穂積一平/苦海と浄土のあいだ――石牟礼道子「苦海浄土」をめぐって(上)


1.フィクティブなルポルタージュ(注)

 私のたしかめたところでは、石牟礼氏はこの作品を書くにために、患者の家にしげしげを通うことなどしていない。これが聞き書きだと信じこんでいる人にはおどろくべきことかもしれないが、彼女は一度か二度しかそれぞれの家を訪ねなかったそうである。
 …ところがあることから私はおそるべき事実に気づいた。仮にE家としておくが、その家のことを書いた彼女の短文について私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答をつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃ、あなたは『苦海浄土』でも……」。すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あのひとの心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。
渡辺京二「石牟礼道子の世界」

 講談社の文庫版「苦海浄土」のあとがき「石牟礼道子の世界」で渡辺京一氏は、石牟礼の方法がいわゆる「聞き書き」ではないことを強調している。
 なるほど、読者は「苦海浄土」の滔々と流れる方言=地言葉に触れ、水俣病という出来事を喚起し、ユージン・スミスのあの「入浴する母子像」を思い浮かべるとき、これらのことばが水俣の村人の実際の声でないなどということを想像するのは難しいだろう。たとえ、渡辺氏が前述のような事実をいくら強調したとしても、この感触がなくなるというわけではない。
 しかし、石牟礼は「苦海浄土」を構成する「聞き書き」が決して単純な「聞き書き」ではないということを隠してはいない。

 軽度とおもわれる言語、聴覚障害患者たちに医師は、たとえば、
「コンスタンチノープル、といってごらんなさい」
という。そしてくり返す。
 意識も、情感も、知性も、人並み以上に冴えわたっているのに、五体が絶対にスローテンポでしか動かせぬようになったひとりの青年の表情に、さっと赤味が走り、彼は鬱屈したいいようのない屈辱に顔をひきゆがめる。
 しかし彼は、間のびし、故障したテープコーダーのように、
──コン・ツ・タンツ・ノーパ・ロ──
というように答えるのだ。<ながくひっぱるような、あまえるような声>で。
(第一章「椿の春」「死旗」p.50)
 「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった。」
 彼女の言語はあの、長くひっぱるような、途切れ途切れな幼児のあまえ口のような特有なしゃべり方である。
(第三章「ゆき女きき書き」「五月」p.127)
 嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。…(ほ、ほん、に、じ、じい、ちゃん、しよの、な、か、おおな、ご、に、なった、な、あ。)うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい。親さまに、働いて食えといただいた体じゃもね。
(第三章「ゆき女きき書き」「五月」p.128)
 うちは情けなか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付添いさんが食べさしてくらすが、そりゃ大ごとばい・・・
(第三章「ゆき女きき書き」「五月」p.133)

 当然ながら、「口もがくがく震えのくる」ゆき女が石牟礼が文字にしたようにしゃべったはずがない。
 「苦海浄土」のいたるところに、言語障害、聴覚障害、そういった水俣病の症状があからさまに言及されているし、すこしも隠されていないばかりか、強い共感をもって語られているにもかかわらず、石牟礼のことばはやはり「聞き書き」というのがふさわしいし、そういうふうに見える。
 わたしたちは単純に架空の現実をバーチャルリアリティと読んだり、小説やフィクションを「嘘」だが真実を伝える巨大なたとえ話や比喩といったふうにみなすことに馴れている。またすこし大きな枠組みでリアリティそのものがたえず歴史的に構成される仮想的なものだというふうにも考えたりする。
 しかし、石牟礼の文章がもつ強い共感性とでもいうべきものは、こういった枠組みで納得するにはあまりに過剰な意識に貫かれている。この、共通の磁場に引き込んでしまうことばの力はどこからきているのだろうか。「苦海浄土」を何度か読んで、すこし気付いたことがある。それはこの共感性が、非常に微細な、日常的な視線と、聞き書き、あるいはその対極にある水俣病の各種の公文書・報告書の類の並列のなかからわきあがってくるのではないかということだ。
 これは早くも「苦海浄土」の冒頭のほうにあらわれる。たとえば、毎朝、水俣病患者たちを病院に送るバスの情景。

 そして、この青年が力をいれて、バタンと扉を閉めると、バスの中に、微妙な変化が、外の風景の中にいたときの、不安げな様子とはちがう変化が起きるのを私はいつも感じていた。それはおおかた、口のきけない子どもたちのあげる、かすかな声や、なめらかにほぐされてくる大人たちの会話であった。・・・みかけの「四肢の異常姿態」つまり、硬直して鳥のようになったかぼそいその手足を、胸に抱くようにしている小さな彼らが、バスに乗せられたことを非常に喜んでいるのがわかったし、大人たちは、そのような子どもたちをみくらべて微笑しあい、心をほぐしたようにおしゃべりをはじめるのだった。
(第一章「椿の春」「山中九平少年」p.18)

 奇病に対する世間の偏見や同情といった、まとわりついて離れない「外」の世界の「苦海」とバスという閉ざされた空間でほっとため息をつく、そうしてため息をつきながら「四肢の異常姿態」「鳥のようになったかぼそいその手足」を突き抜けても「心をほぐされる」、あるいはそうした「バス」のなかで「心をほぐされる」しかない「苦海」という二重の光景が、淡々とした描写のなかに浮かび上がる。これは「水俣病」という文脈をとりのぞけば、日常的でありふれた光景だともいえる。誰もがすくなからず畸形であり、それが個性と呼ばれたとしても、その個性=畸形の意識は、内と外を分割する。しかし、この描出が数ページ後にある、つぎのような統計報告によって、いわば裏切られる。

 昭和二十九年から三十四年にかけて、水俣病の多発した部落の漁家に出生した子どもたちのうち、脳性小児麻痺様の子どもたちの部落集中率の高さがいぶかられていたが、三十七年十一月、水俣病診査会はこれら子どもたちのうちまず十七名を、三十九年三月末に六名を、計二十三名が、胎児性水俣病であると発表した。子どもたちは、母親の胎内ですでに有機水銀に侵されて、この世に生を受けたのであった。
(第一章「椿の春」「山中九平少年」p.20)

