松本圭二/詩人の生きる道
(以下の文章は、「現代詩手帖」二月号の大岡信特集のために書いたものを、現時点で若干加筆訂正したものである。ボツになった原稿をこういう形で公表するのは問題アリだと思うが、重力のHPが停滞気味なので大澤氏の求めに応じることにした。およそ配慮というものが無く、やらしいほど挑発的な文章だと自分でも思うが、このようにしか書けなかった。たぶん掲載は無理だろうと思っていた。しかし若く勇敢な編集者はOKを出したのだった。ゲラの校正も終えた。ところが出張校正先から深夜に電話があって突如ボツとなった。そんなバカな話があるかと思い、頭に血がのぼって(しこたま飲んでもいたが)「ボツはボツでいいが、仕事としては完了しているはずだから原稿料よこせ」と私は怒鳴った。「何か送りますから」と若い編集者は言った。いまだに何も送って来ない。それっきり原稿の依頼も何も彼からは一切ない。まあいいよ。しょうがない。ただ、最後の最後になってボツというのは、最後の最後までこの若い編集者が粘ったということかも知れず、そうであるなら悪いことをしたなあと少しは思う)
大岡信の詩集は、『草府にて』を刊行当時に買った。また古本屋で『透視図法−夏のための』と『遊星の寝返りの下で』を買ったように思う。ずっと昔の話だ。買ったが、まともに読んだかどうか。今はもう自宅の本棚にはないので、三冊とも売ったか棄てたかしている。私は割合本に執着がある方なので、手放したということは、それを読んだ当時はあんまりピンと来なかったのだろうと思う。
この原稿を引き受けてから、自宅の本棚に大岡信の単行本が一冊もないことに気がついた。あるのは、「ユリイカ」や「現代詩手帖」のバックナンバーに載っている大岡信の発言だけだ。私が知る大岡信は詩の雑誌の座談会に頻繁に参加していた頃の(鮎川信夫、吉本隆明らとともに)大岡信でしかない。そういうのを私は90年頃にせっせと読んでいた。詩人の座談会ならバックナンバーで読む昔のそれの方が圧倒的に面白かった。しかし面白いのは主に鮎川信夫や吉本隆明の発言であり、大岡信の発言はどこか優等生的と言うか、学級委員長的で、博識なのはわかるがちっとも面白くなかった。たぶん、そういう印象のせいで、私は大岡信の詩や批評やエッセイにあんまり興味が持てなかったのだと思う。私は正直に言って大岡信が書いたものをほとんど真面目に読んでいない。
じゃあなぜこうした原稿を引き受けたのか。「若い詩人が大岡信を読んでいない」ということを編集者がちらっと言ったからだ。私などはまったくもってその一人である。じゃあ読んでいない立場から何かを書いてやろうと思った。大岡信に興味がない、ということが、単に不勉強を意味しているとも思えない。そこには何か理由があるはずで、その理由を掘り下げてみようと最初は思った。でも、別に大岡信だけを故意に読んでいないわけでもない。他にもまったく無視している詩人はいっぱいいる。
それに、大岡信を読まない理由はたぶん単純だ。大岡信が若手の詩人にあんまり興味を示していないと思われたからだ。自分が書いている詩が、大岡信に届くなんてとても考えられなかった。どう転んでも私が書く詩や散文を大岡信が読むことはないだろう。そう思うと、とりあえず大岡信はどうでもいいという感じになってしまった。私に少しでも現代詩を勉強しようという気があれば、それでも読んだと思うが、勉強する気もあんまりなかったので、結局読んでいない。でもこの頃はちょっと勉強しないとヤバイなあという気がしているので、今回はいい機会だと思って、いろいろと読んでみた。
以下、この数日間で読んだ本のリスト。
図書館で借りたもの/『続続・大岡信詩集』、『遊星の寝返りの下で』、『故郷の水へのメッセージ』、『光のとりで』、『世紀の変り目にしゃがみこんで』
本屋で買ったもの/『現代詩読本・大岡信』、『旅みやげ にしひがし』
他に『討議戦後詩』の大岡信についてのパートも読み直してみた。ちょうど年末から正月にかけて読んだので、いつも以上に酒浸りの読書である。
