穂積一平/苦海と浄土のあいだ――石牟礼道子「苦海浄土」をめぐって(下)
「苦海浄土」が指し示す<場>は奇妙なバイブレーションに縁取られている。この「フィクティブなルポルタージュ」(スガ秀美)が石牟礼道子の処女作であってみれば、ここでなにがしか作家と呼ばれる者があらわれでたことは確かだろう。しかし、この作家は小説家、詩人、歌人、随筆家、ルポライター等々のどれもであって、またどれでもない。石牟礼が大宅壮一ノンフィクション賞を辞退したのも、ほんとうは「苦海浄土」が<ノンフィクション>として世に登録されてしまうことに抵抗があったからではないのか、と疑ってみたくなる。このことは、曖昧だとはいえそれほど小さなことではなく、某新人批評賞を受賞すれば「批評家」、某小説賞を受賞すれば「小説家」、某詩人賞を受賞すれば「詩人」という区分けは、無意識のうちに意外と大きな枠組みを読者に与えてしまう。批評や評論があっても、小説家の書く批評と、本職の評論家が書く評論は違うというふうにだ。
このとらえかえしも初期には「零細無産民」といった、「運動」のことばで語られていた。しかし、そのときから<古層>にはふたつの形象がつきまとって離れない。ひとつは、「漁師たちの栄耀・栄華」。
ここで想定されている「栄耀・栄華」は水俣病以前という時間軸を持つ。しかし、この水俣病以前にも、水俣は漁師たちの「夢見心地」の世界だけで構成されていたわけではないし、石牟礼も十分それは承知している。
この「植物的生存ゆえの花の盛り」、また「根源的な反応」は「凄まじいことになっている」脳によってだけ演出されうる。それを知っているがゆえに、石牟礼は「内なる脳」、根源的な反応の「根源」を調べざるをえない。つまり、さらなる<摘出>が求められる。
石牟礼はここに<神経>を見出し、その「痛覚」の根源を確かめる。「しっぽがなく」「まるで酒に酔ったような」存在。この存在はむきだしになった<神経>である。むきだしになって初めて「痛覚」を準備でき、準備された「痛覚」があらわれでる、その解体の過程でようやく<神経>としての存在が知られもする。これが解剖学的な事実であるということも銘記しなければならない。有機水銀が浸潤するプロセスにおいて立ち現われる<神経>は「しっぽがな」く、「三半規管との連絡も失われ」た、<神経>の不在だといってもいい。にもかかわらず、あるいは、ゆえにこそ、石牟礼はここに「生と死のながいてんまつ」を見、「根源的な反応」を見出そうとする。
年老いて気の違った老婆を「神経殿」(「椿の海の期」)と呼ぶように、慮外の者たち、共同体からはみ出した者たち、水俣病患者たち・・・「漂浪する」者たちをその意外性でもって等しく呼びならわす風習を、石牟礼はなにか懐かしく親しみをこめて語る。かれらもまた「人間にあらざるもの」であるがゆえに最も「人間的」な者たちであり、「神経殿」なのだ。
漂浪者が定住した街=死都において、水俣病患者たちは「神経殿」としての「漂浪」によって定住地を見出す。これは、都会の人間たちを水俣病患者=「神経殿」と重ねあわせつつ、そこからわずかにずれる<神経>のあり様を同定しようとする石牟礼の作為だと言っていい。患者たちが実感する都会の「我が家」であるチッソ本社は、都市が地方から流入する人口によって、アパート、マンション、一戸建て住宅といった新しい「我が家」として成立しはじめるときに、もうひとつの水俣漁村の、水俣病患者たちの家としてあらわれでる。高度成長、地方の崩壊、過疎、こういった用語で語られるだけでは十分ではない。ここで容赦なく進行する本源的蓄積(注)は、<神経>としての存在をかろうじて全的な存在として維持しようとする患者たちにおいてはじめて、抵抗に遭遇する。解体しつつあり、その解体しつつある<神経>という事実においてだけ全的である、そういう患者たちによって、チッソ本社は、近代化をこらしスマートな労働者や従業員たちに囲まれ、首都のただなかにあって化学技術の先端をゆく、そういう経済成長のすべてを享受しえるのは、患者たち以外には存在しえないという事実を突きつけられる。なぜならチッソ本社こそが患者たちの「我が家」であり、チッソのすべてをことごとく体験しているのが患者たちだからだ。そして石牟礼は、その存在が全的であり、その生活、生存そのものにおいて、ここにあらわれる<神経>こそが全的であるということを示すために、もうひとつの用語を用意しなければならない。非人(かんじん)、と。
「足首人間たち」は剥き出しにされた<神経>=水俣病患者の片割れだといっていい。かろうじて水俣病患者たちが自分たちが「非人(かんじん)」=ヒトにあらざるもの、だと知っているかぎりにおいて、足首人間の断片的で切り刻まれた存在から自由になることができる。かれら自身がその<神経>にいたるまで分解され解剖されたもの(水俣病はそのようにしてしか水俣病としての自律性を保てない)として存在している以上、東京の不思議は、彼ら自身の不思議でもあるからだ。しかし、ここで知るとは、物事を対象化し認識するという意味ではない。かれらの感じやすさ=「痛覚」によって、かろうじて水俣病患者たちは「足首人間たち」を笑いとばすことができるにすぎない。
