大杉重男/無作為の作為について―浅田氏への反論


 二月十日に「web重力」に掲載された浅田彰氏の「「投壜通信」について」は、もともと「重力」編集会議宛に私信としてメールされたものを、浅田氏の許可を得て転載したものである。その際浅田氏からは「大杉重男氏が反論を書かれるのもご自由です」との言葉も添えられていたが、私はちょうど「重力」に載せるための原稿の手直しにかかっていて、その時は書く気が起きなかった。今とりあえず私の分の原稿の校正も大体済んだので、浅田氏の言葉に甘えて、反論を少し書いて置きたい。
 まず(1)についてだが、私は何の作為(営業努力)もなしに純粋な「投壜通信」によって宛先に届いたものがあるとは信じない。投壜通 信をすると言うことと、実際に投壜通信をすることは別問題である。あるのは無作為の作為(作為がないふりをした作為)と作為的な作為(作為であることを明言する作為)の違いだけではないか。一九八○年代において、人は自分が偶然の幸運によって「新人類」や「若者たちの神々」に選ばれたと信じることができたかもしれない。しかしその無作為には常に営業努力が働いていたはずであり、それを見ないふりをすることを可能にしていたのは、月並だがバブル経済という下部構造であって、そのような経済的条件がなくなった現在、無作為の態度を取ることは、単に仏教的な無常観、日本的ジネンへの回帰(ポストモダニズムとはそういうものなのかもしれないが)に過ぎない。もちろん「「営業」を否定はしないものの、そんなことに過度に力を注ぐ必要はないのではないか」と言っているように、浅田氏は作為そのものを否定しているのではなく、作為することにフェティッシュに執着することを批判していると思われるが、私は「重力」が過度に「営業」をしているとは全く思わない。むしろ私個人はほとんど営業して来なかったし、そのことは去年シンポジウムでの私の投げやりな態度を、浅田氏自身(おそらく)あきれて見ておられた通 りである。この点では私は「重力」の他の参加者にいつも申し訳なく思っている。私はそれほど潔癖な人間ではなく、怠惰で、営業など大嫌いで、面 倒なことはすべて編集者に任せて逃げ出したいといつも思っているし、自分の書きたいことが書ける場所があればどこででも書きたい。しかしそのような場所が崩壊している以上、当座は「重力」をやるしかない(とはいえ03以降も参加するかどうかはこれから決めるつもりだが)ということに過ぎない。浅田氏の真意は、むしろもっとうまく賢く「営業」をしろと言うことなのだろうが、それこそ才能とキャラクターの問題であり、人は自分の天命に従うしかない。その意味では私は常に「投壜通 信」しかして来なかった。東浩紀氏に会うたびに(というか去年たまたま何年かぶりに会っただけだが)批判されるのもその点であるが、私は私自身の考える投壜通 信しかするつもりはない。そしてそれは「重力」的な「営業」と矛盾しない。なぜなら「重力」的な「営業」は、作品を売れそうなものに妥協して作り変えることなのではなく、売れそうにないものを売ること(ただし決して詐欺や押し売りに陥ることなく)、つまり不可能な営業だからだ。もちろんこれは私だけの見方で、他の「重力」参加者がどう考えているかは知らない。
 (2)についての反論は、(1)についての反論の別の言葉による反復となる。自然淘汰の結果 残った芸術はやはり一番優れているのであり、経験上埋もれた作品の人為的な発掘が新しい価値の地平を開いたためしはないという浅田氏の芸術的ダーウィニズムは、固有名の問題を排除している。たとえば、クラシックを例に出すのは釈迦に説法のそしりを免れないが、「ハイドンのセレナード」という有名な曲は、最近それがハイドンの作品でないことが分かり、その結果 あまり聞かれなくなっている。曲自体は優れた音楽であるが、私自身それがハイドンの作品でないと思うとあまり聞く気にならない。しかしやはりハイドンの真作だったと万一分かったら、また聞くかもしれない。あるいはブルックナーの交響曲の初演当時に演奏された他人の手が入った改訂版は、私は(音楽理論はほとんど知らない)聞いて必ずしも悪くないと思うが、現在ではそれがブルックナーの真意を伝えないという理由でほとんど聞かれない。同様のことは芸術のあらゆる領域であるはずである。自然淘汰は決して自然に無作為に行われるのではなく、「批評」の力によって特定の固有名の磁場に作品群が吸い寄せられることによって行われる。私は別 に自分の書いたものがどうなるかに関心はないが、このような作品と固有名との関係について興味がある。少なくとも「これまでの価値評価の全面 的転換を強いるような事件」は、自然に起きるのではなく、人為的に起こされるのであり、それは待っていても決して来ない。「オリジナル」楽器演奏による「リヴィジョニズム」は、ベートーヴェンやモーツァルトから確実にオーラを剥ぎ取った。それは決して「これまでの価値評価の全面 的転換」ではないが、部分的転換にはなりうる。私は「事件」と呼ぶべきものはそのようなマイナーチェンジの散文的な積み重ねの中にしかないと思う。浅田氏はすべてか無かにしか興味がないようだが、それは「カラゴコロ」を否定して「ヤマトゴコロ」に就く本居宣長的ニヒリズムの現代版に帰着することにしかならないのではないか。