「重力02」刊行記念ライブトーク/1968年の「重力」(3)


井土 じゃあ再開したいと思います。さっき喫煙所で言われたのですが、68年の話を期待して来ている方が結構いらっしゃるみたいなので、さんに68年についてお願いします。

 えーと、そういう方もいらっしゃるということを前提に話をします。68年については「02」に「1968年革命小史」というのを書きました。5月の中旬に僕の著書、『革命的な、あまりに革命的な――「1968年の革命」史論』というのも出ますので、まあそれをお読みいただきたいんですが、なぜ68年かという話を、いまの話の流れも含めてちょっとお話したいと思います。
 どこかにちらりと書いたことでもあるんですけれども、話が内向してるので、ちょっと開けっ広げな話をしたいと思います。例えば、ようやっとイラク攻撃に対する、いわゆる反戦行動が非常に盛り上がっていると言われていますけれども、やはり日本の「反戦」という意識は、1945年の敗戦ですね、そのトラウマから来ている面が非常に強いと思うんですよ。しかし、先ほど挙げた『帝国(エンパイア)』という本を読んでも、あるいはウォーラースティンでも何でもいいんですけど、1945年なんてのはグローバル・スタンダードでも何でもないんですよ。ドイツもそうかもしれませんが、せいぜい東アジアの一部のトラウマなわけでしょう。もちろんそのトラウマも大事だし、45年について考えるのも大事だと思うけれども、あまりにも1945年というパースペクティブに囚われ過ぎてるんじゃないか、というのが僕の考えですね。
 だからこそ、前半でちょっとお話しましたけれども、『帝国』に対するとんでもない紹介がまかり通っていて、東大の先生、わりとカッコいい、姜尚中なんて人がパクりをやって、マルC〔著作権表示〕抜きで平気で「朝まで生テレビ」で喋っちゃったりして、またその姜尚中という人を担いで反戦運動をやろうというグループがあったりする。まあ結構な話で、別にそれを全面的に否定しようとは思いませんが、しかし45年を起点に延々と五十年、六十年続いてきた反戦平和主義では、おそらく基本的に成り立たないだろうというのが僕の考えですね。
 68年ということに対する疑問はいろいろあると思う。あんなもの何でもなかったんじゃないかという説も十分あり得る。しかし少なくとも、68年の方がグローバル・スタンダードなんですよね、どう考えたって。これは『帝国』を読んだら判ると思う。あれだって起点は68年ですよ。帝国っていうのが出てきたのは68年です。
 そういう中でとりあえずものを考えてみようと。少なくともそういうコンテクストがあまりにも日本では無さすぎたんじゃないか。だからこそ、例えばウジウジとした反戦平和主義だけが瀰漫してきたんじゃないか。それに対する、まあショック戦術じゃないですけれども、パラダイム・シフトを敢行した方がいいんじゃないかという意味で、68年というのを大声で言ってるだけなんです。まあ当然、なかなか届かないと思うんだけれども。
 そういう意味で、「レフト・アローン」という映画の企画を井土さんから持ってきていただいたときも、こっ恥ずかしい話なんですけれども、まあ乗ってみようと思ったし、あるいは「重力02」で68年特集をやろうと聞いたときも、まあ乗ってみようと。一つの実験ですよね、僕にとっては。それが全く正しいと思ってるわけでは全然ないけれども、いろいろとそれを起点にして考えてみようというのが、68年という視点を出したということなんですね。まあ、ひどかったからね、日本の68年に対する総括は。個々に挙げつらいませんが。ということです。

井土 さんの提出されている文脈というのを、僕なんかもある程度、面白いなと感じて映画を作っていく方向に動いてきたわけですね。じゃあそれをさらに「重力」という場に持ってこようといったときに、何が68年革命だっていう感じでいろいろ批判が上がってたんですが。大杉さんもその批判者の一人だと思うんですが、その辺で何かありますか。

