湯本裕二/抑圧・視線・欲動


茂木健一郎の場合

クオリアとは、実感、それをそれとしてあらしめるこころ、こうをこうとしてあらしめるもの、あるをあるとする問いに身体を開く、存在に対する関心、といったことを指す脳科学の用語である。

クオリアを言語によって記述する脳科学者は、彼が、資本主義経済のメカニズムへの屈従を教育する、その最小単位であるエディプス的家族の中で、言語を修得し、人間(欲望と一貫性をもった主体)として構成された、という事実を常に忘却している。というより、そのこと自体を無意識に抑圧してる。

彼らの著作を読むと、それが脳科学の先端の研究成果の一般向け啓蒙書であることを、必ずといっていいほど、逸脱した、資本主義賛美に遭遇する。
クオリアの問題に触れるとき、彼らは無意識に抑圧物の不吉さを感知し、常に、自らのクオリアを最終審級で構成する資本主義を、原理として肯定し、科学による分節の対象から回避する。

脳科学者の茂木健一郎が「知識がない当時の人々が、金を化学的に合成するという目標に情熱を燃やしたのも無理からぬことであると言えよう」と書く時、自らの自我の組成をメタフォリカルに表象してしまっていることに気付いていない。
また、「心がない状態から心を合成する、「錬心術」の原理」は、「技術論の積み上げ」か「全く新しい発想、考えが生まれるのを待つこと」によって「抜け出せる」。前者は、「努力」によって、後者は、「まさに天啓」によってもたらされる。と書く時、茂木は、科学的記述を易々と踏み越えて、知らず知らずのうちに超越性を措定していることに気付くことができない(読者の水準に留意しての文学的修辞、であるとしてもおなじことで、クオリアを記述する際にこのようなメタファーを安易に使用する茂木の無意識のディスクールを、私は記述対象にしている)。
そして「「錬金術」をもじった表現である」「錬心術」「のような言葉を使う無知の状態から、一刻も早く抜け出したい」と書く時、この「時は金なり」的逼迫性と啓蒙主義的熱情、禁欲的労働倫理と神の恩寵の待望、神学と楽天的科学主義の無邪気な結合による宗教的自己確認は、マックス・ウェーバーの『プロテスタントの倫理とその精神』において素描された、近代的‐合理的精神と完全に一致することに気付けない。
ここでは、無知‐無意識という意味作用‐意識にとっての非言表的な法を、名指す、ことを自己目的化するという強迫的身体運動が茂木の存在への問いに、常に、既に、解答を与えている。

つまり、資本主義経済(という任意の経済形態)を採用する国民国家(という任意の共同体)の中で生活するモダーン・マンのクオリアを、資本主義経済と、資本循環の運動メカニズムを固定する法の内化を強制するイデオロギー装置であるエディプス的家族(および、学校、企業、宗教施設といった主体をテクノロジカルに産出する諸装置)の中で学んだ、言語の行使能力が、「存在への問い」を表象しようという時、言語の表象機能と意味作用が停止する臨界の思考において、脳科学者は、はじめて、彼の哲学‐文学の教養と才能を問われるのだが、彼ら脳科学者には、それらの教養と才能が、ほとんどない。

東浩紀の場合

それでは、情報工学的教養を折り込んだ哲学者は「存在への問い」をどのように表象しているのか、見てみよう。
東浩紀の『動物化するポストモダン』において、動物化する人間としての日本のオタクは、データベースにストックされた多数の「萌え要素」の組み合わせによって生産された「キャラ」に「萌える」ことによって、その「作品」の背後にある「情報」をこそ消費する。
その際、このサイクルのなかでの生産者と消費者は、相互的であり、「作品」に対して能受が、産出と破棄が、同時に起こる場であり、分節の場である。したがって、このシステム内では特定の突出した個人なり、超越者は存在しえない。
「神」は死に、「人間」は「動物化」し、他者の自己への、自己の他者への、「欲望」の回路は断たれ、「動物」はシミュラークルを戯れる。
しかし、リビドーとは常に性的リビドーであるとするなら(これは、ラカンの理論を援用する東は否定しないだろう)、日本のオタク文化は、単なる二次過程、オタクの抑圧物が回帰し、加工された「作品」に過ぎないと論じることもできる。
スーパーフラットが表象する、その深層。外傷と抑圧。これらをオタクの哲学者が再抑圧する理由はそれほど複雑ではない。
東浩紀の足首に、ピンで刺された古傷が本当にないのか、分析を進める必要がある。