ヒトにあらざるものたちには、「動物」であることも難しい。では、「動物」にもなりきれない<神経>はどこへ行ったのか。(注)
水俣病はどこへ行ったのかと問うこととほとんど同義である問い。しかし、この問いは「公害」はどこへ行ったのか、「エコロジー」はどこへ行ったのか、という問題系列とはまた別の位相にある。<神経>のゆくえを見出すには、それが解体の果てに解体のプロセスによってしか見出されないものだということを認識していなければならない。確かに<神経>の全的表現である「非人(かんじん)」は、ある種の行政的処理によって救済されうるかもしれない。しかし「しっぽのない」<神経>はやはり残りつづけるだろう。そのとき<神経>は文字通り剥き出しにされた、バラバラの細胞片として浮遊する以外に方途はなく、どこへ行くにしても、石牟礼が見出した「美」や<摘出>の手際とは無縁に、また「漂浪」という、ある場所から漂い出る、その場所も持たないままに、<神経>的な痙攣を繰り返すだけになるだろう。
3.ウェブ、あるいは<神経>回路
最後に、もうひとつの挿話を喚起しておかなければならない。インターネットの初期にサイバーパンクと呼ばれる小説家たちが好んで描いた、延髄にジャックを差し込まれてネットに接続する「人間」、このSF的イメージはコンピュータ・ネットワーク=機械と人間の相同を延々と描くサブカルチャの十八番であり、絶えることのないイメージの源泉ともなっている。サイバネティクスが機械=人間の相似性を解いたからというだけでは十分ではない。いっぽうでは情報革命と呼ばれるものが生産性を飛躍的に向上させ単純労働等々を廃棄し、流通経路を変革すると同時に、ネットに接続する人間たちは<古層>でたゆたう非人(かんじん)さながらに文字通り「神経」だけの存在となって、ピリピリと「漂浪」を繰り返す。
【英ファイナンシャル・タイムズ(FT)特約】米マイクロソフトはインターネットを使ったチャットルームが大量の広告を送りつける業者や小児性愛者らに悪用されているとして、欧州、中東、アジアで十月十四日から閉鎖することを決めた。
こういった新聞情報は、今日いたるところで目にすることができる。セキュリティという巨大なもうひとつの網の目がウェブを覆いつくすのも、そう遠い将来ではない。そのときさすらう<神経>たちはどこへ行くのだろうか。水俣病患者たちのように、システムを対象化し、自らが水俣病を引き受けるという決意をして、『本願の会』のようなものをつくるといったことはありえない。さすらう<神経>たちは、そもそもなにも引き受けないからこそネット上の<神経>回路を形成するパーツとして自らの存立を確保することができるからだ。ある種の情動の痕跡だけを残して、消耗し、摩滅し、やがてネットから消え去るひとつの声は、つぎつぎと現われでる泡沫のような新しい声と区別できないから、消滅も生成も確定できない。わずかばかりに目新しい(つまり、つねに陳腐な)レトリックがかろうじてその存在の特定を許すことがあっても、何十億ビットの情報にまぎれてしまえば、<神経>の痙攣を見分けることすらできない。いちばん賢明なのは、目の前のネットワークを切断すること、パソコンの電源を切ること、あるいは延髄に突き刺さったジャックを抜くことだが、それができないからこそ、ただ反応に自動発火する<神経>なのである。
<古層>に憩う漁師の栄華に、ネット上の快楽とその奔放な開放感を重ねあわせると同時に、<古層>によりそうように存在する「美しい肺臓をもった娘」の死、とネットキッズたちの剥き出しにされた<神経>を重ねあわせるとき、「苦海浄土」が「苦海」と「浄土」という古風な、それでいてなぜか説得的でもあるふたつのものの並存によってあらわそうとしているものが、よりいっそう鮮明になるだろう。
(注)「運動」とは距離をとりつつ・・・。
2003年9月29日
2.<神経>のゆくえ
もちろん石牟礼道子もひとりの作家として、いろいろな作品を書くだろう。しかし、「苦海浄土」から発するバイブレーションは、作家石牟礼のその後の作品の振幅を決定するかのようにあらわれでる。
ある作家が興味や才能の赴くままに、さまざまなジャンルを横断して作品をなす、というふうに石牟礼はことばをつむいでいるわけではない。そういう意味でなら石牟礼よりもはるかに豊かな作品群を残した作家を容易に思い浮かべることができるし、そういった著作集を書店の本棚に見つけることもできる。むしろ石牟礼は寡作でただ水俣と自身の出身地である対岸の天草に執拗にこだわっているだけだとも言える。たしかに、石牟礼も多くの作家たちが行なうように、そのときどきの求めや自己のテーマにしたがってエッセイをものにし、小説を書き、歌をうたう、ということをやっているにすぎないのだろう。しかし、たとえばある賞──フィリピンのマグサイサイ賞(一九七三)や紫式部賞(一九九三)──を受賞し、また別の賞──大宅壮一賞(一九六九)や熊日文学賞(一九六九)──は辞退する、といった石牟礼の自分の作品に対するふるまいは、なにかこの世に登録されようとして登録されない、生まれでようとして生まれでることを拒否する、まさに胎児性の水俣病患者たちがこの世に生まれでながら、この世からはみ出している、そういうあり様を反復しているように見える。