大杉 そうですね、僕は68年に興味がないんですよ。

 グローバル・スタンダードじゃないんだ。

大杉 いや、そうかもしれない。『帝国』って本も実はあんまり読んでなくて、ちょっとだけ読んだんですが、ハートとネグリは帝国ってのは以前の世界秩序よりはマシな体制だと言ってますよね。

 そうそう、帝国バンザイでしょ、あれは。

大杉 今のアメリカの一国帝国主義みたいなものは、昔よりはマシだということになるわけですか。

 いやだから、書評でちらっと書いたけど、『帝国』なんていう本は、これは高祖岩三郎からのメールに書いてあったんだけど、もうアメリカの左翼はみんな冗談だと思ってるらしいですよ。バカバカしい本だと思われてて、大真面目に受け取っているのは日本だけみたいですよ。

大杉 要するに冗談なわけでしょう。冗談ということはどうでもいい話であって。

 いやでも、その冗談はなかなか面白いじゃないかということは、今のところあります。

大杉 さっきのさんの、45年大したことない説も結局、冗談であるということになるんじゃないですか。

 いや、45年ってのは、ほとんどトラウマのように染み込んでるわけ、日本の人たちは。幾らなんでも45年はそろそろないでしょっていうのが、俺の……

大杉 それは結局、さんにとってもトラウマなんじゃないの。

 45年が?

大杉 45年を気にする人たちのトラウマに対する、ある種のトラウマがあるわけでしょう、きっと。

 あれは桎梏だからね。

大杉 僕は他人に興味がないせいなのか知らないけれども、要するに他人がどう考えてるかってことを異常に気にしてますよね、さんは。

 いやいやそうじゃなくて、運動ということですよ、例えばね。

大杉 運動するんだったら、こういう言葉の運動じゃなくて、反戦運動でもやればいいじゃないですか。

 個人的にはいろいろやろうと思ってるし、やってるんだけども……単にデモに行くとかその程度のものだけれど。たださ、その運動――日本のね――の質自身が、反戦平和主義に規定されてるっていうのが昔からずっとあるわけね。その反戦平和主義的なもの、あるいは一国平和主義と言ってもいいと思うけども、それに対する批判があったのは、日本においては例えば68年であろうということでもあるわけですよ。

大杉 いや、それは逆なんじゃないですか。

鎌田 大杉説に賛成。

大杉 むしろ、そういう硬直した反戦平和運動が出てきて、人の言うことを聞かないでも済む体制になったのが68年だと思いますよ。みんなで「ナンセンス」って言えばいいわけだから。

 そうなのかね。

大杉 結局、小森陽一にしたって何にしたって、みんな結局、論理的に物を言わないで情緒的にナンセンスって言っているだけですよ。論理なんかどうでもいいわけで、みんなでパフォーマンスを楽しめばいいってことなんじゃないんですか。

 『帝国』でもいいし、さんが言ってるような文脈でもいいんだけれども、68年という問題を大杉さんは非常にネガティブに考えている。さんは、必ずしもポジティブじゃないかもしれないけれども、前よりはマシと捉えているという意味で、『帝国』の著者たちと踵を接してるわけですよね。
 ただ、大杉さんが68年を否定すると言う場合にね、その感覚もわかるんですけれども、68年以降をどう評価するかってこととは別に、そこに切断があるということについては、どう思ってるわけですか。ないっていうことなんですか。

大杉 いや、これまで68年についてはあまり興味がなかったんで……。今度翻訳をやってみてね、意外と68年っていうのが――まあ68年ってのは象徴に過ぎないわけだけど、70年代初めぐらいの時期において――、日本の社会制度なり、文学の問題にしても、文学を取り巻く言説のあり方が非常に変わったという意味では、画期的だったと思う。
 ただ一方で、蓮実さんなんかの、ある意味で19世紀から社会の根本的な体制は変わってないという見方があるわけで、それに対しても非常に共感するわけです。もちろん現代と全く同じだとは言わないし、僕は両性具有者っていうのがどんなものなのかもよくわかってないので、何とも言えないんですが。今回、フーコー編の『エルキュリーヌ・バルバン』を翻訳しましたが、どういうわけかフーコーの講義集成とか、そういうものはみんな翻訳されるんだけども、あれだけ翻訳されて来なかった。どういうわけなのかよくわかりませんが、やってみたら意外と簡単に翻訳権も取れたので、翻訳したわけです。
 68年っていう節目は重要なんだけれども、でもやっぱり、フランス革命以降というか、19世紀以降というスタンスで、僕はちょっと考えたいなと思ってますけど。