東のオタク文化史。日本の敗戦による、アメリカの、日本への、文化的侵略という外傷に対する、アメリカ文化への敵意と、退行による江戸町人文化への疑似倒錯的な回帰によって生じた、フェティッシュとしての想像的なジャンク化された疑似日本、を表象する、オタク文化。
自身オタクである東の、このようなオタク文化の定義、歴史認識が、そもそも、東の抑圧物が加工され変換された作品、つまり個人の外傷を、共同体の外傷と結合し、同一の抑圧物の共有を読者に対し暗に強要するものであることを、以下、東のあげるオタク系文化の作品を具体的に検証していこう。

動物化するオタク文化の傾向を理解するためのもっとも重要な例とされる「デ・ジ・キャラット」というキャラは、「フリルをつけまくったメイド服に白い猫耳帽子、猫手袋、猫ブーツ、そして猫しっぽ」というデザインなのだが、これは、たんに「猫」と「女」という語の換喩的並立の視覚化にすぎない。
つまり、前意識において、「猫」という語から連想される「ドロボウ猫」「猫をかぶる」「メス猫」「猫可愛がり」といった慣用句の意味は、「女」という語の内包する、「ずるさ」「偽装性」「危険性」「愛玩対象」といった意味と、隣接性があり、故に「猫」「女」両語は知覚的に混同され、両語は換喩的に並立しえる(さらに補足すると、フリルは女性器を、メイド服は隷属と献身を、隠喩する)。
一次過程(サンプリングソース‐データベース)において、これらの諸要素が、圧縮、置き換え、視覚化され、「萌え要素」となり、さらに、二次過程(サンプリング)において、これらが全体化され、組み合わされ、「キャラ立ち」(つまり、性的な対象として勃起)し、そして、オタクは、このイラストに、視線の場に、固着することによって、外傷を、「大きな物語」を、抑圧する。
これらの過程は、当然、神経症的力動によってのみ駆動される。だから「デ・ジ・キャラット」とは、現実の女性(という外部)への性的な回路を断たれた主体の抑圧された外傷が、無意識的な加工を経て作品表層へ回帰したイマージュ(また、オタク共同体と外部との特権的離切関係をもつ、性的な対象としての半神半人間)でしかない。東はこれらの加工過程全てを、『動物化するポストモダン』という作品表層で、再抑圧してみせる。

この東のイマージュ(理論ではない)は、原初において差異をはらんだ本源、による産出と破棄の運動と、その写しとしての象徴的意味作用の分節と連関という、ドゥルーズによる、ニーチェ的強度と、ハイデガー的差異の、連結‐連接に端を発しており、東は忠実にこの議論のイマージュをオタク的消費‐生産行為になぞっている。
即時的差異と諸機械の連結による、超スピノザ的(≒スーパーフラット)な、ダイナミックな、表現と運動。 こういったイマージュは、樫村晴香の『ドゥルーズのどこが間違っているか?』(この論文で樫村は、抑圧という概念の重要性を何度も強調しているのだが)によって理論的な問題点を指摘されているのだが、我々はこの論文に、何度でも立ち返る必要がある。というのも、東の『存在論的、郵便的』は樫村のこの論文を誤認することで成り立っており、ここで、東が樫村の論文を無視せずに誤認してみせたのは、この論文が、東にとって不吉(抑圧物)なものだったからであり、オタクの哲学者が、本当は、なにを抑圧したがっているのかを知るためにも、この論文は重要だからである。