一番勉強になったのは、何と言っても『現代詩読本・大岡信』だ。この本を読んでいるうちに、もう充分じゃないかという気持ちになってきた。いろんな人が大岡信について書いている。ここに私などが新しく書き加えるようなことがあるとはとうてい思えない。今になってやっと勉強しているのだから。でも正直な感想を書いてみる。
『現代詩読本・大岡信』では、巻頭の谷川俊太郎と入沢康夫と三浦雅士による討議がとても解りやすく、かつ面白かった。誉めたたえるだけでなく、結構厳しいことも言っている。その厳しい発言は、私にはいちいち府に落ちる感じがした。
例えばこういうところ。
谷川「でもそのころ(60年代)の方が、彼は同時代というものにすごく関わっていたよね。今の居直り方にはちょっと同時代というものはもう求めんってところがあるでしょ?」
とか、
入沢「『草府』あたりから、ちょっと惰性的というか、さっき出た言葉を使えばプロの細工になったなと思う」
とか。
これは、80年代の半ばに大岡信とすれ違った、というか出会い損ねた私が持っている大岡信の現在に対するイメージそのもだと言ってもいい。もちろんお二人(谷川、入沢)とも、大岡信の長年に渡る丹念な読者であり、優れた才能や仕事を充分認めた上でそういうことを言っているわけで、苦言の部分にだけ勝手に頷かれるのは迷惑だろうが。
でもとにかく私はそういうイメージで大岡信を敬遠していたと言える。今回いろいろ勉強してみて、『現代詩読本・大岡信』に収められた「代表詩50選」を少し生真面目になって読んでみて、「やっぱ昔は凄かったんやなあ」という感慨を持ったし、80年代以降の詩もこうして出来の良いものをピックアップしてみると、悪くはない。また読んだ当時はピンと来なかった『透視図法−夏のための』や『遊星の寝返りの下で』も、なるほどそういう視点(詩が書けないという危機感のなかで書かれた、という)で読めば、確かに異様にピリピリしていたような気もしないではない。詩集としての追い込み方は全然足りないけれど。
今回一番勉強になったのは、「一篇の詩で勝負するというのはこういうことか」と、少しヒントみたいなものが得られたことだ。私などは端から一篇の詩で勝負するということを諦めて(というか小馬鹿に)しており、詩人は一冊の詩集でもって勝負すべきだと考えているので、かつてはそういうこと(一篇勝負)もあり得たのだと、つくづく溜め息をついた。「クリストファー・コロンブス」なんて素晴らしいじゃないか。「翼あれ 風 おおわが歌」のみずみずしいこと。何を今さらと言われるかも知れないが、今勉強しているところなんだからしょうがない。
でも影響は受けるだろうか。何篇かの詩からは「影響受けてもええかなあ」という気はしたが、それもやっぱり昔の詩だ。今はどうなんだ、となると、かなりキツイ。『光のとりで』『世紀の変り目にしゃがみ込んで』『旅みやげ にしひがし』と読んでみて、正直な印象は、なんか説教臭い年寄りの詩だという感じ。大岡信も70歳を越えた立派な年寄りなんだから、それはそれで等身大で正しいのかも知れない。でもそれだけじゃいかんだろうという気にもなる。学級委員長から葬儀委員長になったみたいだ。特に『旅みやげ にしひがし』は、2700円+税も出して買ってしまった詩集なので、腹が立った。これはほとんどエッセイ集だと思った。こんなん詩集じゃないよ。実質せいぜい1200円+税くらいの本だ。題名からして詩集じゃない。むかしのピリピリ感を期待する方が馬鹿だとも言えるが、このダラダラ感は何だ。これが「新しい詩の試み」なのか。大岡信は「あとがき」の冒頭で「詩というものの書き方がよく判らなくなった、何年も前から」と書いているが、今さらそんなこと言われたって困るよ。ただしこの居直り方はかなり凄い。凄いが、いいんだろうかこれで現代詩は。