もちろん賞に対する頑なさには別の理由がありうるし、別の理由のほうがほんとうのものであるだろう。しかし、この反復は作品に対するふるまいにとどまらず「苦海浄土」では、著作の構成そのものにおいて、小説家、随筆家、詩人、歌人、あるいは告発者、報告者といった<名辞>を拒絶するという深度をもってあらわれでる。石牟礼が「運動」(注)とは距離をとりつつ、非常に深く水俣病にコミットできた理由の一端はここにある。そういう意味では石牟礼は「専門家」であることを拒絶したのだともいえる。
「流民の都」(一九七三)エッセイ、とはいえ、ほとんど「苦海浄土」に重なり合う。
「椿の海の記」(一九七六)小説、自伝的な散文。
「西南役伝説」(一九八〇)聞き書き。
「あやとりの記」(一九八三)
「陽のかなしみ」(一九八六)
「花をたてまつる」(一九九〇)
「天湖」(一九九七)小説
「アニマの鳥」(一九九九)天草の乱を題材にした小説。
この拒絶された<名辞>と、それが振動する<場>は、およそ三〇年の歳月を隔てて、わたしを震撼させる。これは単にカッコよく「I am noman!」と叫んでいるわけではない(注)。石牟礼のことばは、その声を散乱させる<場>において、インターネット上の表層的な言語の氾濫さながらに、量子的な振幅をもっていて極限的に狭く(「わたくしの抽象世界」=「抽象の極点である主婦の座」=「ミクロの世界」)、また重層的なたわみを有して錯綜している。
おそらく、こういった比較は間違いでもあるだろう。ここに絶対的な被害=水俣病を想定するかぎりにおいて、石牟礼の著作は、コアをもつが、インターネット上のことばやイメージの奔流にはコアがなく、希釈化された「極限的な狭さ」が顔を覗かせているだけだからだ。しかし、同時にいまわたしがこの「苦海浄土」に惹かれるのは、歴史としての水俣病やエコロジー問題の原点として石牟礼の告発があるからだけではない。むしろ「苦海浄土」で形成された詩文、報告、聞き書き、こういった多様な言表の混在が、詩や小説の方法論的な意図をもって実現されたというよりも、あるがままに事実に即して表そうとすればするほど、そうなる以外にないという、水俣病を現在の比喩として、あるいは現在を汎水俣病として記述する機制を石牟礼が持っているからだと言える。
やがて、石牟礼はこの「機制」をふたたびフィクティブに<古層>としてとらえかえそうとするはずだ。
「わたしゃあん人ん心ば見たもんでなあ。それでもう、先は云わんじゃった」
「うん、読めたぞ俺にも。口とは別じゃった。云わぬが花ち思うた」
「心」次第ではうち明けたものをと、微笑みながら語り合っているのを聞いていると、これはかなり伝統的な、日本人の心の古層からでてくることばではないかと思う。水俣病の経過は緒方正人さんがいうように、これに対応して来た側のシステムに引きずられて、患者の方も形の上では、小システムとして呑みこまれつつあるが、その中のひとりひとりは、機構の中の人間の心を読み取っているのである。考えてみると、患者たちに対応して来たのは学歴社会だった。チッソにしろ熊本県行政や国の機関、あるいはマスコミたちにしろ、競争社会の中で何らかの地位を得るために、肉体労働を離れることから人生の出発をした人たちである。・・・不知火海沿岸漁民の大半は、兼業農家でもある。つまり変質してしまった日本人の中で、自然そのものとなって生きる人びとである。・・・
老齢化した患者は、文字どおり文盲の人びとが多く、新聞・雑誌はおろか、水俣市の広報課が出す市報も、市民会議のガリ刷りのニュースも、告発する会の機関紙も、読むことが出来ない。このことは、民度の低さや、地域の後進性などとは関係ない。生活の中に、文字などという小うるさいものが、要らなかったのである。舟と魚と、貝類がいれば、いや、海があれば、一生、夢見心地で、とろとろと暮してゆけた世界が、つい、昨日までのことのように、この海のほとりに事件発生以前にはあった。
最初水俣病が発生しましたとき、熊大の先生方が調査にいらしたのですが、漁師さんたちが魚を食べる量があんまりたくさんなので、水俣の漁師は貧しくて食べるものがなく、死魚つまり毒魚を大量に貧り食い、それで水俣病になったという論文がございますが、そうじゃなくて、水俣の魚がおいしくておいしくて、他の物を食べるのは漁師の恥辱だと思いこんでいるのです。私はそのことを” 漁師たちの栄耀、栄華”と表現してみたんですが、・・・
わたしの父と申しますのは大酒乱でございました。・・・喧嘩や刃傷沙汰や、いわば三面記事になるような生き方の、渦巻いているまっただ中で育ちましたわけです。おまけに祖母は気が狂っておりましたから、美しいよい日というのはめったにございません。近所の女郎屋では、十六、七の女郎さんが同じ年頃の少年に殺されましたり、やはり近所で女郎さんが、その相方とダイナマイト心中をして、血糊や肉片が壁に飛散しているのを群集の間から見ておりましたり・・・