オタクとオタク系文化との関係は、結局は多形倒錯的に退行した男性が、フェティッシュの対象としての「キャラ」‐「萌え要素」(そもそも性的な隠喩としての力能を日本文化という物語から備給された「記号」)の集合と、脳内で、それと視覚的象徴的に対応するニューロンは、短絡し、トポロジカルに構造化され、視覚的快感と悪い対象の打ち消しを介して、欲動は視線の場にマゾヒズム的に固着し、さらに、意味作用の外部としての身体の性感帯を反復的に刺激し、射精‐消失という享楽によって、強迫反復的に、抑圧物を打ち消しもする(モテない自分は諦めたはずの現実の女性への欲望か、強圧的な現実の母/父への敵意か、学校で虐められている惨めな現実の自分の姿か、いずれにせよ、くだらないことだが)という、たんなる神経症の症候として表象でき、それ以上の意味など無い。

おたく文化が、日本文化のなかで、同じ外傷を共有した者達の共同体であることは最初から明らかなことで、しかし、その原光景での外傷を、日本文化へのアメリカ文化の参入による抑圧などと抑圧物を置き換えたとき、オタクの哲学者は、抑圧物の拍動に支配され、反復に身を任せ、退行する。
「動物化」の内実はたんに退行であり、「動物化したオタク」はたんに神経症的主体でしかない。

再度整理すると、東が例にあげる「デ・ジ・キャラット」は猫と女の疑似倒錯的な意識の混同であり、共同体とその外部(現実の女性)と特権的離切関係をもつ半神半人間(巫女というキャラも、同様の機能をもつ)であるが、これはだから、同じ外傷を共有したオタクの共同体とその外部の裂け目として表象され、それは常に、彼らが抑圧した現実の女性への性的な欲望の回帰として強迫的に反復される。つまり、「萌え要素」とは、抑圧した現実の女性への性的な欲望が、圧縮され、置き換えられ、視覚化され、意識という表層に無意識から回帰したシニフィアンであり、したがってそれは、オタクにとって無時間的であり、深みを欠き、シニフィエなきシニフィアンとして、オリジナルが欠如した世界のシミュラークルとして表象される。

「萌え要素」としてのシミュラークルが、それ自身の力能として諸身体上を循環するなどということはありえない。
あくまで、「萌え要素」は抑圧物の「作品」表層への神経症的強迫反復として産出される。また、一方ではオタクの多形倒錯的な退行の視線の場への固着のための母のイマージュを投影する性的対象として消費される。(ちなみに、コスチュームプレイの現場で、レイヤーが「見せることを見る」のと、観客が「見ることを見る」のでは、その視線構成はまったく別の組成に依っており、両者を「萌え要素」の消費などと一括してしまったら、世界に視線はひとつしかなくなり、制御系での視覚運動の視線認知と、言語野での視線の意図の言語的処理という、二つの演算過程が、想像的にひとつの演算に圧縮され、その視線の理論は幻想となり、現実の他者は消去されるだろう)。
だから、オタクのいう「オタクの遺伝子」とは単に、「同一の外傷の共有」でしかない。そしてここで、オタクが「遺伝子」というシニフィアンを発声し、他のオタクの応答が聴取されるとき、オタク達の間で欲動の循環がその環を閉じ、個人の外傷の歴史性(欲望の変遷としての時間)は隠蔽され、空間は時間を圧縮し固定し、運命を立ち上げ、オタクはそこに囚われる。
村上隆には、「オタクの遺伝子」が無いというのは、だから、たんに知性による去勢の忌避である。彼は、呪術師から芸術家に変態し、美術史は、彼を、オタクとの鏡像関係からひきはがし、美に従属させる。 母に、見られることを、見ること、の欲望、それらを、美術史と共に見ることを欲望すること、アメリカへ向けて欲望を循環させ、時間を前に進め、描くことを未来そのものとすること。

このような、強迫神経症者による、いわゆるアウトサイダーアートを、症候を、哲学者や精神分析医や大学教授が、国家管理のイデオロギーと短絡しようとしているのには、注意を喚起する必要がある。