 これはひとつの事実報告にすぎない。「苦海浄土」はこれをさらに大規模に全面的な引用にまで展開するだろう。報告が出来事を社会的な文脈に置き換え、客観化し、医療のまなざし、窒素経営陣のまなざし、水俣病部落のまなざし、厚生省のまなざし、そういったものでいくえにも武装するとしても、この報告からもれるものがあまりに大きいものであることを多くのひとが知っている。当事者ならなおさら痛切に感じる。あるいは知っていてもなお「報告」から漏れてしまう事ごとを知らないふりをして初めて「報告」をうべなうことができる。
 数値、病状、因果関係・・・、「苦海浄土」ではこれらは投げ出されたままだ。まるで水俣病患者たちの「四肢の異常姿態」が投げ出されたままであるかのように。このように投げ出された「報告」のなかから、ところどころで辿ることができる作者の足跡は、罠=トラップを形成する。注意しなければひっかかることはないし、シナリオの地の文のような余白に書込まれた指示で、それほど重要ではないといわんばかりにさりげなく埋め込まれている。
 「苦海浄土」はなぜ、水俣病患者たちのルポルタージュではなく、ささやかな日常に仕掛けられたいくつもの罠を描写して、それをさらに公文書の引用によって裏切る、ということをしなければならないのだろうか。罠は、つぎのような場面にも仕掛けられている。

 この頃、看護婦さんが、手が先生しびれます、といいだした。看護婦さんたちが大勢で来て、うつらない証明をしてくれという。このとき手がしびれるといった湯堂部落出の看護婦さんたちは、あとになって胎児性の子どもを産むことになった。まさかそこまではそのとき思いおよばなかった。
(第一章「椿の春」「四十四号室患者」p.37)

 病、しかし水俣病を「病」と呼ぶべきだろうか。ここでは単に畸形と呼んだほうがいいのではないか。この畸形は、医者と患者、健常者と異常者、被害者と加害者、勝者と敗者等々、家族、村、水俣市、また社会のいたるところに分割線を引きなおす。「苦海浄土」を「聞き書き」する石牟礼と読者たち。「看護婦さん」は医療にたづさわる者として不謹慎な心配をしているのだろうか。石牟礼のまなざしは告発するわけでもなく、悲観するわけでもない。あたりまえのことをあたりまえのように書いている。「まさかそこまではそのとき思いおよばなかった」のは、いったい誰なのか。誰かが思いおよぶべきだったのか、それともこう記述する石牟礼自身の後悔なのか。
こういった罠が「苦海浄土」にはいくつもはりめぐらされている。その中にほとんど唐突にいくつもの「聞き書き」と「報告書」があらわれる。
 医学的報告と淡々とした日常的描写の間には落差があるのだろうか。しかし石牟礼の意識のなかではそのような落差がはっきりと認識されているというふうには見えない。むしろその落差をないもののように扱うこと、たとえば解剖に立ち会うということ、立ち会わなければならない、ということ、そして、解剖所見を日常的な描写と「聞き書き」のなかにすべりこませるという無意識的な作為、「苦海浄土」では連続した平面のうちにこういったいろいろなものが並んでいる。
たとえば「猫」をめぐるいくつもの文章。

 婆さまは食卓の上に、くずれかけた豆腐を切って出す。それから大山盛に、タコの茹でたのを切って出す。それから、黄色く色のついた大根の漬物をだす。二人の孫たちは膝を立ててカチャカチャと小皿をめいめいの前にならべはじめる。弟のほうが、食卓の下の猫のさらに釜の蓋をとって御飯をとりわけ、それから景気よく茹でダコの五切れか六切れをのせてやり、ついでに、したじをざんぶとかけてやる。
 婆さまはそれをみながら、チョッチョッチョッと舌を鳴らして猫の頭をぽんと打ち、それからいいきかせをする。ほれほれ、ミイ、こっちがおまいの自分の飯ぞ、これだけもろうて食えばもうよか。ひとのおぜんの上に登るめえぞ−。
 すると爺さまはすぐにききつけてかっと目をひらき、けちけちすんな、ミイにもうんと食わせろ、猫ちゅうもんは、腹いっぱい食わせさえすれば、人の皿に来たりはせんもんじゃ−と説教をたれる。
(第四章「天の魚」「海石」p.184)

 第四章「天の魚」の「海石」の冒頭は、

 少年とわたくしのこころは充分通いあっていた。
(第四章「天の魚」「海石」p.183)
という書き出しで始まる。もちろんこの書き出しは前章「九竜権現さま」の末尾、
 あねやん、こいつば抱いてみてくだっせ。・・・爺やんな酔いくろうたごたるねえ。ゆくか、あねさんに。ほおら、抱いてもらえ。
(第四章「天の魚」「九竜権現さま」p.182)
という言表をひきずっている。このような水俣病患者、杢太郎少年一家との親密な関係は、石牟礼が取材対象としての距離を測り損ねているということにもなるだろうし、それが石牟礼の長所であるというふうに論ずることもできる。もちろん完全に客観的な「報告」は不可能だし、だれであれ共感や反発がなければ他人の出来事に口をはさむこともできない、また、そうして口をはさんだところでいかほどか自己の位置を確かめるだけというふうにならざるをえないのも事実である。しかし、食卓をともにして、「婆さま」の仕草を前述のように再構成する石牟礼のまなざしは共感に縁取られている。「出すぎた真似」「余計なお世話」にも見えるが、先の文章が「出すぎた真似」と思わせない点をもつとすれば、それはひとえに「食卓」のありふれた風景、おそらく食べるものは違っても多少時代が異なっても大差ないと思われる、平穏な食事風景、イタヅラをする猫を巡る老夫婦の会話の民話的な静寂、そういった作為に色取られているからだと言えよう。しかし同時にこれが「作為」だと断定するのも難しい。「苦海浄土」が小説として、フィクションとして最初から提示されているのなら、推理小説のトリックや各種のネタ振りを見つけることもたやすいし、そうしたからといって非難されるわけではない。問題は「苦海浄土」があたかもノンフィクションでありながら、なぜわざわざどこにでもあるような食卓風景を丹念に挿入しなければならないのか、にある。水俣病という「驚くべき」中毒事件の異常さと対比させるため、というような皮相な意見は退けておこう。それだけならばあえて「苦海浄土」を読む必要もない。この風景がフィクションだと断定はできなくても、この平和な食卓のワンシーンが「猫」を転回点にして、いくつもの反射鏡によって照らし出されてもいる様を跡付けることはできる。

 熊本医学会雑誌(第三十一巻補冊第一、昭和三十二年一月)