飛散する血糊や肉片。おなじ年頃の少年に殺された女郎。特に後者は「ぽんた」の物語として繰り返しあらわれる。
「昔の青年たち」が集まっての話題の中で、ひときわ哀切をこめて、くり返し話されるのは、「ぽん太殺し」や「からゆき」の話である。ぽん太とは、私の幼い頃の家の先隣にあった「淫売宿」に、天草の島をまた外れた小さな島から売られてきて、十九になったばかりで、なじみの客の中学五年生に刺し殺された女郎衆のことである。
・・・
父のぼん太の話は、彼女の解剖に立ち会った話である。殺された若い女郎の、しかも解剖なんぞは、町では前代未聞、クジを作っても立ち合い手など出てこない。町内中の気丈者と見立てられ、立ち会わされた。
「非常に立派で、珍しいほど健康な肺じゃ」
と世良先生がいわれたという。世良先生とは態本大学の先生で、後に初期水俣病研究班の班長となられた方である。父がその話をするとき、男たちはいつも言葉少なくどよめいた。彼女が、海にめぐまれた小さな島の、健康な乙女であったことへの哀惜のおもいが、人生を終えようとしている「昔青年組」の男たちの胸をかげらせる。
その解剖をした人は世良博士といわれて・・・。その若い世良博士が執刀なさってポンタを解剖した時に、世良博士が「こういう美しい肺は初めて見た。なんと健康な肺じゃろうか、もったいなか、可哀想なことをした」とおっしゃった。・・・肺が美しかったというのがまだ十六歳、中学三年生か高校一年生ぐらいですよね。その顔、かたちじゃなくて肺が美しかったと言って父が泣きまして・・・。
この「ぽんた」は、数十年の歳月を経てなお石牟礼の心をとらえて離さない。自伝的な小説「椿の海の期」(1976)では比較的まとまった物語として描かれもする。「美しい肺臓」の物語が語られなければならないのは、「夢見心地で、とろとろと暮らしてゆけた」世界と「きれいな肺臓」がつねにひとつのものだからだ。水俣病以前に「水俣病」的徴候を見出すという石牟礼の志向は、<古層>へ向けて時間軸を辿りながら、つねに<古層>を時間軸の外へずらしていく結果を招く。この志向は単に公害としての水俣病と呼ばれるものに向けられただけではなく、解体された肉体、その臓器、内臓、脳切片において水俣病を見ようとする、解剖学的なある種の「欲望」──リビドーと呼ぶべきかもしれない──をもって構成されている。この時間軸のずらしは、腹を裂いてみれば百年前の人間も、いまの人間も同じだという、進化論的な時間軸と、同じ理由で「だからこそ」今度は逆につねにそこに現在が進出してくる永遠の停滞の交錯によって形成される。もっと言えば、天草の乱を題材にする(「アニマの鳥」)にしても、そこに素朴な農民、漁師たちと同時に、殉教というだけではなく、磔、串刺し、等々の残虐な刑罰が存在しなければならないし、その刑罰によってすら剥き出しにされた内臓は「立派で、珍しいほど健康」でなければならない。したがってこの<古層>はユートピアとは言いがたいものを孕んでいる。むしろ容赦のない残酷さがそもそもの<古層>を成立させる契機だとすら思われる。
人間の形態からもっとも遠い者、耳をそがれ鼻をそがれたキリシタン、同じく、摘出された肺臓、熊大の水俣病患者の脳片こそが「人間的」である、という逆説。あるいは胎児性水俣病患者たちの、人間にあらざるもの=天使的なもの、こそが<古層>にあったはずの人間だという石牟礼の確信。
こういった石牟礼もおそらく半分は信じているかもしれない事柄を「運命」「人間」「下層民」といった用語で語るのは容易い。しかし、実際には、これらは転倒や逆説というよりも、もっとピリピリとした神経に直接ふれるような鋭敏さを持っている。皮を剥がれた肌が外界に触れる、そういうときの痛覚こそが「人間的」であるというふうに。水俣病患者の姿形や天草や水俣に見出されるいにしえの農民、漁民たちの「痛覚」に思いをはせ想像を膨らませるとき、かれらの神経に、あるいは内臓に「美」が見出される。これを「悲劇」といいたい誘惑にかられるが、ここにはカタストロフィはなく一方的な悲惨さと解消のしようのない情動がうごめくばかりで、「美」が対立物のなかにあるのか、その対立そのものにあるのか、それも分明ではない。ただひとつ確実に言えることは、「美」は、造形や創作によって、描かれたり、作り上げられたりするものではなく、<摘出>されるものだということだ。石牟礼が見出したのは、「美しさ」といったものが、追想や現実、闘争や議論、葛藤、和解、生活、笑い、怒り、等々の人間たちの営為のアマルガムであるにはしても、そこから<摘出>されなければあらわれでようのないものだ、という事実だ。
だから、胎児性水俣病患者の静かでゆったりとした成長を記述するとき、石牟礼は果てしなく優しく繊細だ。これは、この分明でないもの、内の内なるもの、もっとも内密でだれもたどりつけない「痛覚」に接近しようとする方法のひとつ。ことばで、あるいは石牟礼のまなざしによって、「美」が<摘出>されるさまをあらわしている。