金村修の場合

通常の東京都下の住人は、象徴的には、風景を見ていない。運動‐読解としての視線を、想像‐幻想の領域に圧し、感情を隠喩として風景に記載しながら、政治的に調整された欲望の還流に貫通された諸身体を、第三者的な俯瞰の視線による空間配地図に脳内で統合し、そこでトレースされた運動軌跡上を身体移動させている。

神経症者‐分裂病者のあらゆる運動は、権力によって、すべてこの欲望の還流に制御されており、遭遇‐出来事は互いを欲望する症候の出会いとして、電子的‐工学的に管理されている。脳内の素子間結合の不全により、この欲望の還流を身体運動として内化できない人間は、病院に通院、または隔離(ひきこもり)され、政治的に決定された精神科医の処方する薬によって、化学的電子的な身体制御の対象となり、非行な欲望に貫通された身体(自閉症者及び、先天的な脳欠損を持つ身体を含む)は、監獄に収監される。

ただし、通常は意識の外に置かれているが、この欲望の還流の外部は、別段神秘化せずとも、たんに、存在する。
言語回路を経由しない領域限定‐領域切断された身体制御運動は、そこここに、まるで浮遊する幽霊のように、諸身体を横断して、連結された反復照応運動として、存在する。

金村修の写真の変化の無さを「思考停止」と批判する評者がいるが、正確には、鑑賞者の視線の運動の、欲望からの離断による自らの一時的な欲望の停止を、その評者が言語で分節できなかったという、一瞬の死を、「思考停止」と隠喩しているのであって、彼は、金村の身体運動‐撮影技術を言語的に分節しているわけではない。

金村の写真がモノクロームなのは、色彩の認知から連想される感情を、圧縮し、劣化させ、認知と想起を、離断するためである。
東京の繁華街で見られる広告の文字は、色相、彩度、明度、興奮色、鎮静色、等を対比することによってメッセージをポップアップさせるが、金村は、これらをすべて押しつぶし、広告が備給する、欲望の逼迫性とそこに附随する焦燥感や安堵感を、ともに打ち消す。

金村が、対象をフレームで切りピントを合わせるのではなく、対象のすべてにピントを合わせてからフレームで切るのは、遠近法を無視するためであり、画面構成は古典物理学的な空間認知を反映せず、風景とフレームの結構は常に、反古典物理学な知覚の撹乱が目指されていて、金村がフレームを傾けるとき、一瞬ビルディングが傾いているのか、フレームが傾いているのか、判断が停止し、ガラスや鏡に映り込んだ鏡像の街にも、実際の街と同等の資格でピントが合され、光源、太陽は、複数化し、散乱する形象に、点と線と面になった風景に、意識の統合は一瞬失調する。

身体制御‐視線の運動は言語回路から切り離されるが、とはいえ、色の視覚認知処理と聴覚‐言語エリアは経済的に接続しているので、完全にではなく、しかし完全でないが故に、認知と想起が非日常的に入り組み、東京という街の記憶の想起とは独立に、視線の運動が、黒と白のコントラスト上を激しく反復運動し、その視線の反復運動が金村の写真が喚起するイマージュのレイヤーを打ち消す。
鑑賞者が東京という都市に対してもつ、幻想としての空間認知を結像する一歩手前で、見ることは、視線の運動と知覚の壊乱にこそ固着し、その現実の身体の変調が、東京に生きる住人が日々感じる、高速度で循環する欲望による欲動の拍動による、現実の身体の変調の記憶に、連接‐連結され、金村の写真が産出した東京に対する新しい記憶に、鑑賞者は遭遇する。


引用参考文献

『心を生みだす脳のシステム』 茂木健一郎 日本放送出版協会
『動物化するポストモダン』 東浩紀 講談社現代新書
『存在論的、郵便的』 東浩紀 新潮社
『SPIDER'S STRATEGY』 金村修 河出書房新社