松本圭二/「合評会」を読んで


 「重力01」が、創作の部分が弱いという指摘は、そのままこの合評会にもはっきりと反映されているように思った。読んでいて、大杉さんや鎌田さん、西部さんのパートは、やっぱり盛り上がっている感じがするし、もっと話を続ければいいのにと思った。逆に創作批評のパートは、あんまり語ることがないのか投げやりな感じもした。そういう印象を与えるのは、井土さんを除き、僕も含めて創作を担当した連中が合評に参加していないせいかも知れない。しかしそれ自体がやっぱり「弱さ」だと思った。
  端的に言うと、私も可能さんも、市川さんも、追い込みが足りなかったのはあきらかだ。創作者なのだから、作品で勝負するしかないのは当たり前だとして、では本当にそれぞれが「作品で勝負するしかない場所」まで、自分自身を追い込んでいたのか。また同時に、主に鎌田さんからの激しい追い込みに曝されていたわけだが、本当にそこで批評家からの追い込まれを体験していたのか。
 
僕の印象では、可能さんは「作品勝負」という態度を、創作者の権利として主張し、超然と振る舞おうとしていたように思う。しかしそれは、鎌田さんの追い込みを躱すために演じられたものであって、だから彼の沈黙は少しも超然としたものではなく、むしろおどおどしたものにしか思えなかった。市川さんには、最初から「作品勝負」という態度はあり得なかったかも知れない。彼には、新たな流通 戦略の実験台として自分のテクストを提供しようというモチーフもあったから。だから鎌田さんの追い込みに対しても、沈黙を選んで超然と振る舞うことはできなかった。残念だったのは、鎌田さんの追い込みとマトモに衝突してそこで格闘しようにも、すでに時間が与えられていなかったことだろう。市川さんが早々にあの小説をMLに投稿しており、早い段階で鎌田さんからの攻撃を受けていれば、まだなんとかなり得たような気もするがどうか。
  しかし、たぶん、そんなことは大きな問題ではないのかも知れない。問題はやはり、人から指摘される前に、自分で自身を追い込めなかった所にあるだろう。それは創作者としては致命的なことかも知れない。自分で自分を追い込めない人間がどうして超然としていられるだろう。批評家の声も本当には響かないはずだ。
  なんて偉そうなことを言っているが、今言ったことは全部自分に跳ね返ってくる。顧みて思えば、「アストロノート」は散文的な崩壊の方へ詩をぶん投げてしまったものだ。その崩壊の仕方が面 白かろうと、そこに何らかの可能性が見出せようと、これは少なくとも、批評家鎌田からの追い込まれによって生まれた作品だと思っている。つまり、自分で追い込んだものとは言えない。いやそれなりに追い込んだつもりだと言ってしまいたいが、やっぱりそれは無理だろう。そうであるならこれを書いた事で新しい展望が開けているはずである。展望が開けるどころか、再び詩に帰って行けるのか、行くべきなのか、思い悩むばかりだ。
  井土紀州は、「距離の取り方」ということを合評で言っていた。私はその意味が、実はよく判らない。でも政治的な意味で言っているのではないのは判る。おそらく映画作家としての感覚なのだろう。対象との距離を測るというのは映画の基本なのだろう。映画にはできることが、私にはできなかった。単にキャラクターの問題かも知れない。でもそう言ってしまったらつまらない。おそらく、可能さんも市川さんも、距離を測り損ねたのだ。だけどいいじゃないか。距離が測れたからと言って、何が生まれるわけでもない。言葉は映画じゃないんだから。言葉は映像よりもより激しく人間の存在を吊るし上げる。距離を測る余裕なんてあってたまるかとも思う。そんなことは、市川さんや可能さんは、百も承知だったのかも知れないが。
  でも言っておきたいのは、沈黙なんてものは長続きしないし、しない方がいいのだ。自分で自分を沈黙へと追い込む馬鹿がどこにいるだろう。批評家の攻撃によって沈黙に追い込まれるなんてそれ以上に馬鹿だ。そう思いたい。ただし酔っ払ってクダを巻いている限りだめだ。それは沈黙以下だ。そんな気がする。それに書けばいいってものでもない。「戦争まで」というテキストは全然追い込めていない。このままではダメだ。少なくとも「重力02」には「アストロノート」以上のものを出さないといけない。合評を読んでその思いを強くした。もう遅いか。
