穂積一平/「途中退場者の感想」を読んで(抄)

 わたしたちはポストモダン以降(浅田彰以降と言い換えてもいい)、さんざん作者、思想、行為、生活、それらがあたかもべつべつのテクストを織りなしているということを通知されてきた。これはどこかからの通知であって、なにか知らないが通俗的で、逃げ道を用意した言い草だ。しかし、だからといって作者、思想、行為、生活がテクストを織りなさないというわけではない。むしろまさにこの織りなされたテクスト上にこそ生があり、そこに自らが賭けられている。このことを知ってか知らずか、「作者と作品を同一視しません」というNAMにもたくさんいた知ったかぶりの連中のお説教や、その俗受けのする教説に従った作家(思想家)たちの行為への免罪符を、この日本のポストモダン状況において多くの知的機関(大学、あるいは行政機関というべきか、出版資本というべきか、業界人たちの集まりというべきか)が発行してやまなかった。この免罪符のゆえに、結局だれにも罪はなく責任もなく、また知らぬ存ぜぬで通用し、場合によっては「途中退場者の感想」を排除さえすればマーケティング上は成功するはずだ、という、まるで最近あったNHKのごたごたの縮小版のような出来事が発生する。
 しかし、その免罪符にもかかわらず、まさにそのテクストにこそ作者、思想、行為、生活、が書き込まれていて、そこにしかどんな営為もないのだ、ということを確認するために、鎌田哲哉氏の「怒り」が必要とされている。テクストがなければ、ただのバカオヤジだという作家(思想家)たちの果てしない貧困こそが、このテクストによってしか存在しない者たちの節操のなさを徴しづける。つまりテクストがあってもただのバカオヤジだということが明らかになる(ならばテクストなんかに手を染めないバカオヤジのほうがよほど立派ではないのか、という素朴な疑問がわく)。残念ながらというべきか、当然にもというべきか血肉に達しないことばをもてあそぶことが、この思想家たちの思想であり、ことばが血肉に達してはじめてテクスト性なるものが問題とされなければならない、ということがわからないのだ。蛇足ながら、血肉にならなければ「ことば」が狂気を孕んだり、「ことば」によって狂気が孕まれたりする、身体と言語の緊密な分離不可能性があらわになることはないし、それがテクスト性という意味での作者の不在をしるし付けるものだということが射程に入ってくるはずもない。しかしここで問題になっているのは鎌田氏がいうようにようするに「首尾一貫性」の問題なのだ。この「首尾一貫性」のなさを、思想家の「狂気」あるいは「矛盾」として読み取ってくれというのは贅沢にすぎる話で、この「首尾一貫性」のなさはただ俗っぽい、どこにでもある権力志向、こびへつらい以外には見えない。ここにこの問題の卑小さがある。思想家たちの隠蔽工作がもっと公然たる「悪」と言わざるをえないほどに正面切ったものであるならば、それならそれで、まだ救いがあるのだ。そのときには「工作」などありえないだろうし、村人A、B、C・・・という群れに思想家が埋没することもないだろう。この程度の村ならば、利害と利権が渦巻き隣通しでいがみ合いながら平然と笑いかけ、ことあれば権力の走狗と化して告げ口をする、まさに「村」と呼ぶしかない共同体のどろどろとしたあり様のほうがずっと大きな問題をはらんでいる可能性がある(このような村が跡形もなくブルドーザーで均された現在の日本に存在しうるかどうかというのはまた別問題だ)。しかしここで問題になっている村はかっこよく近代的で、もぐら叩きよろしくときどき顔をのぞかせて「あっかんべー」をしながら村人A、B、C・・・の群のなかに紛れ込んでしまうという逃げ道をちゃんと用意している、という意味で、演劇的村人=都市群集、スペクタクル的村人とでもいうべきものである(マクルーハン的村人といってもいい。マクルーハンはある種の期待を寄せていたようだが、いやはや、どうなんだか)。だからこの点ではわたしは鎌田氏にはすこし異論がある(というか鎌田氏はまだ十分展開していない)が、かれらを村人、ないしは日本的村落共同体の住民、あるいはそういう心的な傾向をもったものと考えるよりも、近代化されテレビ化されたお茶の間的「首尾一貫性」のなさをもった村人と考えたほうがいいように思う。つまり「アサッテ君」か、せいぜいのところ「サラリーマン金太郎」なのだ。この傾向が確実にネット上に存在したNAMにひきつけられた群集の傾向と同期をとったからこそ、少なくとも初期にはNAMはなにごとかであるかのような幻想を与えたのだと思える。

 いずれにしろ、鎌田哲哉氏の「怒り」と「苦々しさ」が、親和と反発、共感と反感、なんと言い換えてもかまわないが、それらがひとつになったときに発する「絶対的な正義」という仮面は、おそらく、もっと分析するに値するなにかにちがいないと思う。この「苦々しさ」がなければおそらく、ことばが血肉に達することはないだろう。
 萌芽的に語られているだけだが、たとえば大西巨人の「拒絶」の意味。これは「LEFT ALONE」には表面的には書き込まれなかったものだ。この表面的には存在しないはずの「拒絶」や「拒否」を見極めるという作業は、「怒り」が向かう対象を越えて、「怒り」に内在する「苦々しさ」を見出すはずである。これは「苦々しい」がなにか肯定的であり啓発的なものだ。この「苦々しさ」こそが発展されなければならない。わたしの希望もそこにある。おそらく鎌田氏もそういうふうにして「批評」を今後展開していくのだろう、とは思うけれども。

【編者追記】穂積一平氏は後に、上記の論点のある部分をより詳細に展開したが、時間の都合でそれをブックレットに収録することがどうしてもできなかった。改稿版は穂積氏の個人サイト (http://www.text-n.net/)に掲載されているので、ぜひ一読をお願いしたい。