先程、土本さんがおっしゃいました松永久美子ちゃん、よくまあこれで生きていると思われていた美少女なんですが、彼女などは医学的にはどのようにいわれているかといいますと、植物みたいに生きている、風が吹けば髪の毛がゆれたり、瞬いたりするだけで反応を示さない植物的な生存だという風に定義されています。が、彼女だってよくよく見ていると、夜中に大声をあげて、何かわからないんだけれども、泣く。涙を流して泣くんです。一言もものが云えなくて、蝿がとまっても瞬きもしないような子が泣くんです。そして、お医者さんが検診にこられ、胸を開けて聴診器をあてたり、おしめを代える時とか、本当に、変形してしまった手足をぎゅうとちぢめて、とくにおむつを代えてもらうときには、全身が、魂がそれを知っていて差恥する、恥ずかしがるというような、微かな反応があるのです。たぶん彼女の脳も凄まじいことになっていると思うんですが、にもかかわらず、やっぱりそこには生命が微かであるゆえにふつうのいのちよりもさらに切実に生きていて、根源的な反応を示すのです。
一九七〇年五月はたしかに、水俣病事件そのものにも、わたくし達の〈運動〉にも、この列島の状況にも、そしてわたくし自身にも、ひとつの転機がきた。
横臥していた方向にむかつて、紐をむすんだようによじれ重ってしまった松永久美子の腰。頚だけはまだ、この世の有明をまさぐるがごとく動いてはいた。
歳月そのものが持つ明暗の中に置かれたまま、彼女は、ひとまわり、ひとまわり、見えざる解体をとげてゆく。彼女の体のまわりに落ちている、かすかな影をわたくしはみる。影というより、影の気配をしたしみである。たぶん、それは彼女の全身が吐く死液にちがいない。逢うたびに、ひとまわりずつ、久美子はたしかに、溶解していた。
思えば彼女の〈植物的生存〉にも、植物的生存ゆえにこそ花の盛りがあった。あれほど長く濃かったまつげが、まばらに抜けて落ち、みひらいたまま魂をとじこめている眸は、ぼってりと黄色い目やにをためている。完壁にまろやかに澄んでいる容貌のなかで、かすかな欠かんをみせ、それがなおさら愛らしかった乳歯にも、欠けおちた鍾乳洞のような垢が、堆積する。髪の生えぎわや、枕にむけてこぼれているだけの髪の様相にも、急速な変化があらわれる。
十九歳の娘の髪に触れうるのは歳月のみである。その歳月が、娘の髪を風蝕する。どのような老年の白髪よりも、彼女の髪は、生気を失いはじめていた。髪もまた、溶解をはじめているのである。
〈急性劇症型〉の有機水銀中毒症の痙攣とは、この世の闇か、あの世の闇への往復突進運動であり、そのことごとくは死に至ったのである。
・・・
熊本大学医学部武内忠男教授の、解剖標本をスライドで示しながらの証言がある。
植物的生存とされている松永久美子、いま二十歳。生きながら大脳皮質が海綿状になっている少女のみかけについて語るには、水俣病事件の全ぼうの裏うちをもってすればいいのであろうか。無防禦なものの聖性がしずかにこわされてゆくように、彼女は生きながら解体しつつある。自己の生命の解体に耐えうるもののみが、この少女の生と死のながいてんまつを語りうる。
「水俣病の原因物質(有機水銀)は主として大脳皮質および小脳皮質をおかすのです。成人の場合、おかされやすい部分があり、特に目立つのは大脳後頭葉の鳥距野の萎縮であります。皮質などは正常のものの十分の一ほどになり、神経細胞が失われてしまいます」
烏距野は視カを司る部分だから、水俣病特有の、そして患者の百パーセントにあらわれる視野狭窄、まるで竹筒でのぞいたように視野の周辺が見えなくなる症状をひきおこす。さらに重い症状では盲目になる。
「これは大脳皮質が全体としておかされ海綿状になっているひどい例です。こういう脳の症例になると、いわゆる植物的生存という状態になってしまいます」
「急性のものも慢性のものも、ここに紫色に染まっているような細胞、顆粒細胞と云いますが、それが全体にビッシリとあるはずなのが大量に脱落しているので、その部分は染まりません」
……染まりません。そうか、紫色に見えている部分よりむしろ孔のように何もうつっていない空白の部分にこそ重い意味があった。この空白が彼らに、甘えたようなゆっくりとひっぱったしゃべり方をさせ、もろもろの運動失調、水を飲んだりボタンをかけたり字を書いたり出来ない、まともに物事を出来なくさせたのだ。手がぶるぶる震える、特に何かしようとすると震えてしまうのも小脳や間脳がやられているから──
「このプルキシネ細胞、顆粒細胞の上にうすい層のようになっている細胞ですが、これもやがて脱落して行きます。また、それから伸びている神経繊維のあるものは、三半規管と連絡しているはずなのですが、それが失われているのです」
われわれの神経細胞にはしつぼがある(神経繊維)。長い細いしっぽがあって感覚を伝えるが、この人の神経細胞にはしつぼがない。まるで酒に酔ったような歩き方しか出来なく、起きあがれぬこともそのためなのか──
しかし、これ以上の<摘出>は病理学的な知見によっては達成されないだろう。因果の脈絡をたどることによっては、<神経>としての存在である、水俣病患者の全体像に至ることはありえない。そもそもが因果の脈絡を断ったところに胎児性患者に象徴される、不合理があらわれでるからである。また、これは実存でもなければ、それに伴う嘔吐でもない。単なる痙攣する<神経>にすぎない。