 猫における観察

 本症ノ発生ト同時ニ水俣地方ノ猫ニモ、コレニ似た症状ヲオコスモノガアルコトガ住民ノ間ニ気ヅカレテイタガ本年ニハイッテ激増シ現在デハ同地方ニホトンド猫ノ姿ヲ見ナイトイウコトデアル。住民ノ言ニヨレバ、踊リヲ踊ッタリ走リマワッタリシテ、ツイニハ海ニトビコンデシマウトイウ、ハナハダ興味深イ症状ヲ呈スルノデアル。
・・・
 全身痙攣ハ約三十秒ナイシ一分ツヅキ、ツイデ猫ハ起キアガリ、付近ヲ走リマワル。・・・
(第三章「ゆき女きき書き」「五月」p.137)
 猫たちの妙な死に方が始まっていた。部落中の猫たちが死にたえて、いくら町あたりからもらってきて、魚をやって養いをよくしても、あの踊りをやりだしたら必ず死ぬ。
(第三章「ゆき女きき書き」「もう一ぺん人間に」p.147)
 猫のいなくなった部落の家々に鼠が増えた。
・・・鼠たちはすぐそのような土間から石垣道にくぐり出る。おぼろな月明かりの道を横切り、石垣をくぐって舟へ飛んで、手ぐりの釣糸やうず高く積まれてひさしく使わない網などを片っ端から噛んだ。ひたひたと打つ夜ふけの波の間に、カリリ、カリリ、と石垣にそってつながれている舟のあちこちで、夜ごとに音がするのである。
(第三章「ゆき女きき書き」「もう一ぺん人間に」p.150)

 水俣病患者の家にも元気そうな「猫」がいるではないか。「部落中の猫たちが死にたえ」たわけではないだろう、という「イチャモン」をつけているのではない。また、平穏な食卓風景に挿入された「猫」はあきらかなフィクション、ないしは「本症ノ発生ト同時ニ水俣地方ノ猫ニモ」発生した有機水銀中毒症状を際立たせる文学的装飾だ、と言いたいのでもない。
石牟礼は水俣病と自己の資質との間で微妙な綱渡りをしている。これをノンフィクションとフィクションの間での綱渡りだと言い換えてもいいが、逆にこのことがフィクション=ノンフィクションとして成立した「苦海浄土」の際物的な性格をあからさまにもしている。だが、それだけならばいかほどのこともない。

 猫たちがきてれつな踊りをおどりまわったり、飛びあがったりして海に「身投げ」して死ぬという話を、ひとびとはしばらく楽しんでさえいたのである。舟幽霊やがわっぱを見たひとびとが、真実を語ろうとすればするほど、はためには虚構らしくみえ、しかしそのつくりごとをいかに迫真的に話し、それをききうるか、聞き手の方は、そのつくりばなしの中に身をのりだして参加することで、村の話というものはできあがってゆくものなのだ。まして、聞き手の側に体験の共有があればなおさらに、話のさわりに近づくことができるのが、身についた伝統というものだった。
(第五章「地の魚」「潮を吸う岬」p.203)
 水俣病が「病」であると言わざるをえないのは、迂路を経て水俣の漁民たちの脳髄に辿りつくからである。有機水銀中毒の経路は自然の食物連鎖を利用する。工場廃液、不知火海、水俣湾、水、魚、猫、漁師。「苦海浄土」はこれらの経路を反射させつつ成立する。「猫」のエピソードはその反映のひとつである。この経路上にばらまかれた材料を拾い集めるようにして「猫」もまた「苦海浄土」のなかにばら撒かれている。
 胎児性水俣病の発生地域は、水俣病発生地域を正確に追い、「神の川」の先部落、鹿児島県出水市米ノ津町から、熊本県水俣市に入り芦北郡田浦におよんだのである。誕生日が来ても、二年目がきても、子どもたちは歩くことはおろか、這うことも、しゃべることも、箸を握って食べることもできなかった。
 ・・・
 四年たち、五年たちするうちに、子どもたちはやむえず、村道の奥の家々に、一日の大半をひとりで寝ころがされたまま、枕元を走りまわる猫の親子や、舟虫や、家の外で働く肉親の気配を全身で感じながら暮らしてきたのである。
(第一章「椿の春」「山中九平少年」p.20)

 石牟礼は、どうして胎児性水俣病の子どもたちが「全身で感じながら」などと書けるのか、などと言ってはならないだろう。普通なら「全身で感じながら暮らしていたにちがない」とでも書くだろうに、などと余計な思いつきも振り払ったほうが賢明というものだ。

 十月十三日、熊本医学会。わが院の三隅彦三(内科)医師が発表。このとき猫のことを発表。
(第一章「椿の春」「細川一博士報告書」p.38)

 しかし、この「細川一博士きき書きメモより」の抜粋に唐突にほうりこまれる「猫」のことは、それまでなにも説明されていない、などと小言めいたことも言うべきではない。

 「おとろしか。・・・人間じゃなかごたる死に方したばい、さつきは。・・・これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫のしにぎわのごたった。ふくいく肥えた娘でしたて。・・・
(第一章「椿の春」「四十四号患者」p.41)
 事態はしかし、目に見えて、急速に、進行しつつあった。
ボラのみならず、えびも、コノシロも、鯛も、めっきり少なくなった。・・・漁師たちは、めいめい、無理算段して、はやりはじめていたナイロン網にかえたりしたが、猫の育たなくなった浜に横行するネズミに、借金でこしらえたせっかくのナイロン網を、味見よろしく、齧られたりする始末であった。
 この頃、わたしの村の猫好きの老婆たちは、茂道や月ノ浦あたりじゃ、何べんくれてやっても、猫ん子が育たんげなばい、くれ甲斐もなか、と、いいあっていたのである。
(第二章「不知火海沿岸漁民」「舟の墓場」p.75)
 そんかわり猫ヤツがごろごろ舞い出して、うったまがった(驚いた)なあ。あすこの魚は利けたばい。てきめんじゃった。死んでしもうて。すぐに人間もなったし。タレソ鰯がよう利いた。
(第二章「不知火海沿岸漁民」「舟の墓場」p.77)

 「利く」という言い回しに注意しよう。まるで水銀が肩のコリかなにかに「利く」とでもいうように。しかし、この言表は同時に「利く」薬というニュアンスも含んでいる。薬物=水銀、そういう連絡がおのずと作られている。魚、猫、人間。連鎖はあまりに自然だ。