大澤 あれを訳したときの、最初のモチベーションはどこにあったんですか。

大杉 最初のモチベーションはもちろん、自分で読みたいということです。『ピエール・リヴィエール』はとっくに翻訳されてますが、その続きと言われてるのに翻訳されてない。僕は、さっきも言いましたけどあんまり語学力がないんで、自分で訳すのが一番簡単な読み方だというのがあって、やってみたということです。

大澤 誤解だったら謝るんですけど、大杉さんはよく、固有名を批判して、無名性ということを言うでしょう。でも、やっていく中で、「これはフーコーだから価値がある」という言い方をしていたと思うんです。

大杉 いや、文章の中では言ってませんよね。

大澤 文章の中ではもちろん言っていないけど、固有名についてどう考えてるのかを聞いてみたかったんです。

大杉 確かにフーコーの名前で売れるだろうということは考えました。要するに、フーコーに関心がある人っていうのが世の中には、そんなにはいないだろうけど、何百人かはいるだろうと。その何百人かが取り敢えず買ってくれるだろうという営業的な目的があったことは確かです。まあ、実質的な価値において、フーコーは『バルバン』について、ほとんど読んでるとは言い難いような変な評論を書いてるだけであるわけだし、むしろ僕はバルバンの告白録を、ナイーブかもしれませんけれどもある種の文学的な作品としてそれ自体面白いと思っている。少なくとも平野啓一郎は『日蝕』を書く前にあれを読んでおいて欲しかった。まあ僕はもともと自然主義が好きですから、現代小説よりもああいう小説の方が好きなんですよ。

 これは大杉さんだけじゃなくて、「重力」全体がそうなのかもしれないけども、ちょっと中途半端なところがあってね。固有名ではなく無名性だって言うんだけれども、一方で、売るんだったらやっぱり固有名があった方がいいと。浅田さんへのウェブでの反論にも書いていたように、大杉さんには、最終的に固有名を外したところで届くようにしたいということがあるのかもしれないけれども、現時点では固有名を使うわけでしょう。

大杉 まあ、使わざるを得ないと思いますね。うーん、それはしょうがないんだけど。

鎌田 ちょっと待ってよ、それは「しょうがない」という前提で僕ら自体が動いてきたよ。だって、最小限の資金回収という目標のために、フーコーだけじゃなくブックガイドの件とかも、会議を通じて決めたわけでしょ。

 でもその最小限っていうのも、かなり解釈が異なるわけでしょ。

大杉 まあでも、売れ行きの問題で、沖さんが一昨日書いた「「重力」の問題」とたぶん関わると思うんですよ。その問題をちょっと説明してもらえますか。

井土 その前に僕も言いたいんだけどさ、やっぱり、売る問題っていうのがありますよね。さっき、映画の世界になぞらえてさんが話したけど、例えば五社体制が崩壊したって言っても、それは製作体制、撮影所が崩壊したということだと思うんですね。ところが配給会社としての旧五社のうちのいくつかは、まだ厳然とした力を持っている。で、僕らが自主映画を作っていて、もちろん製作も自分たちでやります。じゃあ劇場でかけるときにどうするかっていえば、それは自分たちで小屋と交渉して、配給も自分たちでやったわけです。
 「重力01」のときに討議したことでは流通の問題が大きくて、大手取次を通すか通さないかってことが最初に大きな問題だったと思うんですよ。それはやっぱり、映画で言えば配給会社を通すか通さないかということだと思うんですね。「重力」は大手取次を通さないでやるんだって話を「01」の段階からしてて、だったら「百年の絶唱」をやったときと同じだねって話をしてたけども、最終的に、大きな配給会社を通じて全国にバーンと配給するっていう体制を「01」で取っちゃったわけです。それに対して松本圭二はすごい反発したわけだけど、そのレールに乗ったまま今、走ってるってこと自体、沖さんが指摘された問題と大きく結びついているように思う。

鎌田 いや、そうじゃないでしょ。

井土 違うの?

