)。或る他者とぎりぎりの地点まで同一化を試み、その限界の地点でその他者と自分の差異化を試みる、それが真の「反復」だと「わたし」はいう。「あの男に可能な限り接近し、自覚的に模倣を駆使し、同一化のぎりぎりまで行ったところで、その瞬間に露呈するはずのあいつとの決定的な違いを明白に見せつけてやらねばなるまい」(注・引用者が一部表記を変えた)。その《反復=切断》の経験のさ中にこそ、この「わたし」のとりかえのきかない唯一性、生の感覚の純粋な強度――他人たちとの「決定的な違い」――が露出しあらわれるはずなのだ。「わたし」は認識の最期にそう祈る。祈らないではいられない。
 しかし『CP』の内容は、この《差異》を明確な形で現実化出来たろうか。
 いな、そうはいえないだろう。
 たとえば「わたし」は「あの男」との闘争の過程を刻々と回顧する中で、自分は単純に戦うべき「敵」を元々間違っていたのではないか、初源の選択が既に誤りだったのではないか、という単純だが致命的な疑惑と崩壊感覚にとりつかれてもおかしくはなかった、自分の戦うべき相手は「あの男」ではなく外野や左右田の方ではなかったのか、と。とすればこの『CP』という「闘争」のための記録そのものが、全て無意味で滑稽な勘違いの産物、虚無への供物でしかなかったことになる。すなわち制度に亀裂を走らせる根本的な《差異》は、この小説の内側では、ただ、「わたし」の言葉と行為の全てにどうしようもなく憑依して来る「異和」の感覚や気配としてだけ、形式のレベルで、「ある無様で滑稽な切迫感として」(古谷)、間接的に示されたにとどまる。あるいは、それらはより直接的な形では、心理ではなく、生理の歪み・痛み(頭痛や幻聴、ヘルニアの腰の痛み)の形を取っている。その痛みは、「書くこと」自体への根本の違和の感覚、と連動している。「体の方が拒絶反応を起こすようになった。ふとした加減で、何かを書こうとする衝動が起こると、不意に眉間が痛くなり、その痛みがじわじわ後頭部に広がりはじめ、やがて大声が聞こえてくる。頭の中で〈何くだらんことしてやがる!〉という怒声が鳴り響く。以来、たとえそれが公的なものであっても、文章を書くときはいつも、頭痛と幻聴に見舞われるようになった。もちろん今も感じている」。しかし、これらいくつかの事実さえも、本当のとりかえのきかない《差異》を露呈させるところまではいっていない。
 無垢な怒りでは足りない。制度をあえて楽しむシニシズムでも足りない。さらに性暴力や恋人の自殺、というクリティカルな経験さえもが、堅牢な現実の秩序(制度)を本当の意味で揺るがすことがないとすれば、あらゆる意識的な反抗が無益であり逆にそれに抵抗する主体(わたし)の無力さの側を強化し補完していくのだとすれば、その時私たちにはなおどんなアクションが可能か。
 批評を続けること。他者の言葉の解釈を続け、書き直し続けること。そのことにおいて他者から解釈され、批評され、内臓を貫かれ、「わたし」の人格が改変される痛みの可能性をも受け容れること。「わたし」が最後の最後にえらびとるのはそういう行為である。しかもこの批評の過程は、終りのない永続的な過程としてのみある。いな、その永続的な相互作用の場をひきうける動的なプロセスの中にのみ、かすかに「わたし」の欲動を強いる批評の倫理性が輝く。輝きうる。例えば「わたし」は中途半端な苦痛を持続的にもたらす不眠の状態を耐え続ける、夜明けと真夜中の間で、更に耐え続けるだけではなく耐えることの中でのみ「書く」ことのできる批評の言葉を書き続ける。「どうせ眠れないので、腰は少し痛みますが、この文章を、この不愉快な状況に耐え得るような、いいえ、抵抗できるような内容へ徹底的に鍛え直すために、今日はもう夜が明けるまでずっと起きていようと決めました」。

 (結語)