 川向こうの、漁家部落、八幡舟津に、すでに六十九、七十、七十一、七十二人目と水俣病が出ており、遠い茂道、湯堂、月ノ浦の、猫おどりの話として、なかば笑い話にしていた奇病が、新しく設置された八幡大橋付近の、新日窒工場の、排水溝の鼻をつく異臭と、たちまち排水溝付近で浮上した魚群と、そこに波止をもつ舟津漁民の発病をみて、私の部落でも現実の恐怖となった。
(第二章「不知火海沿岸漁民」「舟の墓場」p.83)
 「・・・会社の試験でも、猫は、ごろごろ死によるぞ」と家族たちに、「秘密ぞ」と前置きしていいつけたが、・・・
(第二章「不知火海沿岸漁民」「舟の墓場」p.83)
 会社、付属病院で、水俣病の試験猫を、一匹二、三百円に買い上げるので、さっそくひと儲けをやらかした人物がいるというのである。彼は夜陰に乗じて、野良猫かられっきとした近辺の飼猫までひっさらい、麻袋に入れて売ったはよかったが、自分の嫁御の猫まで売ったので、わがかかから慰謝料を請求されている、というのであった。
(第二章「不知火海沿岸漁民」「舟の墓場」p.84)

 ここで、ようやく「猫」の全体像があらわれはじめる。全体像は村人からの「聞き書き」「噂」「日常風景」を抽象する「実験」というまなざしによってあらわれでる。石牟礼が並置しているのはこういう手続きだと言ってもいい。「猫」はそういう手続きを誘導するキーとして働く。

 月ノ浦におかしか病気の出とるという。だんだん、だんだん出てきて三十一年には四十三名になった。・・・はじめは議員連中も笑い話にしよったです。猫の話のありよったでっしょが。
(第二章「不知火海沿岸漁民」「昭和三十四年十一月二日」p.90)

 たしかに「苦海浄土」でも「だんだん、だんだん出て」くる。これに続いて、前述の「熊本医学会雑誌」での報告。(第三章「ゆき女きき書き」「五月」)。さらに、「猫たちの妙な死に方がはじまっていた」(第三章「ゆき女きき書き」「もう一ぺん人間に」)。「猫のいなくなった部落の家々に鼠がふえた」(第三章「ゆき女きき書き」「もう一ぺん人間に」)という記述がある。

 ・・・死んだ猫や死につつある猫たちの話はだから、迫真的な親密な話題だった。
 ──おる家の猫もてんかんにかかったぞ。
 ──そりゃもうダメじゃ。逆立ちするごてなったかい。
 ──する、する、キリキリ舞うて。鼻の先で舞うとぞ。
(第五章「地の魚」「潮を吸う岬」p.203)

 これは「熊本医学会雑誌」での報告を再現する。いわば聞き書きバージョンである。

 その根拠としては、各種障害の臨床的観察が、有機水銀中毒ときわめて一致することあるいは病理学的所見においては神経細胞及び循環器障害が有機水銀中毒に認められること、また、動物実験においてもムラサキイガイ(水俣湾内産)を猫に与えた場合と自然発生猫とは全く同様の変化を起こし、さらにエチール燐酸水銀を猫に経口的に投与するときも介類投与の場合と同様であり、かつ、患者及び罹患動物の臓器中から異常量の水銀が検出される点を挙げているのであります。
(第五章「地の魚」「さまよいの旗」p.220)
 彼女のご亭主、宮本利蔵は三十九年二月に死んだ。・・・私たちの部落にとっても利蔵やんの発病はショックだった。ダシジャコ売りの定期便のような、おしの小母さんの天秤棒をしならせた姿は、ここらの部落に溶け込んでいた。彼女のものいいは風格があり、要らないというと、
「要れ、永うもなか娑婆になんば辛抱するか猫にも食せろ」
などという。
・・・
 ──会社は晩になると臭か油のごたる物ば海に流すとばい。・・・
 漁民たちの奇病発生当時話しあっていた言葉を、わたくしはあんぐりとした口腔の中で思いだす。
 ──水銀微量定量法──ジチゾン法、発光スペクトル分析法、等々がわたくしの舌を灼く。
 おしの小母さんに少しは義理が立つか、とわたくしはおもったりする。
 チッソの秘密実験について、富田八郎氏から便りとデータがとどく。
 <猫試験四百号>のデータ。
(第六章「とんとん村」「春」p.243)

 注意深くみれば石牟礼は、慎重に徐々に「水俣病」の核心に迫ろうという配慮をしているのがよくわかる。こうした水俣病と、有機水銀中毒と、水俣の素朴な漁民たちの生活を結びつけ、その変容の指標となる「猫」の描写も、「猫」の病状報告も、「聞き書き」に埋め込まれた「猫」の姿も、石牟礼のある種の散文的な意志によってよく抑制されているというべきだろう。しかし、この抑制は記述のフローのなかで、とびとびに辿られる事柄だということも忘れるべきではない。その証拠にこのような抑制がしばしば、以下のような文章によって裏切られる。

 入り口のほかに窓というものをつけないでいるこの家内全体が、この日ひとしお韻々たるわだつみのいろこの宮──それはもちろん青木繁流のロマネスクなどではさらさらなく──のごとき景観を呈していたのは、さきごろまで舟虫の食った破れ舟の舟板が、重々しくこの家の神棚の後ろの壁にうちつけられていたのが、ひときわ青み渡った波形のエスロン板に取り替えられているからであった。
神棚にそったうしろ一坪ばかりの壁自体はとりもなおさず、八畳ほどのこの家全体の明りとりともなっていた。当世流のこのエスロン波板の壁といえども、山腹にたぐり揚げられた朽ち舟が苔むして、おのずから竜骨を保護するおもむきを有しているこの江津野家の縷々たる年月に早くも溶けあい、ゆらめくような波形の青い光を放ち、その海底のもののような光線は、入口土間に置かれた古い大きな水甕や、庭先にころがりこわれたままになっているボラ籠や、そのようなボラ籠のある庭先にかげりはじめている日ざしとまじわりあい、まだ電燈をつけない家の中に──この家のたったひとつの裸電球は、いつも家族たちの食堂の上に垂れているのだった──不思議な明るさをもたらしていた。
(第四章「天の魚」「九竜権現さま」p.161)

 この文章を、p.184の「婆さま」「爺さま」と「猫」を巡る民話風の記述と対応させてみればいい。一方に「聞き書き」、もう一方に報告文、このふたつを結ぶ線と交差するように、民話的記述と上のような詩的散文が重なりあう。
 これらは相互に「裏切り」合う。これが一般に「裏切り」として感受されることも少ないかもしれない。「裏切る」といって悪ければ、相互に反発しあいながら共犯的な関係を形成する。だが、このような文章がなぜ必要なのか。「エスロン板」からイメージを湧出させる作家の「ノリ」が行き過ぎていると感じられる、そういうわけでもない。「ひとつの裸電球」がもたらす「不思議な明るさ」は確かに水俣病とその患者たちの日常、非日常をとらえてもいるが、実際ここではなにかが描写されているわけでも報告されているわけでもない。詩的な散文と言えばなにか納得したような気分にはなれるが、そう言ったところで実際にはなにも分明になるわけではない。このような抽象度の高い描出が、医学報告書や聞き書きさらには平板なほどの散文的描写と並んでいるのは奇妙な風景だと言えないだろうか。
 しかし重要なのは、これらの記述が全体として「小説=フィクション」を構成する意図をもって、いわばコラージュ風にいくつもの断片を埋め込んでいるというわけではなく、まさに「水俣病」という出来事をその中核とし、「水俣病」という現実を描こうという一途な思いによって遂行されていることのほうだ。この思いが深ければ深いほど、それに比例するようにして、飛び越えがたい溝が姿をあらわすだろう。

