「重力01」作品合評会(3)


■大杉重男「森有礼の弔鐘──『小説家の起源』補遺」

大澤 大杉さんが森有礼を論じるにあたってどういう態度で書いているのかが僕にはよく分からないんです。有礼は、主観的には天皇主義であるけど、彼が提示した天皇の定義自体は国家主義的で、その国家主義という原則を貫いたら天皇主義をも批判するようなものが出てきたということを大杉さんは書きたいのだと思っていたんです。でも論じていく過程で、国家主義的なものを評価するような雰囲気がどうしても感じられる。それは冒頭部における国語概念の批判と相容れないんじゃないでしょうか。ようするに大杉さんの議論には、論理において曖昧なところがあるのではないか、というのが僕の感想の全体に通底する疑問です。

大杉 とりあえず大澤さんの感想に対して、応答文を書いたので、それを見てほしいと思いますが。

鎌田 国家主義と天皇主義のどちらがいいか、というのは偽の問題でしょう。僕は立論の前提に疑問がある。大杉さんは幽霊のことを「それは少なくとも現実ではない。しかしただの非現実的な空想であるわけでもない。それは現実であるかもしれないもの、可能的なものである」(238頁)と定義しますね。でも、森有礼がその構築力によって排除しながら結局回帰してくるものは、本当はこの定義以上のものではないか。例えば、森が日本語と中国語の癒着を配慮できなかった、という分析は、柄谷行人の言葉でいえば漢字仮名交用への敗北、ということでしょう。とすると、大杉さんが言う「幽霊」とは、日本的な「現実」そのものだと思うんですね。釈迦もキリストも森有礼も全部のみこんでゆく沼地のことでしょう。

大杉 まあそうだけど、明治以前の日本にそういう日本的なものが実体としてあったとは無前提には言えないと思う。

鎌田 いや、大杉さんの文章自体がそういうふうに読める。「現実であるかもしれないもの、可能的なもの」が絶えず回帰するとしたら、それは「かもしれない」というよりは我々をとらえる「現実そのもの」だと思います。大杉さんは森有礼の構築性をそれに対置するんだけど、それを中絶させる日本語と中国語の使い分け自体がある種の現実的な構築性なんでしょう。

大杉 僕は構築性と無構築性という対立で必ずしも考えているわけではない。敢えて対立させるとすれば、主体性と無主体性かな。無主体性がある種の構築である場合もあるのですから。そう考えると有礼が導入しようとしたのは構築性ではなく、むしろ主体=Subjectというか、主体的な個人ということだよね。それに対して、天皇的なナショナリズムというのは無主体的なものとしてある。

鎌田 話を変えると、デリダが「幽霊」と呼ぶのは、大雑把に言えばコミュニケーションの定常性をおびやかす他者性のことですね。それが感じられない。

大杉 でも、日本語の中に混入している中国語にしても、本物の中国語ではないわけですよね。輸入してきた漢文を訓読して、いわば日本語でも中国語でもないような漢語にしたわけだから、それ自身がいわば現実性を持たない中国語の幽霊みたいなものなんですよ。

鎌田 だから、議論の展開で必要なのは、森有礼が漢字仮名交用を排除したとか、その逆ではなく、この両者の対立自体が何を排除しているか、ということでしょう。

大杉 だからそういうつもりで書いていたのですが。

鎌田 森有礼の実名主義と、彼を「アリノリ」とも「ユウレイ」とも呼んで行くシステム。この両方を同時にやっつけるものは何か。本当はそれこそが「幽霊」と呼ばれるべきではないか。

大杉 『共産党宣言』に出てくるコミュニストの幽霊ということですね。それはよく分かるんだけど、むしろそういうコミュニストの幽霊に対する非常な懐疑こそが僕にとって最初の出発点にあるんですね。他者とのコミュニケーションとかよく言うけど、そういう議論そのものが隠蔽しているものがあると思う。だからそういうものを一切最初から問題にしないで、純粋に内在的に考えようとしたわけです。その試みが結局ペシミスティックな結論になるのはよく分かっている。だけど、他者のレベルというのは論理的には導き出せないと思うんだよね。あるいは幽霊とは他者というよりも、他者にとっての他者なんですよ。他者に出会ったと思った瞬間こそ、実は出会っていないという現実が回帰する瞬間でもある。