鎌田 それは漸進的に直取、直販を拡大しつつある方も見ないといけないんじゃないかな。でもね、僕は68年革命の話をしたかったんだけどさ。さっきの大杉さんとさんの話に介入したかったんだけど、なぜこうなっちゃうんだろう。

井土 そういうことなら戻してもいいよ(笑)。

鎌田 まあ、内輪話を全部、先にちょっとだけ話した方がいいね。「01」には40万損失が出ている。7人で割るから、一人大体6万の負債かな。で、「02」ではそれだけは無くそう、という前提で僕は動いてましたよ。それ以上の儲けを出すのは、「重力」に限らず今の人文書の売れ行きからして望み薄だけど、出資金自体の回収を目標にする、っていうのは、少なくとも僕の中では決まっていましたね。

大杉 ほんとですか。

鎌田 そうですよ。

大杉 なんか、以前はもっと大きなこと言ってたじゃない(笑)。

鎌田 ほんとはさ、何万部も売れて世界一周できれば……できるわけないけどね。法螺でそう言ってたけどさ、最小限出資金を回収したいとは思うよ。沖さん、それじゃだめなの。それは共有されてないってことかな。

 いや、そうではなくて、そんな線引きは予めできないわけじゃないですか。結局、どういうシステムなら最低限の回収だけできるのかなんて、予めわからないわけだから……

鎌田 わからないから手探りでやってる。

 そうだけど、だとすると、結局、たくさん売ろうってことになるんじゃないの。

鎌田 いやそうじゃないよ。たくさん売ろうということだけで考えてないから。むしろ「自分たちは何を書きたいか」っていう前提があって、その中で、ガイドを作るか作らないか、最低限の妥協をしよう、ということでしょ。初めに書きたいことがあるわけでしょ。

 でも、「01」で一人当たり6万の赤字が……

鎌田 現時点でだよ、まだ売れつつあるからね。

 現時点で、6万の赤字が出ているとして、その事実にはどういう意味があるんですか。まずいことなの。それとも、別にいいわけですか。

鎌田 僕にとってはまずい。

 なんでまずいの?

鎌田 お金がたくさんあって、10万が戻ってこなくていいって言うならいい。でもそういうのは負担がかかりすぎて長期的にやれないもん。10万位だったらいいけど、金儲けしようとも思わないけど、基本的な活動として出資金を最低限回収したいとは希望する。そのことは「「重力」の前提」でも一応書いてるよ。

 そうだけど、そこの「最低限の個人の自立」っていうことの、最低限がもう明確じゃないわけですよ。例えば……

鎌田 でもさ、それはお金に限らず、最初に「「重力」の前提」をいかにに受け止めるかについて、最小限の一致がなかった時に予想されていた事態で、その進行自体において僕達がまちがっていたってことじゃないかな。それは一つだけの問題じゃないんじゃないか。仕事の分担とかさ。

 それはだから……

鎌田 しかしこの話は……。じゃあ喋ってよ、俺はもう言わないよ。

 僕も、あんまりダラダラしても仕方ないんで、簡潔に。組織をどういうふうに作るかっていう問題、つまり前提を共有しないでやっていけるのかという問題も一つあるけれども、それとさっきの、回収云々という話はちょっと別の問題で……

