西部忠/シエナ通信──「重力」合評会によせて


 シエナには中世がそっくりそのまま残っている。城壁に囲まれた中心街は建物や道がすべて石か煉瓦でできていて、その全体が世界遺産である。ゴチック様式で豪奢な大聖堂(ドゥーモ)は一三世紀半ばに、一〇〇メートルを超すマンジャの塔を配した、同じくゴチック様式だが優美な市庁舎は一四世紀初めに、それぞれ完成している。世界一美しい(?)ことになっている擂り鉢状のカンポ広場は「シエナ色」と呼ばれる薄い赤褐色の煉瓦で舗装され、その周囲の建物も同じ色で被われている。
 でも、この数ヶ月で私の心に深く刻まれたのは、このシエナ色ではない。平日は、インターネットでの電子メールのやり取りにうんざりし、疲れ切った頭と体で大学からの薄暗い街路を歩いて帰る──その時に繰り返し見た、浸食されたり、へこんだりしている石灰岩の黒ずんだ色だ。数百年そこに存在する石たちだけが、この都市の暗く凄惨な過去の歴史をすべてありのままに記憶している。住民の半数以上が死んだ黒死病や宿敵フィレンツェとの度重なる戦いの中で、街は何度も火に包まれ、石も黒焦げに焼かれた。人は何度も死に、石だけが残る。ここには、汚れを浄化してくれる自然がない。土も緑も川も。曲がりくねり迷路のように入り組んだ街路を持つこの自治都市が、いかに人工的な石=意志により支えられてきたのか。日本に欠けているのはこれだ、そんなことを何度も思った。
 私はここでQの自律を勝ち取るためにMLで戦い、時間と精神の多くを費やした。タバコを買う時と秘書にお願いする時にはイタリア語、同僚の経済学者と話す時には英語を使う。しかし、電子メールという、あまりに便利な道具のせいで日本語に浸食され、意識も生活も全て地球の裏側に吸い取られてしまった。これも一種の現代病なのだろう。物理的にはイタリアにいるのに、精神的には日本にいた、いや、Qにいたというべきか。これはまったく不可思議な経験だったが、Qのようなネット上のヴァーチャル・コミュニティ通 貨の現実構成力を逆に感じさせられたともいえるかもしれない。



 QハイブMLやQユーザーMLではこの間、旧約聖書の世界がものの見事に再現された。貨幣は「信」の構造に基づくから、ある種の宗教性を帯びる。資本主義はユダヤ教的だ。地域通 貨は、コミュニティと参加者への二重の信頼により成立するものであるかぎり、そこには宗教とは異なる別 の「信」の構造がある。しかし、今回見たのは、NAMがまさに「原理」教や柄谷教になってしまったプロセスだ。渡航前に私はQをめぐるある事件をきっかけにNAMを退会したので、なぜNAMが解散したのかは知らない。しかし、NAMの解散がその末期における質的な変容と無関係であるはずがない。
 QのMLのすぐ隣のメールボックスに別の地域通貨のMLがある。和気藹々とした牧歌的な世界だ。「重力」のMLも疲れた時にたまに読んだ。全く理不尽で野蛮な経験を強いられた人間から見ると、そこはなんと平和で争いのないパラダイスに見えたことか。鎌田さんは、「重力」を異質な他者たちの多事争論の場としたいと言ったが、私には、小説や評論だけでなく映画や現代詩などマイナー・カルチャーが仲良く集う文芸村に見えた。私は、松本さんと同じく、「六八年革命」の「革命」という言葉にやはり抵抗がある。それで何かが大きく変わったのだろうか。それが、未来の展望を指し示しているのだろうか。確かに、マイナー・ポリティックス化が進行した。しかし、それは、むしろ「六八年」が「革命」ではなく「敗北」であり、その後のプロセスが「撤退」であったと考えられないのだろうか。確かに、地域通 貨でラーメンは食えない。けれど、「六八年革命」こそ今や『プロジェクトX』になっていると思う。これに関する数多の著作が書かれ、雑誌特集が組まれ、映画が撮られている。こうした商品を売った貨幣でラーメンが食えることの方を疑ってみるべきではないか。



  「重力」は「経済的自立は精神的自立の必要条件である」という命題を掲げて出発した。この命題は、「物質が精神を規定する」「経済的土台が上部構造を規定する」というような唯物論的な認識に基づいているかのように見える。でも、これは十分に唯物論的な認識ではない。そのことは、この命題が、その逆、すなわち「経済的従属は精神的従属の十分条件である」が真であることを主張していることを考えてみるとわかる。
 経済的自立という時、それはおそらく二つの意味で使われている。雑誌の経済的自立と書き手の経済的自立。前者は、雑誌が毎号ある程度売れ、それが採算ベースに乗り継続していけることだろうし、後者は、書き手の作品が市場で商品として立派に通 用するようになり、個々が立派な独立小生産者として生活していけるということなんだろう。だけど、書き手の経済的自立をいうなら、個々の書き手がそこそこ有名になり、小なる「固有名」として貨幣のように流通 するようになる方がずっと手っ取り早い。雑誌の経済的自立についても同じことが言える。