鎌田 だから、大杉さんの「幽霊」は、マルクスよりはシュティルナーの用法に近い。シュティルナーは、「神」でなく「自由」や「人間」という言葉で自立的に考えているつもりでも、それ自体が神の世俗化した形態でしかない、何らかのシステムに考えさせられているにすぎない、と言うわけでしょう。排除したつもりで絶えずわれわれを捉えるものとして「幽霊」と言っている。でも、マルクスはそれをさらにずらそうとする。

大澤 大杉さんの議論は簡単に言うと、日本語の英語化とかいう類のものは拒絶されるにもかかわらず何回も繰り返し起こってくる、そういうものに対してどう向き合っていくのか、ということですね。鎌田さんが言っているのはそこからさらに踏み込むところなんだろうけど。

鎌田 端的に、「アリノリ」を「ユウレイ」と呼ぶ習慣に可能性があるとは思わない。

大杉 可能性というより現実性ですよ、それが。

鎌田 そうでしょう。それが何かを生むのかな。それは日本語の現実だと思うけど、僕自身は興味がないし、肯定する気もないんです。

大杉 僕も肯定しているわけではないですよ。要するにこの文章では現状認識しか書いてないんだよ、たぶんね。

鎌田 でもそれを「現実」と呼ばずに「幽霊」と呼んだ理由があるわけでしょう。森ユウレイだからじゃないんでしょう(笑)。

大杉 そうだね。やっぱりこの語呂合わせには語弊があるかな。

 ネーションとステートの結婚に際して、国語としての日本語が仲人とか媒酌人といわれるものとして必要だったということですが、その際に森有礼が必要としたのは雑種的な日本語ではなく純血的な言語だったというのが、最初の筋でした。それは結局失敗したということになるわけですが、そうであれば、結婚はできなかったということになるのですか。

大杉 一夫一妻制的な結婚はできなかったということですかね。有礼は再婚してますが、そこではもう純粋性へのこだわりはなくなっている。ネーションとステートのどちらが夫でどちらが妻かはよく分かりませんが。

 どちらが夫/妻か、ということに意味はあるんですか。

大杉 というのは、結婚の失敗に際して一人の妻だけではなくて妾とか補助的な配偶者を必要とするからです。英語採用論がかたちを変えて繰り返し出てくるのも、日本語という本妻だけでは不十分であると認識され、その欠陥を補うかたちで英語が妾や愛人のように要請されてくるからです。本当に必要なのか分からないけど、少なくとも言語意識において、日本語を補足するための別の言語が常に必要とされる状態にあるという意味では、やはり結婚は失敗したと思うんですよ。例えばファシズム的なナショナリズムの急進化というのも、ネーションとステートの結婚がうまくいかなかったからこそスーパーナショナル的に、つまり強引にくっつけようという試みだったのだと思います。

 そうすると、うまく結婚させなおしたいということになるわけですか。

大杉 そうなんですよね。そこの問題なんですが……。

中島 簡易英語論というのは、沖さんが言われた文脈を引き継ぐと、伝統から切断された方を「正しく」、また「単一的な」天皇と結びつけていくことによって、王殺しをしやすくするということでしょう。そうでないと雑種的なものを含んだ天皇や天皇制ができてしまう。つまり、このままでは天皇が貨幣のようにメタレベルとオブジェクトレベルとを往還してしまうから、有礼はメタレベルに確定しようとしたのだ、と。
 ところで、近代文学というのは、言文一致によってあらゆる可能性が抑圧された後に、小説が雑なものを取り返そうとしたものであると考えることもできますが、そうではなくて、言文一致自体に雑なものと戯れてしまうことを可能にするような何かが含まれていたのだと、僕は考えています。僕はそれを「である」体などに見ているのですが……。何が言いたいかというと、文学あるいは小説中心主義的なもので言文一致に対抗したり雑なものを取り返そうとする試みはすべて原理的には挫折するということです。本人は対抗しているつもりでも、結局は戯れに終始してしまう。それだったら森有礼のように、文学ではなくて政治を直接的に持ってくるべきだ、実名・一名主義や簡易英語論の方にこそ可能性があったのだと大杉さんは言おうとしたのではないか。