 個々を強いる生の条件や事情をどんなに踏まえても死んでゆくことは所詮は敗北であって、生きることはそれに対する抵抗(暫定的な勝利)である――様々な形を取って唱和され変奏されるこの種の雄雄しいロジックに対する違和の感覚を、私はどうすることも出来なかった。今も出来ないでいる。それとは別 種の思考の可能性を探求しひらいていきたいしひらいてゆけると思った。デリダが言うように、〈いきのびること〉(survive)とは「生」と「死」という二元的な対立を前提とする時に捕らえきれなくなる或るものの謂いであり、日常の中で微細なズレや起伏や齟齬を伴いながら刻々と持続されて行く謎めいた過程である。「生き延びることは、死だとか生きることと置き換えられるものではなくて、別 のものなのです」(デリダ「肉声で」)。しかも私たちは、いきのびることの謎に関して考えぬ く時、はじめて、この世から存在が「消える」ことの謎、生を強いる別の現実の謎を問いうる。再びデリダの言葉を引用する、「私がアプローチすべき重点は、まさに、死ぬ ことと証言すること、および生き延びることとの間にある、ある種謎めいた関係にある」(『アポリア』)。
 ――そして私は次のことを思った、その先で、つまり「生と死」の二元的対立を問うのではなく生きのびる過程と存在が消えてゆく事実との絡まりあい錯綜した関係を分析し問うてゆく観点を掴んだところから、私はなお、この世にあるもの全てを等しく生かしていく思考の可能性を探っていくことが出来るはずだ、儚い道筋を迂遠に模索し続けて、互いに争いあうこと、共に殺しあうことを含めて、と思った。ありきたりのこの現実、当り前さということは、きっとそんな光景を内包する。述べてきた事柄は《日常》という事実に関する平常な洞察とかかわる。そしてそこにおいてなお何かを「書く」とはどういうことか、書くことが現実に対してどの位 置で関われるのか、変えられるのか。そういう事柄を改めて問いたい。
 『ノルウェイの森』に関して、一つの残酷な事実として指摘できるのは、直子の相手を努めるには、直子が手紙や「遺書」の言葉を書き続け、郵送し続ける相手としては、ワタナベではやや人間としての度量 が足りなかったのかも知れない――死んだキズキと比べてさえも。相手のこころのいちばん危うい場所に、しかもその時にこそ必要となるやさしさの特質を失わない形で踏み込んでいく大胆な繊細さと脆弱な勇気の感覚が、彼にはあんまり致命的に欠けていた。自分の欠落に対する反省や異和の意識にも関わらず、彼にはそのむざんな事実をどうすることも出来ていない。「直子はワタナベよりもましな人間に出会うべきだった」、こう想定してみることもあながち無意味とは思わない。むしろ一般 的な「真実」としてはそちらの方が儚くないし「正しい」。認識としても強い。しかし私たちは、その先の位 置でなお次の事柄を考えるべきではないか。人は誰かに出会えたかも知れない。むしろ何としても出会うべきだったのかも知れない。あるいは人は、たんなる一過的な「出会い」としてすれ違っていった無数の関係の中のいずれかを、意志の力で本当は真の《出逢い》へと転形していくべきだったのかも知れない。でもこれら全てにも関わらず、あるいはそれ故にこそ、生の中で何十年間かを誰とも《出逢わなかった》という端的な事実はそれ自体が強度に圧倒的な経験であり、どうしようもなく、また重たいものなのだ。しかも、それをたんに「仕方ない」では済まさない。その先へ、認識と実践を一歩一歩這いずって進めていく。積み重ねられたいくつもの「事実」の堆積を繰り込んだ上で、なおそういう可能性をさぐっていきたいと思った。
 私が必要だと思うのは、潜在的に誰かと《出逢えたかも知れないこと》の可能性と同時に、現在の自分に与えられた誰かと《出逢えなかった》という事実の無慈悲さを思考すること(何故直子はワタナベという中途半端な人間としか出会えなかったのか)、――のみならず、誰かと出逢えなかったその事実(本当は出逢うべきだったのに)のけしてとりかえられない重たさ、痛み、その絶対の欠如(不在)にも関わらずなおこの「わたし」に外側から与えられているいくつかのささやかではあるが在りがたく肯定的な事柄たち、その恩寵、その日々の糧を、全てが暗渠に沈んでいく瀬戸際に踏みとどまって、自己検証と共に再発見していくことである、例えば。