 石牟礼は言っている。

 そのようなことどもをおぼろげにきいて帰る。わたくしの抽象世界であるところの水俣へ、とんとん村へ。抽象の極点である主婦の座へ。ここはミクロの世界であるなどとおもい、首をかしげてぼうとして坐る。
第二水俣病が、新潟阿賀野川のほとりに出る。
(第六章「とんとん村」「わが故郷と「会社」の歴史」p.256)
 石牟礼は「正確に」言っているというべきだ。「わたくしの抽象世界」と。この抽象世界は、もっとも具体的で手触りがあり、ことばだけで表現しきれない身体的・日常的な現実を目の当たりにしている。だからこそこの世界は「抽象の極点」でもあるのだ。これを「身体」と言ってしまっては正確ではない。注意深く耳を傾けなければならないのは、「首をかしげてぼうとして坐る」というパラグラフの末尾と、続く「第二水俣病が、新潟阿賀野川のほとりに出る」というパラグラフとの不連続な連続のほうだ。切断し飛躍するが、これは切断でも飛躍でもなく、すんなりと耳に運び込まれる囁きである。つづけて石牟礼は言う。
 なんと重層的な歳月に、わたくしたちはつながれていることであろう。
(第六章「とんとん村」「わが故郷と「会社」の歴史」p.256)
 これも正確にそう言われているとおりにとるべきだろう。

 この「重層的な歳月」、漁師たち、工場勤めの工員たち、議員様の来迎・・・水俣を巡るいくつもの歳月、新日窒素工場の成立史、熊本大学医学部水俣特別病棟・・・、このなかに石牟礼は「絶句」、つまり非連続と飛躍を見つけ出す。「わたくしの抽象世界」と「水俣病」さらに、「第二水俣病」。しかし、非連続があるとはいえ(あるいは非連続があるがゆえに、というべきか)、石牟礼は独特の「使命」をもって、「具象世界」へ向かおうとしている。

 わたくしが昭和二十八年末に発生した水俣病事件に悶々たる関心とちいさな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられて水俣市立病院水俣病特別病棟を訪れた昭和三十四年五月まで、新日窒水俣肥料株式会社は、このような人びとの病棟をまだ一度も(このあと四十四年四月に至まで)見舞ってなどいなかった。
(第三章「ゆき女きき書き」「五月」p.124)
 水俣病の死者たちの大部分が、紀元前三世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生き残っているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態と言えば、こと足りてしまうかもしれぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、わたしのアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。
とはいえ踵のすりへった、特売場の私の靴は、ぬかるみを跳び渡ることもできず、バスに乗り遅れ、出月から二時間かかかる水俣市内をつきぬけたはずれの、自分の草屋にむかってとぼとぼと歩き出した。
(第一章「椿の海」「死旗」p.65)

 「とはいえ」このような「使命」は人間の手に負えるものではないのではないか。まして寒村の一主婦にそんなことができるだろうか。しかし、寒村の一主婦にしかできない、ということもできる。どちらにしろ人間の手に負えないなら、大臣であろうが一主婦であろうが関係はない。「水俣病」の壮絶な現実の前では。

 現病歴・三十一年七月十三日、両側の第二、三、四指にしびれ感を自覚し、十五日には口唇がしびれ耳が遠くなった。十八日には草履がうまくはけず歩行が失調性となった。またその頃から言語障碍が現われ、手指震顫を見、時にChorea様の不随意運動が認められた。八月に入ると歩行困難が起り、七日水俣市白浜病院(伝染病院)に入院したが、入院翌日よりChorea様運動が激しく更にBallismus様運動が加わり時に犬吠様の叫声を発してまったくの狂躁状態となった。
(第一章「椿の海」「四十四号患者」p.45)
 患者たちに共通な症状は、初めに手足の先がしびれ物が握れぬ、歩けない、歩こうとすれば、ツッコケル、モノがいえない。いおうとすれば、ひとことずつ、ながく引っぱる、甘えるようないい方になる。舌も痺れ、味もせず、呑み込めない。目がみえなくなる。きこえない。手足がふるえ、全身痙攣を起こして大の大人二、三人がかりでも押さえきれない人も出てくる。食事も排泄も自分でできなくなる。という特異で悲惨なありさまであった。
(第二章「不知火海沿岸漁民」「舟の墓場」p.80)
 衆議院における現地調査
 ・・・
 まず、水俣病といわれる病気でありますが、熊本県の南、鹿児島県との県境に程近い水俣市を中心とした一定の地域に発生する奇病であって、中枢神経疾患を主兆とする脳病であります。手足の麻痺、言語障害、視聴力障害、歩行障害、運動失調及び流涎等特異的かつ激烈な病状を呈し、気違いと中風とが併発した病状といわれるゆえんであります。
(第五章「地の魚」「さまのいの旗」p.218)
 「さあなあ、世界ではじめての病気ちゅうけん」
 「病気とはちがうばい。五つや六つの可愛い盛りに、知らぬあいだに魂をおっ奪られて。あんたなあ、尻の巣をがわっぱにとらるる話はきくばってん、大事な魂ば元からおっ奪られた話はきいたこともなかよ」
 「あんまり、考ゆるな、さと」
(第五章「地の魚」「草の親」p.228)

 残酷や悲惨は見やすいものではない。うべなうにしろ合理的に理解してみせるにしろ、いちどは拒絶されてある、そういうあり様を保たなければ容易には接近できない。人間の歴史は圧制と悲劇の連続だという理解は可能だし、幾万、幾億人の死が歴史をつむぎだしていると言い募ることもできる。水俣病を「公害」として認識しても、高度成長期の負の遺産を忘れないためというだけではなく、それが石牟礼の「深度」において表現されなければ、教科書のひとすみを飾る「成長」のエピソードにすぎないだろう。