鎌田 出資金のどこをいくら回収するのが前提か、ってことを、最初に協議しておけばいい。

 それはそう。

鎌田 そしたら、そのための戦術は変わってくるけどさ。

 もちろん、そこではっきりさせなかったから回収の問題もはっきりしなくなる。そういう意味ではつながってる問題だと思いますけれども。

大杉 沖さんは何かオルタナティブがあるわけですか。次回「重力」に参加する場合には、何らかの実定的な契約みたいなものをする必要があると言ってましたよね。

 個人が出資して雑誌をつくるという場合に、それを実定的にやるのは、ちょっと難しいですけども。何がはっきりしないかというと、例えば出資金の10万というという額も、何の根拠もないわけですよ。10万出すのがたいへんな人もいれば、10万以上出せる人もいるわけで、何の根拠もない。しかも7×10=70万で本当にやってるかというと、やってないわけですよ。だったら、一人当たり10万という金額には何の根拠もないわけじゃないですか。

鎌田 「01」の時に70万でやろうと思ったら、実際に170万かかった。この雑誌の質を維持するためには、やはり170万か180万はかかる。だから本来は、7人でやるなら一人約25万の出資でやらなきゃいけない。でもそれだと参加できない人が出るでしょ。
 それとね、どんなに回収金が足りなくても、現状なら百何十万かは返ってくるわけじゃん。現時点で40万赤字でも、まだ徐々に売れつつあるし、赤字がどんなに多くても70万は越えないって見こみがある。だから、もう全部ばらすとさ、「02」の場合は経費が合計180万で、確かに俺が70万、さんと大杉さんが20万ずつ追加で出している。でも、それは全部一時的な建て替えで、損失はみんな均等に割られるわけだから、そこでは一応出資金についての前提は維持されてるでしょ。

 いや、でも……

鎌田 だけど、俺はこう思うんだよ。沖さんが言うことで絶対的に正しいのは、前提を共有しないで、実定的な法が不在の状態でやるのは、これは実は68年革命そのものなんだよ。大西巨人の小説だったら、やっぱり軍隊内務書がありますよ。罪刑法定主義か実定法主義かはともかく、とにかく明示的な法規に基づいてやってるから、戦術をきちんと考えられたよね。多事争論もそれによって可能になったはずなんだ。東堂太郎がそのことにこだわれば、逆に敵の大前田軍曹も軍隊内務書を読むようになるし、そういう姿勢がどんどん可能になった。でも「重力」にはそれすらなかったよ。実はそれが68年革命なんじゃないかな。そういう意味では、俺は68年革命を絶対に否定する。さん、違うでしょうか。

 うーん、言われている文脈がもう一つよくわかんない。それが何で68年革命なのかということがね。ただまあ、それが68年かどうかはともかくとして、実定的なものがあった方が当然、いいんじゃないかとは思いますよ。俺が言えるのは最低限そのぐらいのことであって。

鎌田 戦術として、全共闘……全共闘なんて、さんの示したいものとはまた違うものだけど。ただ、68年革命の運動主体は、そういう実定法主義をもともと受け付けない連中の集まりだったんじゃないか。そういう意味で美学的な運動じゃないかなと思うんです。

 そういう側面は非常にあった。私は好きではありませんが、そういうところは。

鎌田 特に僕は、去年の11月からの監査委員をやっていて、NAM会員の集団ヒステリーにいちいち付きあわされたんですよ。さあ「重力」の原稿を書こう、とか思うと、次のキャラがゾンビみたいに出現するからね。そういうことで実定法主義の無視を感じたんで、沖さんの批判は全面的に正しいと思いますよ。明確にすべきものをしないとどうなるか。そのことは我々自身が示しているし、その点では「重力」も何のオルタナティブにもなってなかったと思う。
 もう一遍、68年革命の問題に戻すと、45年がそんなにトラウマかと言えば、僕にとってそんなことはない。でも、さっきさんが言われた、一国平和主義への違和感は生まれてからずっと僕の中にある。具体的に言えば、何で憲法第九条を認めながらそれが日米安保条約と両立するのか。何で国民主権と天皇についての一条が調和するのか。法解釈上は両立するとしても、それがそのまま、どっちもいいじゃんという感じで受け止められる。そういう、何でもかんでも使い分けするというか、全てを緊張がないまま、バラバラにあるものとして受け入れる日本人的なあり方への疑問は一貫してあります。もしそういう状態を、何百年かかってでも覆す契機があるんなら68年革命を支持するし、その延長でやりたい、と思ってるんだけど、今回特集を出しても、やはりそういうきっかけが全然見いだせない。それがさっき大杉さんの議論に賛成すると言った理由です。