 可能性というのはどうなんでしょうね。問題が明確になる、というのはあるかもしれないけど。

大澤 有礼の主張が国家に採用されていれば、天皇には君主としての位置が明確に規定されていたから、太平洋戦争の「全責任を」天皇に帰することができる、という書き方を大杉さんはしていますよね(250頁)。

大杉 有礼の理想通りに大日本帝国憲法が制定されていたら、戦争責任は誰の目にも明らかだという、それだけの話だけどね。

大澤 確かにそれだけの話なんだけど、結局この論文における大杉さんの主張がそこに集約されている気がするんです。柄谷行人は『倫理21』でヤスパースを引いて、戦争責任には四つの段階があると言っている。もし有礼のやり方が採用されていれば、国家的な水準での天皇の戦争責任は明確にできたというようなことは、柄谷さんも主張している。しかしそこにある微妙な違いは、柄谷さんの場合だと、そうすることによって初めて国民全体の責任をも問えるのだ、と。それを曖昧にしているから、国民の責任もとれないし国自体の責任もとれないのだ、という話なんです。大杉さんの文章では諸個人における責任問題が生じず、端的に天皇に戦争責任をとらせた時点で問題が解決するような書き方がしてあると思ったんです。しかしそういう発想は中野重治が批判しているわけでしょう。さらに、さきほど中島さんが言ったことにかぶせると、その水準での問題はその水準で当然解決すべきだけど、それを持って小説などをすべて切り捨てることはできないと思う。なぜなら、小説には──それ以外の問題もそうだけど──刑事的責任では処理できない問題をも扱わなければならない光景が必ずあるからです。

大杉 誤解されているけど、今の時点から戦争責任問題の決着をつけたいという、今さら加藤典洋や高橋哲哉みたいな意味づけをする気はないですよ。あくまで五〇年前、というよりは一三○年前の可能性として考えているだけです。だから柄谷とも違う。柄谷は敗戦直後に天皇の責任が明確になれば日本国民も責任をとれると言ったけど、僕が問題にしたかったのは、敗戦の時点において責任が明確になる可能性は既になかったということです。そもそも戦争責任の問題は大澤さんも感想の中で触れていたように国家の問題と切り離せない。たとえば従軍慰安婦の問題がいかにけしからんと思ったとしても、金正日に謝るのはあまりに馬鹿馬鹿しい。でも北朝鮮では個人と国家の区別が存在しないわけです。だとしたらまず北朝鮮の国家を解体することこそ最初になされるべきことでしょう。同じことは日本も含め他の国についても言える。国家的責任と民族的責任は異なっているわけですが、両者をどうしても混同してしまうところに、ステートとネーションの結婚の問題がある。

大澤 誰に謝るかということではなくて、責任がどこに生じるかということなんです。それは有礼の議論云々ではないかたちで主張すべきなのではないですか。天皇は戦争責任をとるべきである、というのは、有礼の議論が採用されていたらとれたにもかかわらず現時点ではとれなかった、という話とは違うはずです。それは現在の問題として提示すべきです。かといってその点を議論の中心に持ってきてしまうと、大杉さんの批評家としての立場が幅の狭いものになるのではないか。それと僕は天皇が退位しても戦争責任の問題が片づくと思っていません。そこには大杉さんの言うように、ネーションとステートの結婚の問題がある。でもさらに細かく言えば、太平洋戦争の場合、軍事的・封建的帝国主義と独占資本的帝国主義の結婚の問題がある。天皇の責任および国民の責任はそういう細かい議論が必要不可欠だと思います。

大杉 幅が狭くなるというのはどういうことか分からない。結局僕の立場がはっきりしていないというのは、その通りですよ。僕の中でも──大澤さんは国家主義と言ったけど──むしろ透明な言語に対する欲望が出てきていることは確かですし。昔は僕も古典文学などの雑なものにオーラを感じていたけど、最近は極端に透明な言語でもいいのではないか、という気がすることもある。簡易英語論の話が出たけど、言文一致というのはある意味で簡易日本語と言ってもいいようなものですよね。極端に簡単な日本語にしてしまって、それで文学が死滅するんだったらそれでもいいのではないか。

