秀実/これは「反米」の書なのか――アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート『〈帝国〉』書評
スラヴォイ・ジジェクが「現代の共産党宣言」と(疑問符付きであるか否かは問わず)評したことにも象徴されるように、二〇〇〇年に原著が刊行された本書の世界的「名声」は日本でもつとに知られていた。とりわけ、二〇〇一年九・一一以降のアメリカを規定するに、「帝国」という言葉が日本のジャーナリズムを席巻しているのは周知のことだが、その流行語が本書に由来しているのは間違いあるまい。
にもかかわらず、本書に照らして、その「帝国」概念が故意か無意識かは問わず誤用されていることは、この際はっきりと言っておくべきだろう。これは偶々思いついた例に過ぎないが、昨年末(すなわち、本書邦訳が未刊時)、某テレビ討論番組に出ていた或る高名な気鋭と呼ばれる政治学者は、「古代ローマと同様、アメリカは共和制から帝国へと移行した」などと、アメリカ批判の文脈において――クレジット抜きで、あたかもオリジナルな発想のごとく!――語っていたが、本書がむしろ「親米」の書であることは誰が読んでも明らかである。
本書は、両著者のこれまでの著作に徴しても当然のことだが、トクヴィルからドゥルーズ&ガタリにいたるアメリカニズムへの賞賛の文脈を、その思想的ベースに置いている。それゆえ、四月号の某論壇誌が特集タイトルに謳うごとく、「帝国の戦争に反対する」といったコンセプトは、少なくとも本書からは出てきはしない。そもそも本書によれば、「戦争」とは主権国家間のヘゲモニー闘争が存在した「帝国主義」時代のものであり、主権概念が変容した「帝国」の時代においてあるのは、「警察」行為にほかならないからである。
それゆえ、本書は決して反=「帝国」の書でもない。確かに、帝国に対抗する「マルチチュード」を規定し生成せしめることが本書の目論見であるとはいえ、反弁証法的かつスピノザ的な「即」の論理を駆使する本書によれば、帝国は「即」マルチチュードの潜勢力を表現しているのである。かつて『資本論』第三巻のマルクスは、株式会社を資本制内におけるコミュニズムの生成として記述したが、本書で言われる「帝国」は、まさにそのようなものなのである。そして、かかるオプティミズムこそが、ネガティヴでペシミスティックな書物を量産してきた世界の左翼陣営にあって、本書が「希望の原理」と見なされた理由であろう。
繰り返せば、本書からは九・一一以降における(あるいは、現下の問題として言えば、イラク攻撃に対する)アメリカ批判の論理は、基本的には導出しがたい。むしろ、アメリカのイラク攻撃を正当化する論理を本書から導き出すほうが、はるかに理にかなっているとさえ言える。アメリカ合衆国の支配層が本書を歓迎したのも故なしとしない。そして、これは私のもとに最近届けられた、アメリカの左翼ジャーナリズムの一端で活動する者からのメールによるのだが、本書が左翼アクティヴィストからは今や「冗談」としか受け取られていないという。これも十分に理解はできることである。
にもかかわらず、日本で本書を論ずる者の多くは、いまだに本書を九・一一以降にふさわしい「反米」の書物として流布させようとしているし、そうではない少数の者にしても、本書がアメリカで「冗談」と受け取られる文脈に対しては、概して、言葉を差し向けるのに歯切れが悪いのが実情ではあるまいか。私見によれば、しかし、本書はその「冗談」とみまがうばかりのオプティミズムによって、日本的左翼の歴史的限界性を批判しているところがある。
いうまでもなく、日本における「反戦」意識を規定しているのは、一九四五年の敗戦であり、「戦後」という概念である。そのことは、ジョン・ダワーや小熊英二の大著がいまだに歓迎されている実情を見ても知られよう。しかし、本書において一九四五年はほとんど何の痕跡も標していない。それはたかだか、ニューディールという理念の啓蒙としてアメリカ軍を世界に(日本に)派遣したという程度の小さなエピソード(解放軍規定!)に過ぎないのだ。
本書の歴史観を規定しているのは「一九六八年」であり、それは、本書の批判の標的でもあるウォーラーステインの世界システム論とさえ、基本的に一致する。「帝国」段階とは、一九六八年におけるマルチチュードの「革命」に対する、「受動的(反)革命」として現出したというのが、本書の歴史的パースペクティヴにほかならない。それは、本書に即して言えば、女性から「在日」にいたる多数多様なマイノリティーが、「外部」ではなく「襞」として「内在化」されたということであり、そのことは「日本」でも確実に生起した。
おそらく、このことを見ようとしない自国中心主義史観のために、日本では、すでに触れたようなさまざまな「曲解」が生じているのだが、だとすれば、確かに、現下の状勢においてはほとんど「冗談」とさえ読みうる本書を、その冗談をも含めて正確に受け止めておく必要があるはずである。
(「論座」二〇〇三年五月号)