 茫々とともってゆくような南国の冬の、暮れかけた空に枝をさし交わし、それなりに銀杏の古樹は美しかった。枝の間の空の色はあまりに美しく、私はくらくらとしてみていた。
 突然、戚夫人の姿を、あの、古代中国の呂太后の、戚夫人につくした所業の経緯を、私は想い出した。手足を斬りおとし、眼球をくりぬき、耳をそぎとり、オシになる薬を飲ませ、人間豚と名付けて便壷にとじこめ、ついに息の根をとめられた、という戚夫人の姿を。
(第一章「椿の海」「死旗」p.64)
 明るさと残酷さは隣合っている。対比を際立たせるためなのか、「突然」訪れる想念は、「突然」と文字にする当為によって「苦海浄土」のなかで再度定着される。対比を強調するためではない、とは言い切れない。画家たちがある種の配色にしめす執念と同質のセンテンスの流れが「突然」と書きながら、すこしも「突然」ではない、必然的な流れとしてあらわれでる。しかし「突然」という意識が石牟礼にはある。「突然」と文字にしているのだから。でも「突然」ではない。美しい「銀杏の古樹」と「空の色」に「くらくらとする」私は、想念のどこかに「戚夫人」と「水俣病患者」、「呂太后」と「新日窒水俣肥料株式会社」を重ねあわせずにはおれない、その「くらくら」を持っている。石牟礼は「美しさ」に「くらくら」したのではない。あるいはそう読んでもかまわないが、美しい銀杏が「それなり」という留保をもって語られているのは、続く「突然」を予想しているからだ。だから、南国の冬の「美しさ」、わたしの「くらくら」、「戚夫人」と「水俣病患者」、「呂太后」と「新日窒水俣肥料株式会社」、これらは一連の流れを形成する。しかし、やはりこの連続体に人間の残酷や悲惨さを挿入するのは「突然」のことなのだ。

 これは、果てしない堂々巡りではないのか。この堂々巡りを解決するには、やはりひとつの決意=使命が必要となる。

 これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられて水俣市立病院水俣病特別病棟を訪れた・・・
(第三章「ゆき女きき書き」「五月」p.124)

 石牟礼の「使命」とはいったいなんのか。「日本資本主義対無産漁民」の対立を生き抜くことではない。もちろん石牟礼は「水俣問題」に必然的に巻き込まれるだろうし、そこから抜け出る方途は「苦海浄土」にはないと言っていい。にもかかわらず、そのような「運動」、あるいは「水俣病」を報告すること、さらに水俣病をただ「見届ける」ことですら、石牟礼の使命とは言いがたい。石牟礼は確かに水俣病の死者たちの解剖に立ち会うし、立ち会うのが「使命」だと書きもするだろう。患者たちを病院に見舞うだけではなく、その死後までも見舞うのが「使命」だと自らに言い聞かせているにちがいないだろう。

 いかなる死といえども、ものいわぬ死者、あるいはその死体はすでに没個性的な資料である、とわたくしは想おうとしていた。死の瞬間から死者はオブジェに、自然に、土にかえるために、急速な営みをはじめているはずであった。病理学的解剖は、さらに死者にとって、その死が意志的に行なうひときわ苛烈な解体である。その解体に立ち会うことは、わたくしにとって水俣病の死者たちとの対話を試みるための儀式であり、死者たちの通路に一歩たちいることにほかならないのである。
 ちいさなみどり色の鉛筆と小さな手帳を私は後ろ手ににぎりしめていた。肋骨のま上から「恥骨上縁」まで切りわけられて解剖台におかれている女体は、そのあざやかな厚い切断面にゆたかな脂肪をたくわえていた。両脇にむきあって放心しているような乳房や、空へむかって漂いのぼるようにあふれ出ている小腸は、無心さの極をあらわしていた。肺臓は暗赤色をして重くたわたわととり出されるのである。彼女のすんなりとしている両肢は少しひらきぎみに、その番い目ははらりと白いがガーゼでおおわれているのである。にぎるともなく指をかろく握って、彼女は底知れぬ放意を、その執刀医たちにゆだねていた。内臓をとりだしてゆく腹腔の洞にいつの間にか沁み出すようにひっそりと血がたまり、白い上衣を着た執刀医のひとりはときどきそれを、とっ手のついたちいさな白いコップでしずかにすくい出すのだった。
 彼女の内臓は先生方によって入念に計量器にかけられたり、物さしを当てられたりしているようだった。医師たちのスリッパの音が、さらさらとセメントの解剖台のまわりの床をするのが、きこえていた。
 「ほらね、今のが心臓です」
 武内教授はわたくしの顔をじいっとそのような海の底にいて見てそういわれた。青々と大きく深い海がゆらめく。わたくしはまだ充分持ちこたえていたのである。
(第三章「ゆき女きき書き」「もう一ぺん人間に」p.154)

 しかし上の短い引用の中ですら、「わたくし」「私」と石牟礼の一人称は微妙に揺れ動き、いずれこの揺れが「聞き書き」の一人称に流れ込むのだが、この独特の「使命」は、「ほらね、今のが心臓です」と医師が説明をする様を書込むことで、ある種のユーモアによって、かろうじて冷静さを担保しようとする、そういうきわどい賭けを内包している。「わたくしはまだ充分もちこたえていたのである」それにしても、石牟礼はなにに、あるいは、なにを「充分もちこたえた」のか。説明はない。つづくパラグラフを探してもなにも書かれていない。