 もちろん、「重力」は、既存の「文壇」や「映画界」で、つまり既存の市場で、個々の書き手の作品が有名になって売れればいいという考えの基底にある「固有名の思想」を拒絶しようと決意した。だが、それがいま果 たされないのは仕方がないとしても、はたして試みられているのか。
 ひとたび確立された貨幣が流通するためには、貨幣の身体が黄金のようにそれ自身価値を持つ必要はない。紙でも電気信号でも約束でも、「記号」としてただ人々に受け入れられればいい。同じく、作品も人気市場で支配的地位 を占めればいい。ある作品の内容は関係なく、作者名である固有名のみが重要になる。つまり、「固有名の思想」とは「現代貨幣の思想」でもある。現存の文芸市場を見てみると、大なるいくつかの固有名を頂点として、それに数多くの中小の固有名がピラミッド型の階層を形成し、後者が前者に依存し寄生することで市場が成立している。個々の参加者が独立生産者になるといっても、実際には、固有名をめぐる競争を通 じて「階層的ブランド市場」のいずれかのレベルに参入するだけではないか。ならば、それらは単に大なる固有名の派生マーケットをニッチとして与えられているだけだ。その与えられた場所に収まったことで食えるようになったのなら、それがたとえ先の意味での経済的自立であったとしても、精神的自立にはならないだろう。
 このような市場構造の中では、もはや経済的従属と精神的従属は一体となっており、実際には分離できない。一方は他方にとって、互いの条件となる。結局、経済的自立と精神的自立は一方的な因果 関係を形成しているのではなく、双方向的な自己強化関係にある。ゆえに、「重力」のスローガンは「経済的自立は精神的的自立の必要条件である」ではなく、「経済的自立と精神的自立を同時に達成すること」と改めるべきだ、といまは思う。
 正直に言えば、いまの「重力」のどこが新しいのかわからない。これはけなして言っているんじゃない。自分もまた参加していることを前提に問いかけている疑問だ。「みんなに読んでもらえる場がほしい」なんて、何だかそこそこ売れるという意味での経済的自立を求めていやしないか。それは、まやかしの精神的自立をもたらさないか。それに、「階層的ブランド市場」の構造自体に手を付けないで、いくら固有名批判を繰り返しても、それは特定の固有名への排撃にしかならないし、それ自体が、新興勢力による新たな固有名獲得のための下克上だと疑われても仕方ないのではないか。これは、ある固有な貨幣(例えば、ドル)を否定して別 の固有の貨幣(例えば、ユーロ)を肯定することと、どこが違うのか。「重力」が既存の固有名(柄谷行人や浅田彰、あるいは『批評空間』)と戦うだけでは、それを取り上げる所作そのものが固有名(反固有名としての固有名)を強化する。特に、「文壇」のような、少数のプレーヤー間の競争にもとづく、ある意味とても閉鎖的な市場の場合にはそうだ。大杉さんは、「2ちゃんねる」のような匿名的な場ではだれもが知っていて受容されやすい「固有名」がことさら流通 し、それが自己増殖していくと言っていた。けれど、これは、「2ちゃんねる」が匿名化された現代資本主義的市場のいびつな反映にすぎないということだ。だから、本当に固有名を揚棄したいならば、現代資本主義的市場を揚棄しなければならないということにならないか。疑問というのは、このようなことだ。
 Qは、貨幣や私的所有の廃棄ではなくて、それらを揚棄することを目的としている。貨幣や私的所有は無くなるのではなく、姿を変えて残る。固有名を単に否定したり廃棄するのではなくて、無名性を通 じて個体性を回復すること、私的所有の場合も、協同所有ないし無所有を通じた個体所有を回復することが目指すべきことだ。ここでは、特定の固有名ではなく、固有名を生成・維持する「構造」と「関係」が問題となる。多分、合評会でみんなが少しずつ別 の言葉で言おうとしていたのも同じことなのかもしれないが。



 問題は、これがいかにして可能かという戦略だ。まず、「階層的ブランド市場」の構造を変える必要がある。それが、受賞制度、閉鎖的文壇、取次書籍流通 などの非市場的制度に支えられているとすれば、それらは打破すべきだ。それと、「雑誌」の意味を変えなければならない。誰か特定の固有名が付着する雑誌でも、ある特定の固有名を持つ雑誌へのアンチでもないような、無名的な協同事業としての雑誌。これらはいずれも、雑誌の経済的自立と書き手の経済的自立によっては達成できない。すでに述べたように、それらは経済的従属であり、それと同時に精神的従属だからだ。
