中島一夫/市川真人氏に反論する


 問題は単に個人にとどまらず、文芸の現在に広く関わることであり、また今後の「重力」のあり方が問われる問題でもあると思われるので、ここに「web重力」上の市川真人氏の一文に対して記しておきたい。
 市川氏はその中で、氏の作品に対する「合評会」での私の発言に次のように異を唱えている。「ただ、中島さんが語っていた『文芸誌だったら』という一節には、どうしても賛成できません。この文言は、対象を『文芸誌』の域内で測るように見せてしまうし、ひいては批評自体をも『文芸誌的』なものにしてしまうのでないでしょうか」。
 私の発言の意図は完全にすりかえられている。私の発言「文芸誌だったらボツでしょう」のポイントは、「文芸誌」云々にではなく「ボツ」というただ一点にある。「文芸誌だったら」とあえて断わったのは、私が「対象を『文芸誌』の域内で測」っているからではなく、「重力01」自体が巻頭座談会において、経済的にも精神的にも書き手が自立し得ない、あるいは自由たり得ない大手文芸誌的なあり方を批判していたからであり、ならば水準において文芸誌を凌駕していなければ批判そのものが空疎だろうと思われたからにすぎない。
 率直に述べる。市川氏は作品に対する「評価」を回避しているのではないか。それは先の一文で、平野啓一郎氏の作品に対する評価をあえて回避する(「けれど、ここで書きたいのは平野氏の作品への評価ではありません」)ところにもよく表れている。
 そもそも氏は「01」の座談会やレポートにおいて、作品に対する「評価」を市場の批評性(=商業的価値)のレベルにほぼ限定している。従って氏に対して西部忠氏が言っているように、そこでは書き手と読者を媒介する出版社(編集者)や批評家による「評価」(=芸術的価値)は必然的に欠落することになる(「01」P42〜44)。おそらくこの「欠落」は、もはや出版社や批評家が読者による「芸術的価値」の評価を「代表」し得ず、従って書き手と読者の「媒介」たり得ないという現状認識に基づいている。それならば、無媒介に産直的に、書き手と読者が直結し得る方法と実践を模索するほかない、というわけだ。
 むろん作品の「商業的価値」は無視出来ない。今や作品の「芸術的価値」と「商業的価値」との分裂は両極化しており、今後の文芸にとってこの分裂をいかに揚棄するかという問題は避けて通 れない(最近の笙野頼子氏と大塚英志氏の論争?はこの問題の変奏であろう)。そして今回の「重力編集会議」による合評会の試みとは、その一つの実践ではなかったか。すなわち「芸術的価値」をめぐる「評価=批評」を徹底的に行うことで、少しでも「商業的価値」の向上をはかっていこうとすること(もちろん後者は「交換価値」だから、本質的には「事後的」なものだ)。特に有名性(ビッグネーム)や広告効果 に頼らずに「商業的価値」を上げるには、相互批評による「芸術的価値」の向上がまずもって不可欠なのではないか。
 市川氏は先の一文で自作の方法論(小説の重組、システム)を語っている。もし自作の「価値」の承認を求めてそのようなことを述べているのなら、合評会に出席して主張すべきである。また、もし合評会に参加した「重力編集会議」の面 々や私の眼がいかにふしあなで、その「評価」は信用ならないものかということを示そうとして述べているのなら、例えば氏が編集する「早稲田文学」の新人賞に応募して、信頼できる選考委員の鑑識眼に自作をさらしてみてはどうか。
 私が言いたいのは、自作(むろんこれは小説に限らない)の「価値」の「評価」とはそれこそ「投瓶通 信」的なものであり、決して自らでは下せないものだというごく当たり前の事実にすぎない。「重力」という場がそうした相互的な批評の緊張を欠くならば、それは互いに甘やかしあう共同体に堕落する。読者の「評価」にさらされる前に、まずは互いが「評価」する。開かれる前にまずは徹底的に閉じる必要がある。鎌田哲哉氏の言う「多事争論」における徹底的な「党派性の承認」ということを、私はそのように理解する。