「苦海浄土」が指し示す<場>のバイブレーションがここから始まる。<神経>はただちに<古層>のなかで反響をくりかえす。石牟礼は<古層>の「栄耀・栄華」のなかからこの「しっぽのない」<神経>がさまよいで文字通り定住をこばみ、ふらふらとあらわれでるのを見つけてしまう。同時に、こういった剥き出しの<神経>は、かつてあったというだけではなく、むしろ水俣病患者と同じようにいたるところにいるということも見出してしまう。
ともあれ水俣からはるばるやってきたひとびとは、鳩を抱えている名も知らぬひとりの浮浪者に出遭った。・・・彼が鳩たちに囲まれてそこを動かないように。気のふれた人間や、白痴といわれる人間や、故郷では神経殿といわれ、「魂の飛んで漂浪(され)く」人間のたぐいに彼はぞくしていた。完璧に、生きながらこの世と断絶し、ゆくところのない人間として、たったひとりで彼はそこにいた。・・・彼は微笑んでいたが、その微笑はいのちうすく、死につつあった。
「高漂浪(たかされ)き」とは、狐がついたり、木の芽どきになると脳にうちあがるものたちが、わが村を飛び出てながい間、もどり道をうち忘れ、月夜の晩に舟を漕ぎ出したまんまどこそこの浦々の岩の陰や樹のかげに出没したり、舟霊さんとあそんでもどらぬことをいう。
浮浪者=「高漂浪(たかされ)き」=「神経殿」の連絡は、水俣病患者において、決して笑えないユーモラスな情景をもって結実する。
小道老人とともに江郷下一美青年が、一家の水俣病と自分の水俣病を背負って、チッソにこの日やって来たとき、はじめに体験したのは、チッソ従業員たちの「足払い」と「ゲンコツ」であった。
・・・
小学校にゆきはじめて間もなくこの病いにかかった。自分の村の中にある小学校へゆく道をすっかり忘れてしまい、
「母ちゃん、ガッコはどこけ?」
と毎日きく。
その母親も弟も、妹も全部同様の症状になり、ひとりひとりが天草の島々の上の宙天に吊り下げられて、そこからこの世の形相を逆さに視ているようなぐあいだったから、きかれた母親の方も、「こん子はまあ、なしてガッコにゆく道がうち忘れたろうか、おかしなもんじゃねえ」と思うには思ったのだが、教えたつもりがほんとに教えたのか、きいた方が忘れるのかいまだに判断がつきかねるところがある。
箱庭のようなちいさな波止の、石垣の縁にある家の少年は、神経の失調のため、あそびなれたその石垣の縁からさえも海の中に落ちこむような、なにしろ、この世がぐるりぐるりと逆さになってくるような日常だから、「ガッコ」にゆくどころか、わが家の畳の上を歩くにも、壁につかまってでなければ足が動かなかったのである。
しかし、それだけならば地方色豊かな旅情、あるいはせいぜい言っても近代以前のほのかな風景というべきものにすぎない。「苦海浄土」の第三部と名付けられた「天の魚」において、石牟礼は、東京チッソ本社にすわりこむ水俣病患者たちを追いながら、かれらの水俣からの「漂浪」が、首都東京において、つねに反転可能であること、つまり、定住する「漂浪者」=水俣病患者と「漂浪する」定住者=都会人たちという可逆的な図式を描いてみせる。
あの頃はチッソの中に厄介になっておって、不思議なことに、しんからあそこだけが、我が家のごたった。
なして、東京のチッソのあのずんべらぼうのほら穴のビルの中というものが、なつかしかろか。いよいよ今夜はチッソの中に泊めてもらうとなった晩に、まんざら他人の家に来たのでもないような気分になったのがやれ不思議。海の底の岩屋の割れ目にでもたどりついたような、灯をぼして歩きたいような気分じゃった。チッソの外の東京に散歩というものに出かけたり、靴や下着を買いに出かけたり東京の風呂に出かけたりして、なれぬ都にゆく昏れますと、言いあわせたようにチッソ本社の中のあの隅くらが恋しゅうして、誰かが必ず、
「ああ、はよ戻ろはよ戻ろ、おる家(げ)のわが家に。チッソの本社の社長室の前に。あそこより上のよかところのどこにあろうかい」
というて、戻ってゆきよった。
大道に座りかつねむる、ということは、故郷の認識によれば、非人(かんじん)になる、ということである。
この「非人」もかならずしもわかりやすいものではない。いくつもの姿がそこに重ねあわされて登場する。
「水俣病患者たちは、非人になりに、大阪くんだりまでゆくそうじゃ、水俣の業ば晒しに」
一昨年(1972年、昭和47年)十一月、大阪のチッソ株主総会に患者たちが巡礼姿でゆくということがきまったとき、水俣の市民たちはそのように言い、患者たちを背後から串刺しにした。それよりもさかのぼってすでに事件発生当初から、被害民たちの行末のごときものは予兆としてあったのである。
・・・
川本グループは、みずから非人となり、故郷やこの国への疫病神となって、二〇年の年月をかけ、はじめてチッソ東京本社にあらわれたのである。