 『ノルウェイの森』の中には、直子は「彼女自身の心みたいに暗い森の奥で」死んでいった、消えていった、という一節がある。そこでは〈森〉は、「わたし」にはじかに触れることのできない他者の不可解な「こころ」を指し示すための、ひとつのメタファーとして見出される。つまり森は、ある閉ざされた閉域を構成する何ものかのシンボルとしてある、男女間の息苦しい三角関係が閉ざされているが故に純粋で濃密な《関係》を醸成するように。例えば酒鬼薔薇聖斗が、「懲役13年」で、ダンテの「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、/俺はまっすぐな道を見失い、/暗い森に迷い込んでいた」という言葉を引用し、それを自分自身の中でうごめくわけのわからない《内部》のメタファーとして用いた時、同じく〈森〉とはそんな純粋内面 の世界そのものを意味したのだろう、たぶん、「こころ」という暗い森のことを、ひろさもふかさも本人には最早はかりしれない内部のことを。
 しかし他方で、〈森〉をその種のメタファー、不可解な「こころ」と等しい対応物に限定するのではなく、むしろ、現実に繁茂する森そのものに内在する不気味さや豊かさや微光や腐敗を微細に、一つひとつ丁寧かつ精密に描くことも可能ではないか、という思いも私には素朴にあるのだった。それが率直な気持だ。私たちの生きる現実のありようは本当はもう少し単純であり、もう少し微妙に複雑なのではないか、と。すべての存在をその各々に固有の混乱と共にひとしく生かそうと試みること。生の実験を繰り返すこと。その時私たちの思考とはどんなものでありうるのか。またそれを可能にする《文》の形態はどんなものなのか。
 私たちにまず必要なのは、あの狭苦しい抽象化された三角関係が、そのかたく緊密な結び目がいったんほどけた位 置で、この〈日常〉の中ではあらゆる事柄が起こりうる、起こっても何もおかしくはない、という単純な事実のおそろしさを認識し、その全ての細部を一つひとつくもりなく明晰に、書き続ける/想像し続ける/沈黙し続ける過程ではないか。たとえば自殺しそこなった先生のその後のごく平凡な家庭生活の可能性を同時に考えること、直子が『風の歌を聴け』の十四歳の時に失語症が突然治りそれまでの「ブランクを埋め合わせるかのように」「三ヶ月かけてしゃべりまく」った「僕」のように、突如うつくしい自分自身の言葉を回復し饒舌にしゃべりはじめる可能性を思い描くこと、誰も自殺なんかしないで新館と由記子があっけなくロマン的恋愛を成就するとすればどうか、逆に、新館の自殺が登場人物の全てに決定的な絶望と悲哀を波及させたならばどうか、など等。そしてそれらのもしかしたら他の形でありえたかもしれない可能性を同時に思考することは、そのまま、寧ろそうでしかありえなかった自分の人生の《事実》というおそるべき固有性を、純粋に、ほの明るい断念の感覚と共にひきうけること、賦与された事柄の凡てをじぶんの生存として引きうけつつ生きのびてゆく道筋へとひらかれているだろう。
 要するに、「全ては等しく起こりうる」日常の多層性や物深さを、一挙に、しかし一つ一つ繊細かつ丁寧に、精密に書き尽くすこと、ありとあらゆる雑多なものを――よいところも悪しきところも、うつくしいところも唾棄すべき汚れたところも、正しさも間違いも――絶対的に事細かに肯定していくことは、私たち神ならぬ 平凡な人間には為しえないことなのか。そういうことを考える。いな、これは逆かも知れない。神でも「天才」でもないごく普通 の平凡な人間でしかない故に、私たちにはそんな遠大な営為が可能なのか。その時「森」とは抽象化された息苦しい閉域ではなく、すでに、私たちが属する〈日常〉の別 名へとその意味をきっと転化しているだろう。しかしこのような言い回しは、このままでは、それ自体がやはりメタフォリカルなものでしかない。この先の場所で必要なのは、この私が(この私に固有の情念的=受苦的なやりかたで)それを具体的に現実化すること以外にないから。もはや「詩」でも「証言」でも「批評」でもないもの、特定のジャンルの枠組みには収まりきらないもの、そういうわけのわからない言葉、それら全ての要素を含み、かつ過剰し、その中でそれらの要素を異種交配させていくタイプの言葉、そんな異形の文章を「書く」ことを私は切に望んでいる。――改めてそれらの実践を試みること、実験し続けることが、私にとって、ささやかな「書くこと」のはじまりの現場となるだろう。

(2003/9/21)