 ただね、もしかしたら話がずれるのかもしれないですけど、68年において実定法的なことを一番主張してたのはさ、いわゆる自治会主義だよね。規約を楯に、動けーっという……。実は今日、中野あたりで、反戦自衛官の小西誠なんかの内ゲバ研究会というところがシンポジウムをやっていて、ほんとは私はそっちに出るべきことでもあったんですが、まあその内ゲバをやってた人たちですよね、簡単に言うと。実定法的なことをうるさく言ってたのはね。

 だから、もう一つ必要なものがあって、実定的なだけでは権力的になるから、双務的じゃないと駄目なんですよ。一方的に、片務的に、実定法に押さえつけられるのでは、たぶん自治会的な問題が出てくると思う。

鎌田 それはそう思います、本当に。その双務性の契機もやはり68年革命には感じられないわけよ。

 まあ双務性はないですねえ(笑)。あまりにも自治会主義が……

鎌田 双務性っていうか、さんの論点で言えば、部落民がある一定の権利を獲得したとして、それが既得権になってしまって、今度はその内部でマイノリティへの差別を食い止められない、という議論をされていた。一番重要なポイントですが。それを覆していく契機が本当にあったのか、ということが疑問です。

 それはそうですね。覆す契機が見つかればこんなに苦労することはないわけです。

鎌田 さらに言うと、大杉さんの批評もそういう感じなんだ。僕は、大杉さんの正直さって、他人に冷酷で自分に甘い正直さだと思うんだよね。

大杉 それは鎌田さんのことじゃないの。

鎌田 あはは、そうか。だけど、……いや、やめる。誰がどうだった、とかいう話はもういいんだ。批評の中で具体的にやるよ。直観的に違うよ、絶対。あの時ああ言ったじゃないかっていう話は、俺はやっちゃいけないと思うんだよね。

大杉 別に言ってもいいですよ、いくらでも。

鎌田 つまりさ、Qのことで言うと……こんなこと言っていいのか。止めましょう、やっぱり。「重力」と関係ないから。

大杉 でも、「重力」は、Qでも売っているから無関係ではないでしょう。

鎌田 それは個人ですよ。組織でやったらひどいことになるのは、NAMとQの関係で明確に出たから、僕が売る時でも誰が売る時でも、個人で動きましょう。それが今後の「重力」の前提だと思うな。

井土 大澤さんの方から、何かないですか?

大澤 68年がわからないというのは僕も一緒なんですけど。さっき途中で話が変わってしまったことに無理やりつなげると、まあ、こういう感じで違和があるわけですね。僕もそれは感じていて、だからもし、この空間がそのまま引き継がれるんだったらやれない。「重力」には除名がないので、続けようと思えばいつまでも続くわけです。
 でも、やれないと言っただけで終わるのは馬鹿なので、これからのことを考えているんですね。何をしようかなと考えていたときには、「重力」が「03」も出るという話だったんで、じゃあ自分は勝手に自分でやろうと思っていた。でも、こういう状態で「03」がいつ出るかもわかんないんで、もしかしたら「03」として出すかもしれません。考えているのは、自分が責任編集者になって、それこそ68年の批判したスターリン的にね、僕がいいと思える人とだけ組みたい。自分にそんな力があるかどうかわからないけど。それにそんな人間がいるかもわからないです。でも、二十代ぐらいの若いアナーキストみたいな奴とか……