大澤 そのような理論構築自体が生み出すものをデリダは幽霊と言っているわけでしょう。そういう理論構築では絶対に解決できないものが残ってしまうのだと。にもかかわらず透明性を求めようとするその態度自体が幽霊を回帰させるわけです。そこでも理論的整合がとれていない気がするんです。僕はそういう幽霊にどう向き合うかで文学の意味は問われると思う。幽霊をこのように理解していれば、透明な言語で解決し得ないのは自明です。幅が狭くなるというのは、いまおっしゃったような主張で問題を片づけようとすることですよ。

 言文一致の話でいうと、大杉さんの論文では簡易日本語というものは不可能だという結論になるのかな、と僕は解釈したんですね。でも、大澤さんへの応答だと簡易日本語としての言文一致の分析によって補完されるという話になっている。

大杉 正確に言えば、簡易日本語としての言文一致の失敗の過程を分析するということですね。

 そうであれば、大澤さんが言っていることとそんなに違いはないんじゃないかな。

大澤 よくわからないな。もし大杉さんがそれを本当に自覚しているのであれば、そのように書いてくれればいいんです。確かに強引に読めば沖さんのような結論が引き出せるのかもしれないけど、素直に文章を読んだときは、やはり国家主義に何かの可能性を見出そうとしたけれど、それを立論としては整合できなかったということなのではないか。

大杉 そうだとしら、大澤さんは僕の論が整然とし過ぎていると批判していたけど、少しも整然としていなくて、齟齬とずれが多いということになる。つまり幽霊について語る僕の文章自体幽霊に脅かされているわけだけれど、それこそがデリダ的なんじゃないか。デリダという名前自体はどうでもいいけど、少なくともデリダは自分が幽霊を思うがままに制御してコントロールしているとは思っていないと思う。僕もなるべく明晰に書こうとしたけど、最終的には明晰さから外れるものがそこに出来事として現れればいいと思って書いたわけです。

大澤 それは違うと思います。僕が感じている疑問は論理的な曖昧さなんです。デリダの文章は論理的には極めて明晰です。どれだけ文章が読みにくくても、主張が途中で反転したり曖昧だったりすることはない。完璧なまでに一貫しています。しかしそのかぎりで幽霊が生じるのです。僕が「感想」で整然としていると書いたのは文章の水準ですよ。そこは誤解されていると思う。もしも大杉さんの主張が論理的に一貫していて、そのうえで有礼=幽霊=無礼……といったいわば語呂合わせの「幽霊連合」が、国家主義=論理主義=透明な言語的なものを解体していくというのなら、僕の批判はおのずとべつの水準になったはずです。

鎌田 最後まで読むと、幽霊にさせられたのはむしろ森有礼なんだよね。彼の方が現実化し得なかった可能性になる。幽霊を叩こうとして却って幽霊になる。大澤さんの疑問もそこから来るのかな。

大杉 だから、僕が国家主義者のように見えてしまう──

鎌田 いや、何かをつかむ上で自己限定的な狭さが必要な時もあるけどね。

井土 しかし、批評というのは態度を決めなければならないものなんですかね。僕にはよくわからないんだけど。僕はこれを読んで、読み物として非常に面白かったんですよ。二つの「ユウレイ」のレトリカルなパフォーマンスがユーモアになっているし、そこは鎌田さんの熱血批評との差異だと思うんだ(笑)。僕は大杉さんの批評が目指す真実なんてものには、別にたいした意味を見出していなくて、これはこれで面白いという立場ですね。

鎌田 うん。でも僕にはそれが息苦しく思えた。天皇主義対国家主義、というと全然ぴんとこないんだけど、まあ無構築の構築か、森有礼的な構築か、そのどちらかにしか選択肢がないのかな。別の何かがあるんじゃない。それを示してくれたら僕はOKなんだ。