大岡信は「うたう」ということがどういうことなのか判らなくなったと言う。これが大岡信の言葉でなければ普通のアルツである。大岡信の言葉だから、何か意味深長だ。続けて「この詩集はそういう状態を克服するために考えついたものだ」という。よう判らんがようするにリハビリなのだろう。そう言えば谷川俊太郎も新詩集『minimal』についてリハビリという言葉を使っていたように思う。リハビリなら自宅でこっそりしておけと思うが、リハビリまでもが作品として通用してしまうことに、この世代のスター詩人の不運があるのかも知れない。不運というのは、もちろんイヤミだ。
結局年寄りは強いということか。強いし、ずうずうしい。「おーい 元気か カナダの詩人」とか書いているしな。詩か、これ。「水はちゃんと飲め。/無理して体の鍛練はするな、泳ぐより、プールを歩け。/しかし適度に無理もしろ。時には徹夜も」なんてのは年寄り仲間に呼び掛けているんだろうが、これは詩か、ほんとに。やっぱり買って失敗した。損した。私は酒の飲み過ぎでいろいろ検査に引っ掛かり続けていて、職場の上司や妻からこんこんと説教されて国立医療センターに紹介状付きで送り込まれたことがあるが、待ち合い室は年寄りばかりで、三時間も待たされて、ようやく診察室に入ったら「おまえ若いくせに何しに来たんだ」といった対応だったから「ちゃんと診察せえよ!」と医者に怒鳴り散らしたことがある。今の現代詩もなんかそんな気分だ。
私にはやはり大岡信の詩の現在はたいへん貧しいように見えるが、見方を変えれば豊かにも見えるのだろう。その豊かさを、例えば高齢ゴルファーに例えるなら判るような気もする。マイペースでこつこつ息の短いショットを刻んで行く。渾身の一打というものはない。ショットもぶれる。しかし打数によってラウンドを整える技術はある。たまにはナイスショットもあるだろう。そういう豊かさ。
ただし一冊のラウンド(=詩集)として、どう読めばいいのか、私には判らない。「あとがき」を読めば、詩集ごとに、その一冊をつらぬく主題や問いがあることが記されている。方法も形式もある。それでも私には散漫な印象が残ってしまう。一つ一つの詩篇を、一冊の詩集に集約せんとする力学のようなものが希薄だ。それは大岡信が一冊の詩集ということを念頭において詩を書いていないからだろうと思う。ある時期に、様々な機会に、様々なメディアから依頼されて書いた詩を、単に一冊のなかに並べただけではないのか。
そこで見えてくるのは一人の老詩人の姿でしかない。「あとがき」の言葉は、ようするにそれらの詩が書かれた一時期の大岡自身の姿を、「こういうことだった」といった具合に整理しているようにも読める。もともと大岡信は「一篇勝負」の詩人だった(と私には思われた)のだから、ずっと同じ態度で詩集を造っていたのかも知れない。そんな気がする。それに、たぶん、それが普通なのだ。詩集というのは、もともとそういうものなのかも知れない。一冊の詩集で勝負するというのは、乱暴に言ってしまえば、「テクスト主義」みたいなもんだ。私なんかはそういう主義だ。それはそれで貧しいと思うが。
「うたう」ことを意識すればなおのこと、大岡信にとって「テクスト詩」なんて屁のようなものに思われたのではないか。もちろん「テクスト詩」のなかにも「うた」はある。そんなことは、大岡信は百も承知だろう。承知だが不寛容だ。詩が「テクスト」と呼ばれることを、頑固に突っ撥ねてきたようなところもあるのではないか。だから大岡信の現在は、私が思うに、「うた」からも「テクスト」からも「渾身の一篇」からも引き離された場所にあるように思う。でもどこかに回帰すればいいとは思えない。年寄りの回帰なんてたぶんもう読むに耐えないと思う。むしろ今がチャンスなのだ。老いの彼方、18番ホールの向こうの樹林の彼方へふらふらとさまよい出るべきだ。そこで狂って欲しい。その不自由な身体、不自由な脳、つまり老いに、言葉ごと身悶えて欲しい。アルツ化していく言葉の、過激な崩落こそが読みたい。まあこういうのを「ないものねだり」というのかも知れないが。