 そんなのいるのか(笑)。

大澤 いるかもしれない(笑)。そういう人間に会いたいってことです。ナショナリストでもいいんですよ、右翼でもいい。とにかく活動的な人と一緒にやりたいです。もちろん、文章を書くというのでもいいけれども。そういう前提を持った人と一緒にやりたいと考えている。まあ、僕なんかがやっても、たぶんあまり売れないと思うんですね。売れないんだけれど、それでもやりたいっていう人がいたら、ウェブのアドレスの方に送ってくれれば、僕は積極的に考えるし、自分自身でも動くつもりです。すいません、話を切っちゃって。

鎌田 いや、がんばってやってくれよ。君はやると思うしさ。

井土 それは是非やってほしいですね。僕自身の「02」に対する感想ですが、僕は基本的にエンターテイメントの人間なので、「01」に比べて、なかなかエイターテイメントなものになったんじゃないかなという感じです。
 で、時間的に、そろそろ会場の方から質問を聞いていった方がいいですかね。今日話したことでも、あるいは68年のことでもいいですが。

鎌田 内容の話を全然しなかったじゃないですか。

井土 じゃ、どうぞ。

鎌田 一言ずつ紹介すると、大澤さんの小説は最後の収束が俺にはよくわかんないけど、途中まですごい面白いと思います。あと、沖さんの論文の面白い所と疑問点については、僕は討議の中ですでに言っています。
 松本圭二の詩は、すごく俺は好きなんだな。伏せ字の個所について、中野重治の小説を意識しているとか何とか、訳のわからないことを自分で言ってたそうです。それはともかく最近「おっさん」になって、中年の危機を迎えている感じがする。俺自身、最近身体的にはぼろぼろで、目も見えないし、探し物も見つからないし、記憶もない。だから、感覚的には非常によくわかるんですね、絶対言わないけど。あ、言ってるか。
 さんが雑誌のコアなのはもちろんで、「レフト・アローン」も討議で述べた通り、特に冒頭が非常にいい。俺は柄谷さんにも色々文句を言ってるけど、さんを一言で総括する場面は正確だと思いましたね。さんの画像がかっこいい、実力の三倍ぐらいかっこいいのも見ての通りです〔会場笑〕。寄稿も角田さんのエッセイを筆頭に面白いものばかりで、法律学の論文もまだ拙いけど、一生懸命書いているんじゃないかな。
 あと、最後に大杉さんか、言ってないのは。

大杉 また配慮ばっかりしている。

鎌田 いやいいじゃん、今のは広告ですよ。「重力」のために俺がやりたくてやってるんだから、これは普通の配慮でしょ(笑)。

井土 これはみんな買ってる人ですよ(笑)。

鎌田 いや、読んでどこが面白いかってことですよ。で、俺は大杉さんの批評にはやっぱ疑問があるんだ、絶対。〔会場笑〕つまりさ、「作者が死に、その代りに著作権者が誕生した」ですか、あるいは「翻訳者が死に翻訳権者が誕生した」ですか。68年において現象的な革命とは別個に法制度網が完成していった事実を跡づけるのは、大杉さんの抜群に見事なところなんですね。でも読んでたら、主体の責任とか、そうした不自由において、なお我々に何がなし得るか、という問いを、全部解除するものにしか俺には見えなかったんです。それは違うの。