大杉 それはすごくよく分かるよ。だけど今のところはネガティヴに批判していくしかないと思うんです。

鎌田 最後に書いているでしょう、「日本語を揚棄することの可能性は、漱石が「画」と「詩」の中に閉じこめた外傷を再び開口させることにおいて見出されるはずである」(253頁)と。この「開口」は具体的にどんな感覚ですか。

大杉 本当は日本語を揚棄することの可能性を予感させるような小説が現代にあれば問題はないんです。でもそんなものはない。これは結局「アンチ漱石」への補遺にもなっているわけです。要するに、柄谷の批評なんかも含めて、ある時期には、漱石を使って何かを言えばそれでみんな救われた時期があった。こんなに日本語はひどいけど、漱石がいてくれたから安心だ、というか。

鎌田 夏目漱石自身は結局森有礼の戦略を反復強迫した、ということだよね。

大杉 違います。むしろ森有礼的な国家主義と天皇主義とのジレンマを解決したかのような錯覚を漱石はもたらしたということです。少なくとも修善寺の大患以降の漱石は融和主義的だった。しかしそれは錯覚にすぎず、どこにも希望はないということを書いているだけで、だから僕のこの論文の趣旨は徹底的にネガティヴなものなんですよね。

井土 それを面白く書いているわけだよね。

大杉 「ユウレイ」という言葉の戯れにしても、そんなに楽しく書いているつもりはなかったんだけど。

鎌田 そうか、夏目の部分は僕が読みちがえてますね。でも最後に、二つの構築のジレンマとも、漱石がなした幻想的な止揚とも違う、全く別の存在として二葉亭が出てくる。

大杉 確かにそうですが、あまり名前に拘りたくないんです。この人がいれば安心、という落としどころを言ってしまうのはよくない気がする。そうはならないで戦いを続けるような論理がないものか、考えているのですが。

鎌田 だから、僕も二葉亭の名前はどうでもよくて、さっきの車輪を発明する、という意味での二葉亭の技術が知りたい。それは大杉さんだけの問題ではないですが。

大澤 井土さんが読んでいて面白いと言ったこととも裏腹だけど、この評論自体が物語になっている気がするんです。さらにそれが、ある沈黙をもたらすのではなくて、饒舌を延命させていくもののひとつであるのだとしたら……極端な話、状況や人物を変えて方法を一緒にすれば、大杉さんはこの姿勢で色々なものを書けるようになると思うんです。

井土 でも面白いフィクションを書ければいいじゃないか。

大澤 ただ、大杉さん自身はそれに抵抗したいのだと思うから、そこにおいて不徹底さを感じたんですよ。

大杉 物語化しているという指摘は確かに当たっていますね。有礼の生涯をたどってしまって、結果としては評伝になってしまっている。

鎌田 それは別にいいんじゃない。

大澤 評伝は評伝でもいいんだけど、物語的な部分が気になるんです。

大杉 だから、物語のフィクション性というのが、読者にフィクションとしてきちんと受け取られるなら、僕は別に構わないんですよ。でももし、そのフィクション性が失われて、あたかも物語と現実が癒着してしまうような読まれ方をされてしまうと、僕の意図と外れてくる。

大澤 例えばネーションとステートの結婚の話だと、漱石の方がよい物語を書いたのではないですか。大杉さんはそういう漱石のあり方を批判したんでしょう。でも、部分的な破砕はあるにせよ、大杉さん自身もそういう関係的な物語をなぞっていく書き方をしてしまっている。しかもこの書き方が、この先も同じように書ける方法として獲得されてしまったら、大杉さんの批評は批判する対象自体に似ていくのではないか。僕はやっぱり『小説家の起源』や「アンチ漱石」の執拗な細部へのこだわりが気になる。僕はそれらを物語批判として読みました。それが「森有礼の弔鐘」ではずいぶんすっきりしちゃったから。

大杉 それはちょっと違うんじゃないかな。この書き方がそんなに方法化できるとは思えないし、僕が漱石に似ているとは思えない。もし似るとしても、漱石を予言者のように持ち上げて、漱石と似ても似つかぬものになるよりは、アンチ漱石によって漱石を反復する方がましだと思いますね。

(つづく)