翌朝と翌々朝、出来上がった(川本輝夫の傷害容疑の連行に対する)抗議文や続々とふえ続けている署名簿を持って、日高六郎、若槻菊枝、丸山邦男氏らと丸の内署および警視庁に出かけたが、白い幻視のかなたから近づいて、警視庁はわたくしの目の中を出たりはいったりした。けれどもわたくしは、たしかに肉質を持った”目”というものにそのとき変身した。
「川本さんが留置場に入れられるなら、わたしどんも全部、入れてもらわんば」
現地での家宅捜査を抗議しに出かけた自主交渉派残留組や、訴訟派患者らはそういった。
「この、非人どもが!」
と、水俣署員らはいい放ったという。
「ご詠歌をとなえてゆくことは、わが身も仏になってゆくことじゃ。機動隊が出てきてつかまえるちゅう話もあるが、死んだ霊を伴うて、わが身も仏になってゆくものを、つかまえるのなんのちゅうことはあるみゃ。もしそのようなことがあっても、おとろしゅうはなか。この前にも、わしゃひとりで修業しに出て、つまり非人(かんじん)をした身でけん。総会に行っても、このような姿になって来ても、まだでもわれわれをお救い下さいませぬか、とわしゃ云います」
彼女らは、我が振る鈴の美しさにみとれては、たださえ覚つかない手元が、るすになり、着てゆく白衣の裾の長さをどこまでするかなどについて話を外らし、師匠は、
石牟礼のいくつものことばがそうであるように、この用語「非人(かんじん)」も美しく残酷だといえる。「天の魚」の目次を見るだけでいい。
「なんちゅうおなごどもか、見合いにゆくむすめじゃあるまいし。五十も六十もなった婆あども
が、着てゆく着物の談議でソワソワして、魂の入らんもんじゃ──」
と嘆き、しばしば巡礼作法のけいこは流れさった。
「国のきめてくれた銭は貰わずにおって、訴訟派は面あてに、大阪まで非人しにゆくげなぞ」
そのような市氏の芦の中で、にわかの師匠も弟子たちも、心はいちずに、京大阪のみやこと、みやこの奥の高野山にむいていた。
「舟非人(ふなかんじん)」「花非人(はなかんじん)」「潮の日録」「供護者たち」・・・。石牟礼の語法はいつも古風でどこか懐かしく、ゆったりとしている。この古風な言い回しは、「聖なるもの」「乞食」「僧侶」「巡礼」、そういったもの「聖性」に接続しているかに見える。しかし、欺かれてはならない。この用語を「聖性」として理解してはならないだろう。石牟礼の<古層>に生きる「聖」たちのひとりひとりが、東京チッソ本社やその周辺に蘇るとしても、これは決して「聖なるもの」ではなく、むしろアウシュビッツ的な光景に彩られたものだ。
第一章 死都の雪
第二章 舟非人(ふなかんじん)
第三章 鳩
第四章 花非人(はなかんじん)
第五章 潮の日録
第六章 みやこに春はめぐれども
第七章 供護者たち
東京にはいろいろな不思議が立て続けに出現していた。もっとも最近の不思議は、ひとびとが、皇居周辺の<サンポというもの>を思いつく直前に起きていて、いや、起きたのではなくて東京駅前東京温泉から、それは仕入れられてきていた。それは温泉を詐称するただの銭湯──ひとびとは「ありゃウソ温泉じゃ」というのだったが──その温泉の湯気の中からあらわれる東京人間たちの足首のことだった。足首の不思議というのは、足首に結わえつけられているゴムヒモや、ゴムヒモにぶら下げられている番号カギの不思議である。水俣からやってきたひとびとは、東京人たちの顔や名前を見覚えるより先に、銭湯でカギ番号をつけた足首に出遭った。それはまさしくこの、罰せられた魔都を解くためのカギをぶらさげた足首人間として、顔も表情も持たず、ひとびとの行く手にあらわれたのである。足首人間たちは、湯気の中から、見えつ隠れつひとびとの前に出没していたのだった。
石牟礼の<古層>は、いくつもの入れ子になった人間たちをかかえつつ、相互に反響して、いつまでも、その本来の<古>に帰ることができない。たとえそれが人間的な生を超えて「動物」にまでいたったとしても、なお、回帰する場所を安んじることはない。
「もうなあ、こん次生まれてくるときはなあ、けだもん・・・・・・。けだもんに、生まれて来っとばい」
水俣病の絶対的な被害=身体そのものの簒奪は、ネット上ではより完璧に遂行されて身体はこなごなに分解されるので、身体があることそのものが忘れられてしまう。ネットキッズたちのヒロイックな身振り、自己陶酔的な言動、かつてならば、それらは一定の統覚のもとに「演じられる」人物、背景、固有名をもって登場することができた。しかし、さすらう<神経>たちは被害を誇張し、離合集散を繰り返し、新しい概念を創設することもなく、他人の言葉で語り他人が演じた役割を演じつづける。なぜならそこでは固有名は可能なかぎり希釈化され随時接続可能なパーツとなるにすぎないからだ。参照点という用語は、ここではほとんどなんの意味もなくなる。リンクは無数に可能で、あまりに容易く迷路を構成してしまうため、簡単に人間の認知能力を超えてしまうだろう。したがってここでは逆に「極限的な狭さ」だけが「狭さ」の意識をとりのこしたまま浮遊しだすことになる。チャット、掲示板、ホームページ等々、これらはいずれも「極限的に狭い」。さすらう<神経>たちには、水俣病患者たちがたもちつづけていた「痛覚」もなく、胎児性患者たちのゆっくりとした、おごそかな成長もない。石牟礼が見出したのは、まさ<神経>そのものとなっても演じつづけなければならない葛藤だと言えよう。そのかぎりにおいて<古層>はひとつの世界であって、フィクションでもなければノンフィクションでもない、固有の事実を指し示している。しかし、ネット上の、さすらう<神経>そのものには「痛覚」があるはずもなく、ただ電話回線上をなにかしら欲望めいたものがスパークするだけだ。