 ゴム手袋をしたひとりの先生が、片掌に彼女の心臓を抱え、メスを入れるところだった。わたくしは一部始終をじっと見ていた。彼女の心臓はその心室を切りひらかれたとき、つつましく最後の吐血をとげ、わたくしにどっと、なにかなつかしい悲傷のおもいがつきあげてきた。死とはなんと、かつて生きていた彼女の全生活の量に対して、つつましい営為であることか。
(第三章「ゆき女きき書き」「もう一ぺん人間に」p.154)
 ごく常識的に考えれば、解剖などに立ち会ったこともない人間が、はじめて見る解剖のショックをかろうじて「もちこたえている」、そういうふうに理解すべきだろう。しかし、石牟礼が「もちこたえている」解剖は「使命」によって要請されたものだ。しかもこの「使命」は解剖によって水俣病の原因をつきとめる、そういう「使命」ではない。それなら医師にまかせておけばいいし、それ以上のことができるはずもない。石牟礼が「もちこたえる」と書きながら、それを説明しえないのは、この「使命」が「苦海浄土」そのものにかかわるからだと言っていい。だから心理的には続くパラグラフが連続の記述として、石牟礼にとっては充分な説明になっていると感受されている。「死とはなんと、かつて生きていた彼女の全生活の量に対して、つつましい営為であることか。」この慨嘆。しかし、これは「もちこたえられた」ものの説明ではない。
 おそらく、この説明は「苦海浄土」をいくら読んでも得られないかもしれない。「苦海浄土」が、こういった、いくつもの空隙、非連続、説明にならない説明をかかえこんだまま進展するのは、「見るにたえない」水俣病の症状から死者までもその射程に含めようとするこの「使命」が、水俣病患者たちの体験そのもの、その死をも含めた体験たろうとするからである。
 「おとろしか。おもいだそうごたなか。・・・白浜の避病院へ入れられて。あそこに入れられればすぐ先に火葬場はあるし。避病院から先はもう娑婆じゃなか・・・」
(第一章「椿の海」「四十四号患者」p.41)
 ──大学病院の医学部はおとろしか。
 ふとかマナ板のあるとじゃもん。人間ば料(こさ)えるマナ板のあっとばい。
 そういう漁婦坂上ゆきの声。
(第三章「ゆき女きき書き」「もう一ぺん人間に」p.153)
 「なあ、わたしたちはいまから先は、どけ(どこに)往けばよかじゃろかい」
 「こんどは火葬場たい」
 「うんにゃ、その前に人間料理(こさえ)るまないたの上ばい」
 「うんにゃ、その前に精神病院ゆきよ」
 「一番はじめに火葬場の手前の避病院ゆきじゃったろ、それから熊大の学用患者じゃったろ、それから奇病病棟ゆきじゃったろ」
 「それから湯の児の(水俣郊外の湯治場)リハビリに」
(第七章「昭和四十三年」「水俣病対策市民会議」p.263)

 石牟礼が描く「水俣病」を誰よりもよく知っているのは、体験者である水俣病患者たちであり、その「先」にあるものを知っているのも患者たちだ。たとえ、人間的な一切の機能から見放されたとしても、そうなのだ。完全に荒廃した脳をもつ患者たち。むしろそうであればあるほど、知っているのは彼ら彼女らのほうなのだ。

 患者たちは、自分たちに表れている障害を、あの、ユーモアにさえ転じようとしている気配があるのだった。
(第一章「椿の海」「死旗」p.51)

 そしてユーモアを忘れないのも水俣病患者たちだ。明るさを忘れないのも、笑いを失わないのも「患者」たちだ。もっとも人間的な様相が非人間的な様相をまとう、という逆説をたどる作業を完遂する「使命」によってこそ、石牟礼は「解剖」にも立ち会わなければならない。
 石牟礼の「使命」はこれらの後をなぞることだと言える。これが「直視」の意味だ。ここにいたって初めて、冒頭の

 「だって、あのひとの心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。
と渡辺氏に語ったとされる石牟礼の真意が理解できるだろう。これは正確な意味で「わたくしの抽象世界」で行なわれる追=体験だ。だからフィクション=ノンフィクションという枠組みは自明のこととして廃棄されなければならない。なぜなら、フィクションは水俣病の真実をあらわしきれないからだ。キャラクタの設定や実際の場面の抽象化、暗示、指示、そういったものは水俣病患者たちの無数の障害のまえでは、単なる偽善にすぎない。水俣病患者を主人公としてその死に至るまでの内面や独白、思い、外部との葛藤、そういったものをフィクションで捉えきれるだろうか。それほどの想像力をだれが持ちえるというのだろう。脳の荒廃を、どんな脳が想像できるというのか。
 さらに、この記述はノンフィクションであることもできない。なぜなら、描写や報告、医学的分析、行政的なオペレーション、損害賠償、また権利主張、それらにまつわる闘争・・・こういったものをいくら累積させても死につつあり、いまも死を体験している患者たちにたどり着くはずがないからだ。ただ謝罪し忘却するためにだけノンフィクションは自らの報告をなしえる。いくら謝罪や補償を積み上げても忘却できないもの、それがこの死だからだ。
 しかし、石牟礼はこれらを情念には解消しないだろう。ただし、いくつもの情念をたわめこみはする。情念をたわめこまずに記述そのものが不可能だからだ。
 安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。
このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。
(第三章「ゆき女きき書き」「五月」p.125)
 「水俣病がそのようにまで羨ましかかいなぁあんたたちは。今すぐ替わってよ。すぐなるるばい、会社の廃液で。百トンあるちゅうよ、茶ワンで呑みやんすぐならるるよ。汲んできてやろか、会社から。替わってよ、すぐ。うちはそげんいうぞ。なれなれみんなあ、水俣病に」
(第七章「昭和四十三年」「水俣病対策市民会議」p.264)
「なれなれみんな、水俣病に」石牟礼はこの声を肯定しているわけでも、否定しているわけでもない。もちろん水俣病を題材に「苦海浄土」のようなものを書くこと自体が告発という心理的規制に彩られることはさけられない。しかしポイントになるのは「なれなれみんな、水俣病に」という呪詛ではなく、すでに水銀中毒にならずとも「水俣病」に感染してしまった現実、汎「水俣病」とでもいうべき事態のほうだ。
 漁民団の陳情を受け終わった国会派遣議員調査団は、このあとさらに水俣市立病院の二階会議室において、水俣市当局に、水俣病の発生と経過、およびこれに対して市当局がとった処置等につき種々の質問を発した。
 退役海軍中将あがりのわが水俣市四代目の市長中村止氏のこれに対する対応ぶりは、陽やけした頬をけずり、まなこおち窪ませている漁民たちや、まして、この会見のさなかにも、この二階会議室の隣の水俣病特別病棟内で、身体の自由を失い、押さえがたい全身痙攣のためベッドから転がり落ち、発語不能となり、咽喉を絞り唇を動かしても、末期に至るまでついに、人語を以って、その胸中を漏らすことかなわなかった人びとが、ま新しい病室の壁を爪でかきむしり、<犬吠えのように>おめき声を発していたそのこころを代弁するには、はなはだ心もとなかった。
 ・・・
 ・・・わが水俣市長は郷土軍人出身の出世頭の中将閣下、という気鋭の前歴にもかかわらず、気の毒にも老いじわみ、片欠けた内裏雛のように、いちだんとまた細まったかにみえるうなじをたてたまま、蕭々とした孤独の中にいるようであった。
水俣市長中村止氏はこのとき、被害民、もしくは水俣病患者たちが追いこまれていた状況と心情を、もっとも重層的に体現していたにちがいないのだ。・・・
 ・・・市長が坐っている椅子のあたりはぽっかり沈んだ深海のようだった。
(第二章「不知火海沿岸漁民」「昭和三十四年十一月二日」p.88)
 このような現実は手を変え品を変え現われることだろう。対立と無言、うなだれる責任者たち。「最大多数無権力細民」という用語にもかかわらず、というべきか、<犬吠えのような>おめき声こそが「真実」である以上は、真摯に「水俣病」に向き合うためには、この「深海」の孤独以外に方途があろうはずもない。
 そして、それらすべてを含めて「水俣病」が石牟礼の追=体験でありうるためには、「絶句」「飛躍」「切断」「非連続」そういった様相すらが記述そのもののなかで跡付けられなければならない。
 水俣市立病院水俣特別病棟X号室
 坂上ゆき 大正三年十二月一日生
 入院時所見
 三十年五月十日発病、手、口吻、口囲の痺れ感、震顫、言語障碍、言語は著名な断綴性蹉跌性を示す。歩行障碍、狂躁状態。骨格栄養ともに中等度、生来頑健にして著患を知らない。顔貌は無慾状であるが、絶えず、Atheotse様Chorea運動を繰り返し、視野の狭窄があり、正面は見えるが側面は見えない。知覚障碍として触覚、痛覚の鈍麻がある。

