井土紀州/末吉(抄)

 ところで、鎌田氏は追記の中で次のように書いている。《大体、対話相手の一人(柄谷)が創設者で、主人公も主要メンバーであるにもかかわらず、NAMの名前すら話題に出てこないこと自体が根本的におかしいのだ。くじ引きや地域通貨についての声高な饒舌が、何故かそれを推進した組織名称だけを健忘し隠蔽する映像の反復脅迫は、ほとんど精神分析の一症例としか思えない》。しかし、私はNAMという組織名称を消すための編集など、パイロット版から完成版に至る過程でやった覚えはないし、それに、映画の中で氏はNAMという組織名称を口にしている。第二部の柄谷行人氏と暴力を巡る議論をしているところの「例えば早稲田なんかでさあ、まあNAMの関本君なんかと一緒にやってんだけど……まあ運動としてはさあ、集会とかさあ……まあデモなんかたってデモの仕方を学生知らないからデモも出来ないんですけど……まあ学校とぶつかったりね。そうするとやっぱりこう楽しいじゃないですか、それは」という発言だ。当然撮影段階では、NAMは存在していたのだから、ここではごく自然にその組織名称が口にされている。これは鎌田氏の批評に対しては重箱の隅をつつくような指摘かもしれない。だが、例えばオセロゲームで黒い駒を全てひっくり返し、盤面を白一色にし得たと確信した瞬間に、たった一つだけ裏返すことの出来ない黒い駒が残る、そういうことがあるはずだ。そして、その裏返ることのなかった一つの黒が、残りの盤面を占有する白を見つめ返す。それが論争などしても絶対に勝てるはずのない相手(批評家)に対する映画の作り手である私の態度だ。
  一方で、私は鎌田哲哉の批評から強い影響を受けている。それは新作の劇映画『蒼ざめたる馬』の中にもある。私は「重力」編集会議を辞めたので、もう鎌田氏と共同作業をすることはないだろう。しかし、今後も作り手として鎌田哲哉の批評に対峙したいと思う。