カギ番を足首につけた「足首人間」の様相は、いっそう隠微に展開される。ネットをさすらう<神経>たちはその匿名性という偽装によって、自らが首からさげている「番号」に気付くこともない。誇大な妄想をもってウェブに対峙しているかのような幻想をもちながら、シュレーバーのように妄想を全面的に展開することもない。脳の一部、極小部分を構成する<神経>が独自に妄想体系を編み出すはずもなく、電気信号となんらかわりのないことばが垂れ流されるにすぎない。
水俣病的状況はここにいたって全面的に反転したというべきだろう。訴訟派患者たちがチッソ本社で経営陣につきつけた水銀を飲まなかった(「天の魚」)がゆえに、かれら経営陣と同じくわたしたちも水俣病患者たちが保ちつづけていた「身体」を失いつつあるのではないか。もちろん自殺志願者たちのネットワークのようにときおりその身体が全面的に開示することがある。かれらは遅ればせながらに水銀を飲もうとしたのかもしれない。だが、こういったネットワーク上のパケット・フローは、完全になくなることはありえないとしても、いずれ制御され、排除され、整理されるだろう。
マイクロソフト、チャット閉鎖
米国、カナダ、日本については、個人情報を登録した顧客に限りサービスを継続する。
「潮の呼ぶ声」(2000)、「たとえひとりになっても」p.89。「九四年、水俣病患者らを中心に『本願の会』が発足した。・・・
水俣病患者たちは左翼イデオロギーに育てられ、その前衛を荷って闘ったのではなかった。」等。
(注)"I am noman, my name is noman"・・・。
エズラ・パウンド、「Cantos LXXIV」に引用された、オデュッセウスの言葉の引用からの引用。この詩人もまた、無数の引用と韜晦によって二重三重に自己の姿を隠している。
(注)本源的蓄積。
その現代的な意味については、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート「帝国」「第三部 生産の移行 3−2 規律的統治性 実質的包摂と世界市場」p.335-337を参照。
(注)<神経>はどこへ行ったのか。
チッソに座り込む水俣病患者たちの「皇居」へのサンポと、中上健次の小説「日輪の翼」の一節とを重ねてみればいい。
チッソの中の、ビルの迷路のような所から出てきて、ぽっかりと曇り日の冬の陽の差しこんでいるような広い新しい迷路の中へ、わたしたちは出て来たもののようであった。汚れてこわれそうになった「つっかけ」や、かかとを踏み潰したまんまの布の靴を、足のしびれている元漁師たちは、爪先でトポトポとけりやるようにして歩く。体からずり落ちそうなジャンパアや、よそゆき然とした背広を、まじめに着こんでいた。いい年をした働き盛りの漁師わらが、断食の後の足ならしだとはいえ、何しろ、都会風の「サンポ」というものをやらかしているのが、そもそも面映くてならないのである。
・・・
「ほほう、ここが陛下さまのおんなはるところばい」
いちばんおおきな体の金子義直が、そういうと佐藤武春がにっこり笑い、
「お前や、宮城、宮城ちいいよったで、土産話のやっと出来たねえ、直義くん」
と自分よりおおきな幼な友達を見上げていう。
「オバ、どうしたんない」とツヨシが声を掛けると、サンノオバは高い声で、「まァ聞いてくれ、わしらをいきなり、屑扱いする」と言い、皇居に行くので気持ちが昂ぶったのがありありと見て取れる口調で、熊野から巡礼に廻るように方々の神仏に祈って来たのに、一等心づもりにしてきた天子様のおられる東京でのっけから邪険に扱われると言う。作業員は、浮浪者に苦情を言う調子で物を言って、信仰心厚く天子様のおられる皇居を一目拝みに行くという心の昂りに満たされていた老婆らの神経に触れてしまったと後悔と困惑がありありと出た顔をしていた。ツヨシは苦笑した。・・・オカイサンを腹に収めて、腹が熱い茶で湿って、老婆らは突然、今まで眠っていた天子様と路地のかかわりを思い出す。特にサンノオバは、本宮の血を受けていたから、代々天子様の毒見役で、宮中に召されたのが明治の頃まであったのを知っていて、頭の中で畏れ多いと分かっているしそんなことは決してしないと思っていたのに、育つか育たないか分からなかった赤子のツヨシに豆や芋を口で噛んで擂りつぶして食べさせたように、天子様にも毒見役としてそうしてきた気がしているので、天子様の為ならいつでも矢盾になって犠牲をいとわない誇りがむくむくと湧き出してくる。
およそ10年の時間を隔てて同じことが起こる。路地、水俣、老婆、元漁師、毒見役、水銀、非人、屑扱い、そして東京、宮城・・・。これはもうひとつの<神経>の行き先かもしれない。