 なぜこんなことを考えたのか。NAMが解散するそうだが、柄谷氏の固有性だけはそのまま保存されてしまっている。それは、彼が『原理』を自己の私有物にしてしまったこと、そのことに誰も異を唱えなかったことに端的に現れている。「個人に戻って自由連想をし、自由連合(Free Association)を作る」など、彼自身が一年前に真っ向から否定していた考えだった。個人的なルサンチマンからQを否定したと思ったら、今度は、NAMも否定してしまった。彼がそういわざるを得なかったのは、NAMを個人に還元することで、ただ自己の固有性を温存するためではないか。しかし、NAMが求めるべきだったのは、柄谷氏の固有性を揚棄して、アソシエーションのなかでの各個人が個体としての自律性、固有性を回復すること、それをまさに無名性の協同事業にすることでなければならなかった。そのチャンスはあった。だが、それができなかったのは、個人が経済的にではなくて、むしろ精神的に自立できていないからだと思える。私には、この一連の経緯から、遅すぎたとはいえ、かなり多くの(もちろん、すべてではない)NAM会員にとってNAMとはいったい何だったのかがはっきりわかった。NAMは、柄谷氏の固有名や「NAM原理」(協同執筆物だったのでは?)への同一化と帰依を核とするものであり、固有名の構造への批判がなかったのだ。多くの人が抱いていた、そして、私も予感していた危惧は現実のものとなった。
 もちろん、精神的自立と経済的自立を同時に求める運動であるQも、参加者に精神的自立がなければ、経済的自立は覚束ないし、下手をすると、精神的共同体に堕する危険がある。Qに参加してからQでは食えないとQの管理運営母体を非難する人は、まず精神的に自立すべきなのだ。だって、そんなことは初めからわかりきったことだから。食えるようになるには、経済的に自立するには、参加者が協同で何をすべきかと考えなくてはすべては不毛だ。何もしなければ何も起こらない。それをだれかのせいにし始めれば、Qは阿Qになる。だから、大杉さんがQと阿Qは紙一重だと言った時、私は驚かなかった。そのことは百も承知していたから。しかし、それは「重力」も同じだろう。重力と無重力は紙一重だ。精神的自立は経済的自立の後に戦い取ればいいと思っているならば、すぐにそこそこ雑誌が売れればいいとか、自分の作品が売れればいいというような経済的自立に陥るにちがいない。それは、固有名の構造の再生産にすぎない。固有名を揚棄して無名性を獲得するとは、経済的自立=精神的自立を同時達成することである。それは非常に困難な事業になる。そのためには、単に資本制企業を協同組合に変えたり、市場を共同体に変えるだけでもだめだ。市場を廃棄して、計画か共同体が残るのだとすると、それは前者の場合、固有性を強化して独裁的になり、後者の場合、固有性を廃棄してムラ的になる。固有名の流通 と現代貨幣の流通は等価である。固有名を成立させるのは、現代貨幣であり、それが創り出す市場だ。貨幣と市場を変えることなくして、固有名を揚棄することはできない。市場と貨幣を変えると同時に、所有と組織を変えること、それが意味するのが精神的自立と経済自立の同時達成である。もちろん、こんなことを「重力」が今すぐ達成しようとしなくていい。でも、考えておく必要はあると思う。



 私が、オーウェンにこだわったのは、別に「Qプロジェクト」を「プロジェクトX」として売り込みたいからではなかった。精神的自立と経済的自立を同時に達成しうるような自律的な個人のあり方を「社会企業家」として考え、具体的な一類型としてオーウェンを描いてみたかった。だから、彼のいろんな側面 をいささか恣意的に捨象することになったのは確かだ。
 沖さんにまず言っておくと、僕がいわゆるマルクス経済学と近代経済学の「間」で仕事をしているからといって、マルクス派からは扱いにくいとか、あまり構えないでほしいな。まあ、両方の学的共同体からいつも毛嫌いされるのには慣れているけれども。資本(無限の価値増殖を求める主体)の人格化としての資本家の中に企業家は一部含まれているけれど、これを別 の主体として独立に取り出しうるというのが、この論文の出発点だ。これを認められないと、きっと全てを認められないということになる。沖さんは、はなから資本家と企業家の区別 をつけたくないように見える。資本家・労働者・地主だけしかいない一九世紀型の純粋資本主義の世界から眺めれば、そうなるのも仕方ないと思う。私は、宇野のモデルをさらに徹底して、土地が資本化し、労働力でさえ(人的)資本化するような、つまり全ての商品が資本になるような「完全資本主義」を二一世紀型のモデルとして想定している。でも、永遠に繰り返す純粋資本主義やら完全資本主義をどれだけ分析しても、市場(流通 形態)がある限りそこに資本がある、だから資本主義は超えられないというような結論しか出てこないのではないか。私はそれが最大の不満だけど、そのへんどう考えているんだろうか。