大杉 でも僕の翻訳自体が、ある意味で主体的抵抗ではないんですか。駄目ですかそれでは。

鎌田 じゃあわかった。それならいいんだ。でも俺は可能だと思ってるんだ。別に68年以後でも何でも、ベンヤミンが……

大杉 僕はほんとは最初は、翻訳を海賊版で出そうと思ってたんですよ。そしたら「重力」の参加者たちがちょっと怯えて。

鎌田 全然怯えてないよ。

大杉 それで出版差し止めとかになったら困るとか、そんなのやりたくないって言うから、まあ僕はそれだったら交渉してきましょうということで交渉したんです。

 怯えたわけではなくて、単に知らなかったとかね、アマチュア的だとかいうふうになると恥ずかしいということです。

大杉 でも大澤さんはさ、明らかに嫌だと言ったよ。

大澤 だって、あれは攻撃的ということじゃなかったじゃないですか。単に知らなかったという話じゃなかったの。

大杉 いや知らなかったけど、まあうすうす察してたけどね。

鎌田 僕が言いたいのはさ、68年があるからもう二葉亭や小林的な翻訳……。小林の翻訳なんかちっとも俺はいいと思わないけどさ、二葉亭がやった翻訳とか、魯迅やベンヤミンがやった逐語訳が制度的に不可能になってる、と大杉さんに言われても俺は納得がいかない。翻訳として、純粋言語の実現はどんな悪条件でも可能だと思うんだよね。

大杉 それは何か根拠があるんですか。

鎌田 いや、単に俺がそう思っただけ。

大杉 じゃあ是非鎌田さんは、これから何語か勉強して、翻訳をやってみて下さいよ。

鎌田 うんそうだね。俺は繰り返せると思ってるんだ。有島がやった論争はいつでも可能だと思うし、翻訳に関しても…。

大杉 僕も不可能だとは思わないけども、だから……

鎌田 現実的な条件を見るって所で、本当に大杉さんの批評が止まってるのかと思った。

大杉 いや、止まってますけどね。

鎌田 そうか。止まってるんならいいじゃん。それでその後は、俺が悪条件の下でさらに好き勝手にやるよって書いているんなら、僕の言ってることは間違いだよ。ごめん。

大杉 でも、僕が鎌田さんの有島論に関して持つ疑問は、やっぱり有島はアメリカに行って、英語でものを書いてるんですよね。有島の文学は翻訳の問題と切り離せない。そういう問題について全く鎌田さんは触れてませんよね。有島をやるんだったらその問題は避けて通れないというのが僕の考えなんですが。

鎌田 英語を書いていたことや、特にホイットマンの翻訳の問題を抜かしてるのは本当です。それは、いつか書く、としか今は言えない。わからないことが多いから。ただ、僕は今回やっているうちに、有島が嫌いになっちゃった。だめだよ、自殺する奴は。……切実な必要があるなら、だめとは言わないけど、俺は今は生きて戦いたいんだよね。かっこいい(笑)。でも大杉さんがいま言ったことは本質的で、抜かしている問題はあります。内村鑑三と有島武郎をやったから許してよ。

大杉 でも、内村こそまさしく英語で書いた人でしょ。

鎌田 内村は何か変な翻訳の詩集を出してるでしょ。それがそのまま有島のホイットマンに来てる。それをやる力がないのは俺の不徳の致す所で、これから勉強します。二葉亭から鴎外へ、悪い仕方で流れていった翻訳と別な方向が、内村の訳詩集から有島に行くってことを本当はきちんとやらないといけない。

大杉 むしろ逆に、鎌田さんはある種の神秘主義に陥ってるんじゃないかという気がするわけですよ。二葉亭の翻訳みたいなものの中に、何かこう、理屈で割り切れない神秘的なオーラみたいなものが……

鎌田 いや、全然そんなことないよ。二葉亭のツルゲーネフなんて、俺は全くいいと思ってないもん。魯迅と二葉亭の決定的な差は、ツルゲーネフをやらなかったか、やってしまったか、という点で、それはすでに竹内好が確認してる。俺も全くそうだと思う。ただ、だめなものが二葉亭にあっても、いいものへの道を行けばそれで済むことでしょ。それは分析できると思う。でも、たとえばさんが二葉亭の翻訳稿を徹底的に比較したりしていて、自分がそれに何か付け加えられるとは思えないんだよね。結局、俺には外国語はできない。それだけでしょ。

大杉 英語の先生でしょ、予備校の。

鎌田 そういうこと、ばらしちゃいかんよ(笑)。現代文か小論文だと思わせないとさ。でも、言語は別に翻訳だけじゃないよ。論争とか引用の中で、同じことをやれると思うな。勉強もするけど。

(つづく)

(2003年4月6日 青山ブックセンター本店カルチャーサロン青山にて)
(構成:長谷川一郎)