  一番恐いのは、人が死ぬことだ。自分で自分を究極まで追い込んで行くと、へたすると死ぬ 。それに「自分で」と言っても、やっぱり何者かに追い込まれている感じが強くなってくる。カフカみたいな強迫観念は、海辺で消滅することはない。アルコールで消毒できるというのも嘘だ。一番の良薬は忘却だと思うが、そうなるとある種の図太さが必要になってくるのかも知れない。そうした図太さを売りにしている文筆芸人も多い。それは楽なんで、自分もそうした処世術を身につけたいと思わなくもないが、忘却を可能にする条件というのは脳の萎縮以外には適当に耳を塞ぐことぐらいしかあり得ないんで、そうした図太さは小狡さと同質のものだ。 鎌田哲哉はそれを許さない。忘れたふりをしたり、ヤバいと思ったら耳を塞ぐような人間を認めない。沈黙もみとめない。それは明らかに鎌田さん自身の繊細さ、神経症的な強迫観念の裏返しだと思った。でもそれだけなら青いで済む。でもそれで済まないのは、批評の言葉ごときで沈黙してしまうようなやつは最初から沈黙しとけ、死んでしまうようなやつは死んでしまえ、と言い切ってしまう図太さがあるからだ。井土さんは「鎌田は批評家になっていなかったら人殺しをしていただろう」と言ったことがあるが、その直感は正しいと思った。この破滅的な図太さ(言ったことはやっぱり自分に帰ってくるから)は、いったいどこから来るのか。使命感か。私はかつてそれを幼稚なヒロイズムと言ったがどうも違う気がする。
  病気と言ってしまえば簡単だ。私などはめんどくさいのですぐ病気と言ってしまう。人間のどうしようもない欲望に不可避的に触れてしまう、触れないと気が済まない性質、それを病気という言葉に還元してしまう。問題はそこなんだ。これは病気ではない。むしろ批評家としてのモラルの在り方にぶち当たっているわけで、その衝突面 から「一歩たりともわしの理性は後退しないぞ」というのが鎌田批評の真骨頂だ。ならば当然、延々と後退戦を強いられている現代詩というのは、批評の対象になってしかるべきだろう。現代詩はその後退戦にこそモラルの在り処を主張してきたジャンルだからだ。何がこの後退を強いたのか。そこで信じられ、共有されたモラルこそを疑ってかかるべきではないか、というのが今の現代詩の中心課題になっているはず。
  大澤さんは「松本さんが言うところの戦後詩が持っている恥ずかしさや自意識といったものを、一度明確にした方がいいと思う。一つのラインとして吉本隆明や鮎川信夫といった倫理を追究するタイプの詩があり、対照的に吉岡実や西脇順三郎のように美的な流れがある。その両方ともある極点で突き詰めていればいいのですが、松本さんの戦後詩の認識がどこに置かれているのかがよく分からない」と言っているけど、「モラル」と「美」を対置するという意識は私のなかには無い。「極点」というのもあんまり信じていない。吉岡実が「美」の極点で、鮎川信夫が「モラル」の極点というのは嘘だ。信じられるのは「倫理」にも「美」にも回収し得ない「賎しさ」だけだ。この「賎しさ」だけは免れようがないと思っている。戦後詩が恥ずかしいのではない。アウシュビッツ以後も、以前も、詩は野蛮だった。賎しかった。恥ずかしいものだった。そう思う。日本の現代詩がいかにこの「賎しさ」「恥ずかしさ」から免れ得る場所を「倫理」や「美」に求めて来たとしても、私は騙されないし、むしろ「恥ずかしさ」と向き合うことだけが確かなものとして感じられる。この「賎しさ」や「恥ずかしさ」の感覚がいったいどこから来るのか。そのことを考えることが、詩を可能にしているように思うから、「一度明確にする」ことなんてできない。明確にできるなら、詩は書かなくてもいいように思う。わからないけど。単に自意識過剰か。
  結局そういうことで、「01」での鎌田さんとの対立で私が一番ムカついたのは組版とかタイポグラフィーとかそいう問題を、単にマツモトの自意識に回収しようとしているように思われたからで、本当はそうではないのかも知れないが、そういうことを詩集を作るなかでもずっと言われ続けていたんで、「また来たか」という感じだった。私としてはそれはあくまで詩意識の問題なんで、そこを考えてくれと言いたかったのにうまく言えなかった。言えなかったどころか「病気」とか言って、「フェチ」とか言って、「美意識」の方に自分から持って行ってしまった感じがする。たぶん「自意識」に回収されるぐらいなら、「美意識」に還元してしまおうとした。そこが大間違いだった。そうじゃなくてあくまで「詩意識」なんだと。言えるか。難しいな。そんなに明確に区分できない。本当はぜんぶぐっちゃまぜの状態なのかも知れない。だから「恥ずかしい」のかも。「詩意識」なんてのも本当は嘘っぽい。「自意識」とか「美意識」から厳しく分離した「詩意識」なんてあり得るのか。やっぱりアリバイじゃないのか。そう思うと、鎌田批評はそういうことを突いていたはずだから、鋭いんだやっぱり。
  まあでもいいです。もともと書くことに自信とか確信とかこれっぽちもないんで、いろんな人の声に影響されまくりながらやっているんで、これでいい。