 ここで言っている「企業家」とは、株式会社における経営と所有の分離から出てくる、企業家(機能的資本家)と資本家(所有的資本家)の区別 を前提としているわけでもない。むしろそれはマルクスでいえば、一時的・経過的な特別 剰余価値ないし超過利潤を求める主体だ。ここでは、シュンペーターを持ち出したけども、特別 剰余価値が得られるイノヴェーションは必ず相対的剰余価値をもたらすわけではないのだから、マルクス的議論の範囲でも、資本家と企業家は区別 されうる。そして、これに「社会的」を付けたのは、貨幣利得でない何らかの価値を経過的に求める企業家もいるということを強調したかったからだ。
 大澤さんは、資本主義の外の協同生産・協同消費の可能性に言及しているけど、それはどうやって可能になるのかを考えていないように思う。私は、鎌田さんが指摘したように、資本主義的市場ではないと同時に、計画でも共同体でもないような、オルタナティブな「市場」を作ることによって、それは可能になると考えている。そしてそれは、オルタナティブな「貨幣」を必要とする。まあ、このへんは、この論文では十分に展開できなかった議論だけれど。
 また、オーウェンが自由貿易主義(帝国主義というより)的な貿易構造の中で植民地の労働者を搾取した資本家だといくら「倫理的」に非難しても、私は意味がないと思う。まず、労働価値説を真理であると前提して、それにもとづいて剰余価値の搾取を主張すること自体が疑問だし、国際不等価交換論を正当化するために労働の世界的同質性を前提するのもどうかと思う。これは、かなりタイプの古いマルクス主義の議論ではないか。もしかりにこれを受け入れたとしても、このことは、資本家に対してなら当てはまるが、イノヴェーションにより経過的な超過利潤を求める企業家に対してはあまり当てはまらない。オーウェンに資本家の側面 があったということを別に否定しようというわけではない。しかし、彼はニューラナークの場合、利益のかなりを労働者のための住宅や学校など種々の施設のために費やした。この投資自体がプロセス・イノヴェーションだ。それに、オーウェンは、インド綿ではなく、アメリカ原綿に先駆的に着目して、それを輸入し、それでそれまでになかった極細糸を作るというプロダクト・イノヴェーションを行った。私は、そもそも価値が価格を規定することを主張するような労働価値説が「真」であると認めていない。トンプソン、グレイらリカード派社会主義者の問題は、リカード労働価値説を規範的な「労働全収益権論」として再解釈し、公正な交換が労働貨幣によって達成できると考えたところにある。もちろん、その中にオーウェンも入っている。だから、この点ではオーウェンは批判すべき対象になる。今回、オーウェンの労働貨幣に全く触れなかったのは、いずれ、彼のニュー・ハーモニーでの失敗とともに、別 のオーウェン論で扱おうと思っているからだ。ところで、リカード左派の議論をプルードン派の議論とともに徹底的に批判したのは、他ならぬ マルクスだ。マルクスは、労働者は、自己が生産した価値を全部受け取るべきだとか、等労働量 交換にするべきだとかいう類の議論をむしろしりぞけている。このことの意味を考えるべきだと思う。 「重力」は毎号ごとに完結する建前だから、それぞれの論文が独立に批評されるのはしょうがない。今度のオーウェン論はオーウェン批判をやるつもりだ。これをやらないと、本当はLETSやQの可能性について語れない。だから、今回のオーウェン論だけで完結したと思わないでほしいし、これだけでQを批判しないでほしいな。
 最後に忘れないうちに書いておく。私が「社会科学者」を入れたらと言ったのは、学術論文しか書かない真面 目な良識ある社会科学者を入れろという意味ではないので、くれぐれも誤解なきように。詩や映画を含むという新しさがあるはいえ、「重力」が依然として「文芸誌」であることは隠しようのない事実で、それでいいのかというのが真意だ。文化的・哲学的マルクス主義やマルクス経済学を含む新左翼的な性格を加味する程度ではまったくダメだと思う。それでは、いままでの左派雑誌とそれほど変わらない舞台と概念でやっているだけだから。「社会科学」に限らず「自然科学」も含めもっと広範囲のジャンルを入れないと、真の意味での異種交配、多事争論が生まれない。これが言いたかったことだ。君たちは、あれこれの小説や批評を読んでいるのは当然だといった顔をしているくせに、例えば、スミスもリカードもケインズもハイエクも読んでいないではないか。そういうことが言いたかった。