 三十年五月下旬、まことにおくればせに、はじめてわたくしが水俣病患者を一市民として見舞ったのは、坂上ゆき(三十七号患者、水俣市月ノ浦)と彼女の看護者であり夫である坂上茂平のいる病室であった。窓の外は見渡すかぎり幾重にもくるめいて、かげろうが立っていた。濃い精気を吐き放っている新緑の山々や、やわらかくくねって流れる水俣川や、磧や、熟れるまぎわの麦畑やまだ頭頂に花をつけている青いそら豆畑や、そのような景色を見渡せるここの二階の病棟の窓という窓からいっせいにかげろうがもえたち、五月の水俣は芳香の中の季節だった。
(第三章「ゆき女きき書き」「五月」p.120)
 端的に言えば、この対比。「五月」の芳香と「断綴性蹉跌性」。
 昭和四十三年五月三十日
 熊本大学医学部病理学武内忠男教授研究室。
 米盛久雄のちいさな小脳の切断面は、オルゴールのようなガラス槽の中に、海の中の植物のように無心にひらいていた。うすいセピア色の珊瑚の枝のような脳の断面にむきあっていると、重く動かぬ深海がひらけてくる。

 ヨネモリ例ノノウショケンハヨクコレデセイメイガタモテルトオモワレルホド荒廃シテイテ、ダイノウハンキュウハー大脳半球ハアタカモハチノス状ナイシ網状ヲテイシ、ジッシツハー実質ハホトンド吸収サレテイタ。小脳ハチョメイニ萎縮シ灰質ガキワメテ非薄ニナッテイタ。シカシ脳幹、セキズイハヒカクテキヨクタモタレテイタ。
 タダレイガイテキニ亜急性例経過ノヤマシタ例デミギガワレンズ核ガホトンド消失シテイタ。コノヨウニ本症ノケンキュウトトリ組ンダ初期ノボウケンレイー剖検例デレンズ核ノショウガイガツヨイ例ヲミタノデハジメマンガン中毒ヲユウリョスベキデアルトカンガエタガ、ソノゴノ剖検例デハカヨウナ症状ハ一例モナク、ゲンザイデハマンガン中毒ヲヒテイシテイル。

 ビョウリガクタケウチキョウジュノコトバ
 「ビョウリガクハ死カラシュッパツスルノデスヨ」

 病理学は死から出発するのですよ。
(第三章「ゆき女きき書き」「もう一ぺん人間に」p.153)

 書き込まれたカタカナと反復、行間、カッコ。この記述の意味は百万語を費やすよりも、声にだして読んでみればわかる。カタカナ表記を読むときのアクセントの取りにくさ、意味の平板な流れ、漢字があれば、視覚によって文脈とその流れを予想し、ことばをスムーズに頭に流し込むことができるのに、カタカナ表記はたどたどしくつぎに続くことばすら想定できずに、そう、水俣病患者たちの「言語障害」そのもののように、流れを断ち切ってしまう。しかし、こういった記述が「水俣病」を追=体験させるためのレトリックだと考えるべきではない。ただ、読み、声に出し、そこから湧き上がる想念を確かめるために、ただそのためだけに固有の「非連続」=行間が打ち立てられる。
 と同時にこれは声にだして読まれるべきものではない。声にカタカナ、ひらがな、漢字の区別があるはずもなく、「重く動かぬ深海」がひらけるところに声そのものがあるわけでもないのだから。

 「フィクティブなルポルタージュ」はついに解体してゆく。声なき声、文字なき文字、<犬吠え様>の叫びに。水俣病を告発し、チッソを糾弾するいろいろな文章、医学報告等々のなかで、この「苦海浄土」がひときわ特異であり、また真実をよりよく伝えているかに見えるのは、このような解体をも辞さない石牟礼の「使命」にあるといっていいだろう。おそらくこのようなことばの力は「苦海浄土」をひととおり読んだだけではわからない、というより、水俣病を知ろうと考えて読んでも見えてこず、またそれを告発したり、原因を究明したりするために読んでも、見えてこない、独特の<場>を形成している。しかし、この<場>が「苦海浄土」一編だけからでは見えにくい位相にあるのも確かだ。

(つづく)

(注)フィクティブなルポルタージュ
つぎの一節からの引用。

だが、『成熟と喪失』の疎外論的な論理構成が、後にはエコロジー問題として概括されることになる公害問題に対して十全に有効であったかというと、そこには疑問符を置かねばならないように思われる。確かに、石牟礼道子のフィクティブなルポルタージュである『苦界浄土』(一九六九)といった水俣病を象徴する文学作品については、本質としての人間的「自然」を毀損していく資本主義的文明の問題を、そこから読み取ることが可能であるし、多くの者はそう受け取ってきた。それは、石牟礼が六〇年安保のイデオローグの一人でもあった、谷川雁「サークル村」の出身であることにも規定されているだろう。『苦界浄土』は『成熟と喪失』と、その文脈を共有しており、それはアンダーグラウンド演劇の地平まで延びていると言いうる。
秀美「革命的な、あまりに革命的な」(2003)「第八章 小説から映画へのエコロジー的転回 3 ドキュメンタリー映画の諸問題」p.184)

2003年9月29日

(ほづみ・いっぺい……プログラマ、元Q-project副代表(winds-q開発者)。五六年生。連載論文に、「P2Pプログラミングへの招待 グヌーテラプロトコルとLimeWare」(「ジャヴァワールド」03年2月−7月)など。論文「NAMに関する暫定的メモ」を「重力03」に発表予定)